翻訳 朴婉緒(朴ワンソ)の「裸木」解説4
4実存的孤独と〈愛〉、その弁証法的反転
イ・キョンとオクヒドが脱出欲望を高ぶらせながら、その欲望によって自分自身の存在を証明して見せようとする時、彼らが脱出を願う状況が戦争なら、その状況は彼らの自発的な努力なしでもいくらでも打開できる状況だ。なぜなら戦争という特殊で一時的な状況だからだ。このように見ると、彼らの脱出欲望あるいは別な人生を望む夢は、脱出が根本から封鎖された絶望的な状況の中からの夢であるよりは展望がある、実現可能な夢になる。
しかし、彼らが置かれた状況が人間の実存問題と結びついた状況だと言うなら、その意味は全く変わる。人間に備わった存在論的孤独は、一時的にだけ経験するようになるもので、逃れられるものでもなく、戦争という極限状況が終結すると言って、消えるものでもない。朴婉緒が『裸木』の最終章で言っているように、誰も自分自身の内部に他人と分かち合えない余分な自分自身をもっていて、それが戦争や青春時代にだけ局限された問題ではないからだ。この場合、彼らの脱出欲望はもう少し悲劇的な夢だと言える。
まさにこの地点から我々は『裸木』の意義を探すことができる。『裸木』はユ・ジョンホ式の表現では人間暮らしの根源的な孤独を意味する、人間に備わった存在論的孤独を捕らえたことにある。しかし、存在論的孤独を捕らえることより重要なことは、朴婉緒がその孤独から人間が逃れられないという網ではなく、我々の生命を構成する一つの要素として描いている点だ。それで『裸木』には〈人間は根本的に孤独な存在〉という事実が浮き彫りにされていながらも、逆説的に愛の必要性と意味が強調されている。
もちろん、この時の愛というのは男女間の愛だけを意味していない。イ・キョンとオクヒドの間の愛も一般的な男女間の愛と同じではない。イ・キョンがオクヒドに愛の感情を抱くようになる契機を推察すると、彼女はすべてのものが戦争に似た灰色だったその時代、他の人々とは違ってオクヒドの目にその灰色による〈疲労と傷心〉、深い絶望感が漂っているのを感じる。彼の目の中に自分自身のものと瓜二つの絶望感を見たために、彼女は彼に愛を感じたのだ。
しかし実際は、オクヒドが他の人々と違ったというよりは〈彼は他人と違う〉と信じるイ・キョン自身の注文か、あるいはオクヒドが他の人と違うことを望む彼女の念願が、彼をそのように見せただけだ。イ・キョンには愛する誰かが、即ち自分自身の絶望と熱望を投射する誰かが必要だったのだ。したがってイ・キョンがオクヒドを愛すると言う時、その愛というものは男女間の愛に限定されるよりは、寂しさを分かち合って忘れられるすべての通路を含む概念なのだ。つまりそれは他人に向かった熱望それ自体のわけだ。
愛するチンイお兄さん、少しきまりが悪いですが、このように呼びたいです。隣の犬の吠える声も聞こえないほど広い家に寂しく生活しているからかと思います。この恐ろしいほど完璧で寂寥を耐える方法は愛する人々を、愛する男、愛する友達、愛する血縁があったと信じることだけです。ではさようならー
-169頁
このようにイ・キョンは愛する人々をそばに置くことが孤独から自由になる方法だと信じる。彼女は、年上で貫禄のあるサジンがカラーの家族写真を取り出しながら、絹の生地に一家族を描いてくれと頼むや、お金を受け取らず絵を描いてあげたがったり,〈「しばしば愛するという言葉を虚空にでも言わなければ我慢できない時がある」〉(181頁)という緑色の目のGIジョーに好感を感じることもある。このようなイ・キョンの心理の無意識的な動きは、自分は崩壊した家族関係の回復に対する熱望の発現だが、根本的には他人に向けた熱望の噴出なのだ。勿論、人間の存在論的孤独は他人に対する熱望あるいは愛を生み、その愛による挫折は人間を再び他人と分かち合うことができない孤独の中へ押し入れる。この弁証法的反転は人間が存在する限り終わらず、終わることができないのだ。『裸木』を含む、6・25戦争と分断体験を取り扱った小説によって、朴婉緒の復讐の文が終わらないのと同じなのだ。
(筆者 ヨンセ大 朴サカジョン)