翻訳 朴婉緒(朴ワンソ)の「裸木」解説3
3投射された欲望、存在証明の悲劇性
このように彼らが互いに脱出口になれないなら、どのように彼らは灰色の幕から脱け出せるのか? イ・キョンはGIジョーとの事件、オクヒドの家での一晩の非常識な行動を通して、灰色の幕に亀裂を加えようとする。特にジョーを通して数多くの無駄なものである自分から脱皮できると信じた彼女は、ジョーに会いにキョンソ・ホテルに行く。しかし、ジョーがベッドの端のスタンドの明かりを付けて、ベッドシーツが血の色に染まるや、彼女は自分の体がヒョキ兄やオキ兄の体のようにシーツを赤く染めて、ジョーによって惨く醜悪に粉々にされるように感じるのだ。
そしてその瞬間、彼女は自分が恐れていたものが古家の砕けた屋根ではなく、兄達の死が自分のせいかもしれないという呵責だったことを悟るのだ。その時まで彼女は兄達を行廊房(表門の両脇についている部屋)の押入れに隠そうと思いついたことが、自分だったという事実を忘却したふりをしたり、避けていたりしたが、彼女は自分がその事実を避けることによって、兄達の死から自分が自由になったのではなく、かえって不安と恐怖に苦しむようになったという事実に気づいたのだ。それだけではなく、彼女は自分の非常識な行動が自分を蘇らせるのではなく、兄達に起こったことと同じ破壊なのに気づき、何より自分に兄達の死に対する呵責よりは、自分の生を営みたいという人生への欲求が、なお一層強いことに気づくのだ。それで彼女はジョーに自分を壊さないように、破壊しないように声を張り上げるのだ。
反面、彼の存在を束縛する鎖、即ち多数の家族に責任を負わなければならず、彼らとともにこの戦争を耐えて生き残らなければならないという避けられない運命から逃れて、人間として存在したいと望みながら、何より画家としての自分の姿を取り戻そうとするオクヒドは、自分が置かれている状況について絶望感と自分の存在を証明しようという欲望を、絵画の中の木として形象化することによって平静さを取り戻すのだ。彼がそのほの白い質感の背景の中で旱魃で枯れたように見える木は、彼が置かれた状況と彼の心理状態をそのまま込めているが、自分の状況を目に見える絵として昇華させることによって、彼は自分の状況、また客観的で冷静な視覚で眺められる余裕を確保できるようになる。のみならず彼はその絵を通して画家としての自分の存在の意図確認ができるようになる。
こうして見ると、イ・キョンとオクヒドはお互いに愛し合ったというより、お互いから自分の念願を形作った幻想を見たわけだ。現実を逃れて燃えた欲望は、彼らにその幻想を脱出口によって見させた。イ・キョンが失った兄弟をオクヒドによって回復しようとするなら、オクヒドは生活苦から逃れた、人間らしい人生、芸術家としての人生がまだ可能だという確信をキョンアを通して得ようとした。彼らはそのように自分の夢を相手に投射することによって、終わる気配のない戦争が追い込む不安を耐えようとしたのだ。オクヒドは黄泰秀と対面した席で、イ・キョンに対する愛を一方で認めながら一方で否認するが、オクヒドの発言から我々は彼の愛が彼自身の欲望の投射だったと確認できる。
「あ、どうしたら君にわからせられるのだろうか? 僕が生きて来た、発狂しそうに暗澹とした年月を、その灰色の絶望を、その数多い屈辱を、家庭的としてではなく芸術家としてね。僕は今にも窒息しそうだったよ。この絶望的な灰色の生活で、ふとキョンアという豊かな色彩の蜃気楼に、恍惚として精神を売ったというので、僕はやはり破廉恥な痴漢だろうか? この蜃気楼に捧げた少年のような憧憬がそれでも不道徳なのだろうか?」
272~273頁
「キョンア、キョンアは僕から離れなければならない。キョンアは僕を愛しているのではない。僕を通してお父さんとお兄さん達の幻を追っているだけだよ。もうその幻から自由にならなくちゃ、ね? 勇敢に一人になるのだ。勇敢な孤児になって見なさい。キョンアであればできる。自分が一人だという事実を恐れずに受け入れなさい。潔く勇敢な孤児としてすべてをもう一度始めて見なさい。愛も夢ももう一度始めから」
273頁
したがって妻のある男のオクヒドがイ・キョンに愛を感じたとしても、我々はその愛に倫理的な定規を突きつけながら断罪することはできないのだ。たとえその光がオクヒド自身の作り出した蜃気楼であっても、彼にイ・キョンは灰色の生活を辛抱させてくれる一筋の光だったからだ。同じくイ・キョンも彼女だけの幻覚の中にはまりこんでいたわけで、オクヒドが描いた木の絵に対する彼女の解釈が、それを証明してくれる。旧正月を目前にしてオクヒドの家を訪れたイ・キョンは、彼が描いた木の絵を見るようになるが、彼女はその木に〈花も葉も果実もない惨憺たる姿の枯木〉(195頁)、つまり〈「光と色彩の貧困、だから命の喜びへの飢渇」〉(197頁)を見るのだ。彼女はみすぼらしくおしゃべりな俗物共、戦争、殺伐とした街と灰色の建物としゃれこうべのような街路樹のせいで、彼が一枚の葉もなく枯れた木を描いたと確信したのだ。
しかし、そういう解釈はどこまでも彼女の精神的な恐慌状態を投影するだけだ。なぜかといえば、中年になった彼女がオクヒドの遺作展でその木を再び見た時、彼女はその木が枯木ではなく、〈春を信じる心〉(285頁)で毅然として冬を耐える裸木だという、全く異なった理解に達するからだ。したがってイ・キョンにもその木は自分の心理の投影物であっただけで、オクヒドと同じく彼女も徹底的に自分の内面世界に閉じ込められていたわけだ。
オクヒドが木を絵でもって画家としての自分の存在を確認するなら、イ・キョンは黄泰秀を受け入れることで、自分だけの蜃気楼から逃れる。灰色の代理人だった母が急性肺炎で死んでしまったという点で、彼女が灰色の幕を主体的に克服したと見ることができる。しかし、彼女が非常識な行動だという自らの意志でもって、自分自身を抑える呵責から逃れたことを否定することはできないが、それは結局彼女が灰色の幕から逃れることを意味するのだ。したがって、彼女はこれ以上戦争を待ちも望みもしない。再度繰り返せば、彼女は非常識な生への憧憬から日常的な生へ帰還しているのだ。