花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

「勅使河原蒼風 花伝書」

2019-07-18 | アート・文化


「流派は違うも、お花を活ける心は同じでしょう。蒼風先生の想いは共感するものが多いです。」と美しくしたためられたお手紙とともに、医学の道における恩師の御奥様から頂戴した大切な御本である。下記に掲げたのは、本書第一部・花伝書および第二部・語録の中の御言葉である。

「イサム・ノグチがうちへきていった言葉がなかなかいい。
松をいけて、松に見えたらだめでしょう。
松が松でなく見えることは、大変ですね。
彼は日本語がヘタというが、こんなうまい日本語はめったにない。
わたしがいちばんきらいな文句、
 花は野にあるように
というのとよき対照である。」
 この言、利休のものというが、あとから愚人のつくったネゴトにちがいなし。」

(「勅使河原蒼風 花伝書」, p15, 草月文化事業株式会社・出版部, 2004)

「いけばなは、自然と人間がぐっと近づく仕事である。これほど自然と人間とが近くなれる仕事はないと思う。
 自然と人とが和した絶頂の、そして境地のいちばん明瞭な姿がいけばなである。
 自然が人の役にたち、人が自然の役に立つ。自然は人によって生き、人は自然によって生きる、という道理を簡単に教え会得させるのも、いけばなの役割の一つである。」
(p51)

「自然の姿をよく見て、それをそっくりいけばなに移すなどということはある程度はできても、究極の目的にそれを求めたら、絶対に失望するだろう。なぜかといえば、自然というものはもう完成したものだからだ。それを、ある部分をとってきてまたもとの姿に、ということはもうできないのだ。
 とってきたもので、もとの姿になかったものを作り出す。これはいけばなならではできないことなのだ。それがつまり、造形性である。」
(p57-58)

「自分の線を持つこと。どんな植物の中にもある線の中から、自分独特の線を引き出して、そこに自己を表現する。そのために、線の勉強が大切である。そうして自分の線を獲得できたなら、作品はいつもいきいきと新しい魅力をたたえることになるだろう。」
(p91)

「枝は鋏を入れすぎよ。どの枝でも切り捨て、または切り落としすぎよ。(中略)
 このとき、まあわからぬから、何だかこわいから、そっくりしておこう-------ということでは。鋏の入れ方、というより枝の作り方は絶対上達しないだろう。
 まあそっくりしておこうとなったら、鋏を入れる技巧の妙はどうしても摑めない。どこでもかまわない。無茶苦茶でもよい。鋏を入れて切り落としてみることだ。これは乱暴のようで、決して乱暴ではないのだ。この方法以外に、鋏の入れ方、枝の作り方を会得する方法はない。」
(p102)