花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

未病と亜健康│「医と人間」

2019-08-14 | 漢方の世界

生け花木版画

『医と人間』(京大元総長・名誉教授、井村裕夫博士編)は、第29回日本医学会総会(2015年、京都市)開催に合わせて出版され、参加者には会場で配布された書である。「医学の最前線」、「医療の現場から──きずなの構築のために」という二つのサブテーマの下に、11人の各領域の専門家がお寄せになった現代医学・医療現場からの報告である。冒頭には、医療関係者のみならず一般の方にも読んでいただきたいと考えて、多くの部分をインタビューから書き起こす手法を取ったとある。現行の西洋医学・医療の基本姿勢と行動指針、課せられた責務と課題、そして最先端の医療技術の展開からさらなる未来展望までを包括的に学ぶことができる最適の良書である。

会頭講演および本書の中で井村裕夫先生が強調された《先制医療》は、病気が明確に発症する以前に一定の確度で予測し医療介入を行ない発症を遅らせたり抑制するという概念である。個人の遺伝素因と胎生期から始まる環境を調べ、「慢性の非感染性疾患(NCD, Non-communicable Disease)」(心筋梗塞、糖尿病、がん、肺気腫などの慢性閉塞性肺疾患など、感染症以外のほとんどの病気を包括する)のハイリスク群の診断を行って早期治療を含む医療介入を行うことを意味する。従来の予防が全ての人ないしは集団を対象とするのに対し、《先制医療》は個別の予防を目標とする。

そして《先制医療》と対比された言葉が、「漢方では、病気があっても本人が知らなければ未病なのです。」と本書で述べられている、東洋医学における《未病》である。《未病》は、二十四節気の養生で取りあげた中国最古の医学書『黄帝内経・素問』にある言葉である。四氣調神大論篇において「是故聖人、不治已病治未病。」(聖人は已病を治せず、未病を治す)と記され、聖人はすでに完成した疾病の治療は行わず、未だ疾病とならぬ内に方策を講じるという意である。完成した病の治療はせずというのは、聖人にははるかに及ばない現代の臨床医には大いに抵抗がある。元来の《未病》は未完成の病気を意味し、ここでは自覚症状に左右されず早期介入により病期の進展を遮断することの重要性が強調されている。

現代の西洋医学の進歩は未だ顕在化しない疾病の診断能力を飛躍的に発展させた。しかしルーチンの各種検査を行った範囲で異常所見が確認できずとも、暫時的に “不定愁訴”と称される様な不調の症状が持続する病態は決して少なくない。また自覚症状はなし、通常の臨床検査で異常なし、遺伝子検査でハイリスク群と診断される例は上記の《先制医療》の対象例となるのだが、正常か異常かで大別する西洋医学的見地から見れば、すでに病人の範疇に入るのか、あるいは治療の先取りをするもののいまだ健康人と分類しておくべきなのか。

健康と疾病の間には、健康でもなく疾病でもない中間状態が存在する。健康であるのは第一状態、疾病があるのは第二状態、そして中間の亜健康状態は第三状態とされる。王育学教授が提唱した《亜健康(Sub-health)》とは、自覚症状があるが系統的な諸検査で異常がなく病気がみつからない状態とされている。《亜健康》は固定した状態ではなく流動的な過程であり、調整にて健康状態に導くことが可能であるとともに、対処が適切に行われないと疾病へと発展する怖れがある状態でもある。 

ありふれたかぜ症候群(普通感冒)をとってみても、体内に冷えがある陽虚体質は風寒を、体内に熱を起こしやすい陰虚は風熱を招来しやすい。いつも念頭に置くべき事の一つは、個人々々が自らの看護・介護者となり身体を見守り、毎日の生活習慣の偏倚を注意深く制御してゆくことである。「不相染者、正気存内、邪不可干、避其毒気。」は、同じく『黄帝内経・素問』の遺篇、刺法論篇にある言葉である。その意は、五疫(伝染病)に感染せぬ者は内に正気が存在し、外邪の干渉を許さずその毒気(virulence)を避けうるからだ、である。ペニシリンの発見からはや一世紀近くが過ぎたが、伝染病を含む種々の感染症とていまだ人類が克服した疾病の範疇には至っていない。そして正気の充実、生体の恒常性維持が問われるのは感染症の病態だけではない。

参考資料:
井村裕夫編:岩波新書「医と人間」, 岩波書店, 2015
田代華編:「黄帝内経素問」, 人民衛生出版社, 2005
周宝寛著:「従疲労到亜健康」, 人民軍医出版社, 2013

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