花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

基準というもの

2018-08-11 | 日記・エッセイ


生け花において主要な役枝を組み合わせた後に、文字通り重なる枝葉のみならず、同じ方向に延びる枝葉(イメージが重複する)を落とさねば、目指す美しいかたちには至らない。生け花と医業は一見関係はなさそうに見えて、其の実必要とされる行動原理が結構重なる。医療業務は当機立断なくしては成り立たず、例えトリアージが必須な状況とは異なる平時であろうとも、絶えず何かにつけて取捨選択の決断が求められる。諸々に優先順位をつけて処理してゆく習いは職業を通じて否応なく培われた筈である。それでもこの一枚一枝一蕾をどうするかと何時も遅疑逡巡し、花のかたちを造った後になおも後ろ髪を引かれる心情が消せない。初めて花鋏を握ってから幾年月が過ぎただろう。いまだに不得要領なこの身の拙劣さは言うまでもない。それに加えて、生来、背後に残し置くものに果断に引導を渡せない優柔不断な性なのだろう。

かつて数寄者の御方々と美術探訪の旅を御一緒させて戴いた時、これは香合に、あれは茶籠の茶碗に、しかし高台がどうの等々の言葉を沢山伺った。お茶に使えるかという基準に合わせて、先々で出会う様々の異国の器は次から次へと不適格の印が押されていった。かくなる私も器を見れば、良い形だが挿した時のつり合いを考えると口の大きさに比し丈が短いなどと、華道をちびと齧った青二才らしく、今やバイアスがかかった眼で見ることから逃れられない。人が勝手に張り付けた“値札”が何ら普遍的な美的価値を保証するものでなく、一つの選に漏れて捨て置かれたものは一つの基準から外れただけである。思えばどの道を歩くにも、何かをよしとして手元に選び、どれかを不要と棄却してゆかねばならない。その行路を歩き続ける限り、其処で“正しい”とされるものの見方は何処までも追いかけてくる。

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