花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

後白河院と信西│井上靖著 『後白河院』

2016-01-30 | アート・文化


「院はご自分を取り巻く誰にも心をお預けにならなかつた。それは院がお生れながらにして持たれたご性格であるというより、そのようなお立場に立つことを運命づけられた稀有な天子であらせられたのである。保元以来四十餘年天下をお治めになり、その間に爲義、忠正、頼長、信西入道、信頼、義朝、西光法師、成親、俊寛僧都、頼政、以仁王、それから數多くの平氏の公達たち、あるいは義仲、行家、義經と、院の御前に現れた公卿武人を算えたら算え切れない數に上るが、いずれも非業な最期を遂げている。その中には院にお味方した者もいるが、多くは院と對立關係にあつた者たちである。武人という武人は一人殘らず院にとつては敵と言うべき存在だつたのである。院はそうした武人や公卿たちとお鬪いになり、正しく言えばただひとりでお鬪いになり、結局はお勝ちになつたのである。 そうした中で多少でも別の見方をしなければならぬ者があるとすれば、それは信西入道ぐらいであろうか。」(『後白河院』p214-215) 

後白河院をめぐる四人の語りが描かれたオムニバス形式の小説、井上靖著『後白河院』(筑摩書房、1972年)、第四部の一節である。「春の近づく気配と共に、その春を呼ぶためにひそんでいた穴から出ずにはいられない切れ者たち許り」が犇めく時代、「院の御一生にわたって御前に現れた夥しい数の公卿武人たちの中で、信西こそただ一人の純粋なものを持っていた人物」と語られているのが信西入道である。しかしこの終章において、「院は信西自身さえ気付いていなかった信西という人間の持つ不気味なものにいち早く勘づかれ、それをお遠ざけになったのである」とも綴られている。

先立つ第一部の語りにおいて、新造の内裏を近習とともにお廻りになった時、天井や柱の構築を滔々と御説明申し上げる信西より少し離れて斜め横に立ち、その横顔に視線をお當てになっている院の眼が描かれている。信西は終生、このような院のぬるりとした眼差しに気付かない。理に適った使命を果たすことこそ恩顧を得ると信じて疑わない一途さそのものが、あろうことか自らに悲劇を招き寄せていることなど知る由もない。博覧強記の学者としての面目躍如で、「天下の政はかくあらねばならぬという信念」のもとにまつりごとを果敢に遂行して来たのだが、頑迷固陋とは紙一重のその頑固一徹さがはらむ累卵の危うき行く末を、院が冷徹に見据えておられるとは毛筋も思わなかったろう。

平安末期から鎌倉に至る怒涛の動乱の中で、少しも揺るがない後白河院の眼はひたすら非情である。そして将来の仇(あだ)となる使い古した一枚の札を、院は弊履の如くお捨てになったにすぎない。長年慣れ親しんだ器械に抱く愛着のようなものさえ其処にはない。ましてや泣いて馬謖を斬る様な心のゆらぎなど微塵もない。小説には淡々と、御心が離れたことで追手に諍うことなく従容と自刃したという信西の終焉が述べられている。ひたすら己が美徳と誇るものを専一に院に奉ってきた信西が、これが為に忌まれ捨てられたという事を最後まで知らずにいたのならば、ただその事だけがせめてもの慰めかもしれない。京田辺市に隣接する綴喜郡宇治田原町には彼を傷む信西入道塚がある。





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