花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

天涯に雪ふりつむ│師匠と弟子のはなし

2017-12-29 | アート・文化


京都岡崎、京都国立博物館で120周年特別展「国宝」(10月3日~11月26日)が開催され、軸装の与謝蕪村画「夜色楼台図」(やしょくろうだいず)が最終の第四期に展示された。蕪村晩年の謝寅時代に描かれ、胡粉を用いた(これも正統文人画法の南画から見れば邪道となる)水墨淡彩画である。本画を蕪村の人生の表象、魂の象徴と論述なさったのが、国際日本文化研究センター早川聞多名誉教授書『与謝蕪村筆 夜色楼台図』である。本書の第五章《横者三部作と徂徠学》には、蕪村が江戸で荻生徂徠の高弟にして儒学者・漢詩人の服部南郭に学んだことを踏まえ、蕪村と徂徠の思想との深いかかわりが示唆されている。文人画法から見れば「譎にして正ならず」と田能村竹田をして評せしめた蕪村の表現のあり方について、宋儒の理学・朱子学VS徂徠学の視点からの論説である。



「蕪村自身、常づね支考・麦林の句格の賤しさを指摘してゐたが、決して切り捨てるやうなことはしなかった。彼等の表現の内にも、人間の実情の一端が巧みに映し出されてゐる様を、蕪村は確実に見て取つてゐたのである。このように「俗流」の内にも「長ずる所」を見出そうとする姿勢こそ、蕪村の最も深い人間理解に基づいた信念であった。」(「与謝蕪村筆 夜色楼台図---己が人生の表象」 ,p98)

「春泥句集序」に示された、蕪村と「進んで他岐を顧ず」(本道から外れた脇見をせず)であった召波との問答は噛み合わない。
余(蕪村)曰「麦林・支考、其調賤しといへども、工に人情世態を尽す。されば、まゝ支・麦の句法に倣ふも又工案の一助ならざるにあらず。詩家に李・杜を貴ぶに論なし、猶元・白をすてざるが如くせよ。」
波曰「叟、我をあざむきて、野狐禅に引くことなかれ。画家に呉・張を画魔とす。支・麦は即ち俳魔ならくのみ。」
(与謝蕪村集 ,p336)

徂徠門下の言行や逸話を記した随筆『蘐園雑話』(けんえんざつわ)には、服部南郭は「もと京都より歌にて柳沢候にかゝえられしとなり。」とある。柳沢吉保に歌才を認められ厚遇を得るも、出自を越えて士分として召し抱えられることはなかった。候の逝去後は「詠懐」十五首の中で「此を釈(す)てて古路に帰り、去って大江の浜に釣る」と詠んだ心にて柳沢家を致仕し、不忍の池の畔に私塾、芙蕖館を開いて舌耕筆耕の徒を貫き「詩文は南郭を推す」という地位を確立した。人となりは「南郭は謝安に似たる人なり。喜怒色にあらわさず、自らの見を立る人となり。」と中国・東晋の名宰相・謝安に譬えられている。後漢から東晋までの士大夫の逸話集『世説新語』雅量第六において、「公の貌閑(のどか)にして」、「其の量の以て朝野を鎮安するに足る」、「謝の寛容、愈貌に表る」、「神意甚だ平かにして瞋沮(しんそ)を覺えず」等々、度量広闊、泰然自若であった謝安の風姿を語った話は枚挙に遑がない。謝安に見立てられた南郭は推して知るべしである。

そして南郭の師、徂徠も又、『徂徠先生答問書』における「人は活物にて候。夫故に國家を治候も、人を教訓いたし候も、又は我心我身を治め候も、木にて人形なと割見候ごとくにはならぬ物に候。」の実践を貫いた人である。先の《蛤のはなし》の如く女は対象に含まれないが、『蘐園雑話』で語られる徂徠の挿話には弟子をひたすら思いやる仁恕の心が溢れている。
「徂徠は極めて才を愛する人にて、塾中の少年客気に使はれ、娼家に遊び出奔したるをも、再度戻して諫戒せられしこと度々なり。」(蘐園雑話│続日本随筆大成4, p70)
「徠翁は前にも云ふ如く、才を愛して無行の人を棄てざること、伊藤一郎などは無行の人にて折々亡命して印肉を売ありきしが、道にて徂徠に出合、早々町のうらににげ込しを若党に追かけさせ、強て連返り手前に置かれしとかや。」(同, p75-76)

また『太宰春台・服部南郭』の疋田啓佑著、服部南郭、第九章《師荻生徂徠の死》では、視覚障害者となった高野蘭亭に対する『蘐園雑話』の挿話を引用した後で、「徂徠の教えには人間的暖かさが感じられ、そこで才能を伸ばした人々にとって、徂徠の死は大きな悲しみをもたらした。」と記されている。
 医の道であれ芸の道であれ、古今東西、どの道で修練を積む者であろうとも、良きところを伸ばさんと乏しき才を愛し育んで下さった恩師の御心を、終生、その弟子が忘れることはない。



末尾に題詩「夜色楼臺雪萬家」の原詩とされる、中国明代の文人、李攀龍(字は于鱗、号は滄溟)著『滄溟集』巻八収載の「懐宋子相」を掲げる。李攀龍が故郷から離れた天涯の地、北京に居て、郷里へ去った友の宗臣(字は子相、号は方城)に想いをはせた詩である。秋杪(びょうしゅう)は晩秋、仙槎(せんさ)は海上と天河(天の川)を往来する筏である。
 本邦で和刻本として出版された『明七子詩選注』には「懐宋子相」の他、李攀龍や宗臣など明代、嘉靖年間の七人の文人の詩が載っている。これらの書には、漢武帝の時代、匈奴に拘留された蘇武が雁の足に帛の文を結び付けて無事を伝えた鴻雁伝書の故事、さらに桂叢、山中桂樹や桂樹隠(けいじゅのいん)の一連の典故となる、楚辞・招隠士における「桂樹叢生兮山之幽」が注として記されている。なお桂に関しては《かつらと桂│桂の字をふくむ生薬》(2015/1/26)の記事を参照頂けたら幸いである。
 「独往」は文字通りひとり往くこと、自然にまかせ世俗を顧みないことを意味する。『文選』の「許徴君(自序)詢」の語釈には「淮南王荘子略要曰、江海之士、山谷之士、軽天下、細万物、而独往者也。司馬彪曰、獨王任自然、不復顧世也。」(江海に隠棲する士人、山谷に隠棲する士人は天下を軽んじ万物を細(いや)しとして独往するものなり)とある。「江海之士」、「山谷之士」は『荘子』刻意篇、「軽天下、細万物」は『文子』九守にある言葉である。

  懐宋子相 李攀龍
薊門秋杪送仙槎、此日開尊感歳華。臥病山中生桂樹、懷人江上落梅花。
春來鴻雁書千里、夜色樓台雪萬家。南越東呉還獨往、應憐薄宦滯天涯。


薊門の秋杪仙槎を送る 此日尊を開き歳華を感ず
病に臥て山中桂樹を生ず 人を懐て江上梅花落つ
春來の鴻雁書千里にて 夜色の樓台雪萬家たり
南越東呉に還た獨往す 應に憐べし薄宦天涯に滞るを

参考資料:
早川聞多著:「与謝蕪村筆 夜色楼台図---己が人生の表象」, 平凡社, 1994
山本健吉, 早川聞多著:「蕪村画譜」, 毎日新聞社, 1984
京都国立博物館開館120周年記念 特別展覧会『国宝』展図録, 2017
清水孝之校注:新潮日本古典集成32「与謝蕪村集」, 新潮社, 1979
森銑三, 北川博邦編:続日本随筆大成4「一字訓・蘐園雑話・酔迷餘録・零砕雑筆・塵塚」, 吉川弘文館, 1979
目加田誠著:新釈漢文大系77「世説新語 中」, 明治書院, 1976
今中寛司, 奈良本辰也編:荻生徂徠全集 第六巻, 河出書房新社, 1973
山本和義, 横山弘注:江戸詩人選集 第3巻「服部南郭 祇園南海」, 岩波書店, 1991
田尻祐一郎, 疋田啓佑著:叢書・日本の思想家17「太宰春台・服部南郭」, 明徳出版, 1995
李伯斉選注:「李攀龍詩文選---済南歴史名家詩文選」, 済南出版, 2009
長澤規矩也編:和刻本漢詩集成 総集篇7 「國朝七子詩集註解・明七子詩解・明七才女詩集・明九大家詩選・明詩大觀・三家絶句・明賢咏落花詩・明詩節義集・列朝詩集」, 汲古書院, 1982
内田泉之助, 網祐次著:新釈漢文大系15「文選(詩編)下」, 明治書院, 1964
星川清孝著:新釈漢文大系34「楚辞」, 明治書院, 1970
吹野安:「楚辞集注全注釈八---惜誓・弔屈原・服賦・哀時命・招隠士」, 明徳出版, 2015
金谷治訳注:岩波文庫「荘子 外篇」, 岩波書店, 1975
王利器撰:新編諸子集成「文子疏義」, 中華書局, 2000