花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

月下渓流図屏風┃特別展覧会「海北友松」

2017-05-02 | アート・文化

京都国立博物館開館120周年記念 特別展覧会「海北友松」図録、京都国立博物館, 2017

話題の京都国立博物館開館120周年記念、特別展覧会「海北友松(かいほうゆうしょう)」(会期:2017年4月11日(火)~ 5月21日(日)、於京都国立博物館、平成知新館)に伺った。友松の後裔が記した「海北友松夫妻像」賛の友松伝には、「誤落芸家(誤りて芸家に落つ)」という武家の血脈と精神を有する武人と評されている。さらには時の体制に反旗を翻し友の亡骸を奪取したと語られる武勇譚のくだりも記されているが、絵師などに落ちる筈はなかっただの、血の匂いのする(ちなみに私は医家なので全く抵抗はないが)逸話だの、芸術家としては大いに異端で興味をかき立てられた。賛には多分に脚色や誤伝があるとあったが、真実どのような芸家であったのだろう。
 展示は第一章「絵師・友松---狩野派に学ぶ」から終章までの十章から構成されている。第八章「画龍の名手・友松---海を渡った名声」の照明を極度に抑えた仄暗い展示室に入れば、壁面の雲竜図から巨龍が浮かびあがる。闇に垂れこめた黒雲の中から顕れ出で観る者を殪さんとする龍に見据えられ、逆鱗に触れた覚えもないのに全身が総毛立つようであった。しばし部屋の真ん中で立ち竦むうちに、知る由もない海北友松の本性を垣間見せられたような心地がした。
 花卉図や竹林七賢図などでは描くにあたり逸脱を許さない現世の花や人の輪郭がある。だが現世には棲息しない異形(いぎょう)の霊獣である龍は、いや獣というには畏れ多く、生きものを遥かに超えた想像的景象である。それが故に画家の深層に横たわるイマージュが自由奔放なかたちで表出されて、万物の木地ならぬ画家の木地が顕露する。友松が描いた雲龍図には、乱世の風濤の中に一歩も引かぬという矜持とともに、断じて許さぬという撃滅や憤怒の意思が奔騰していた。

そして展覧会の最後尾に展示されているのが、雲龍図とは対照的な「月下渓流図屏風」である。歴史の彼方に散逸したかもしれない本邦の優れた芸術作品を、現在にいたるまで精魂込めて保存なさってきた海の向こうの関係者の方々に、この画を鑑賞させて頂いた一人として深く敬意を表したい。「月下渓流図屏風」は、茫洋、幽玄な佇まいの墨絵の中に、其処のみ写実的な彩色の椿(つばき)、土筆(つくし)、蒲公英(たんぽぽ)が点在する。月下の冷え寂びの幽境の中に妙に生々しい実に不思議な画である。色が置かれた花の点景を水墨画の中に置いて経営位置してみせた意についての説明はない。散らした扇面や色紙にしたためられている歌の意を汲めないと全景の意味が掴めない、貼交屏風の様な意味が込められているのだろうか。
 以下は図録冒頭で、京都国立博物館、山本英男学芸部長が記しておられる概説「孤高の絵師 海北友松」の一節である。 
「かくも友松の画が愛された理由は何なのだろう。ほかの絵師の画と何が違うのだろう。ひとつ考えられることがあるとすれば、それは彼ら文雅を愛する人々と友松がその思いを共有させていたからではなかったか、ということだ。言い換えれば、彼らの美意識を十分に理解した上で、それを画という形で具現できる良き友。それが友松に対する彼らの認識であり、評価だったのではあるまいか。和歌を詠み、茶も嗜むという教養人・友松であってみれば、ありえないことではないだろう。細川幽斎や中院通勝が彼を支援し続けたのも、智仁親王が彼を重用したのも、そうした信頼感に根差していたがゆえのことであったと思われる。」(図録 p.45)
 まさにこの絵師、ただものではない。作画注文の期待を遥かに超えてみせる力量を十二分に備えた絵師であることは勿論の事、己のセリングポイントと置かれた立場を熟知し、培った上質のネットワークを駆使して「海北友松」を商業ベースに載せている。言うなれば、その時代の風流貴人が属する美意識共同体の御用絵師としての友松が企画制作した、高級サロン文化圏との一連のコラボレーションが「海北友松」の画なのであろう。そして恐らくお仲間の彼等ならば、先の色絵の点景が担う符号の意なども当然のことなのに違いない。
 素人の最後の戯言として、「月下渓流図屏風」は友松晩年の画境におけるまことの到達点だったのか。時代の選良の美意識に塗り固められた閉鎖的なアウタルキーの中で、武人絵師が終生その界に留まり随順に有り得たのか、野次馬的な好奇心が尽きない所以である。