勤務医であった若き頃の話である。術後順調に回復なさり無事に退院日をお迎えになった朝に、病棟から連絡があり慌てて駆けつけると患者さんの姿は消えていて、ものの見事に病室には何も残っていなかった。その後の顛末がどうなったのか、未払いの一件は主治医の手から離れた。
数年の後、とある公園でその患者さんをお見かけした。公園内に設けられた駐車場の横で、満面の笑みで子供さんと楽しそうにキャッチボールをしておられた。もう私の顔など覚えておられなかったかもしれなかったが、そ知らぬふりでそっとその場を後にした。
歩きながら、二度と振り返らない後ろに向かって、お元気でしたかと無言で問いかけた。わざわざ聞くまでもないやろと答えるかの様に、はしゃいだ幼い笑い声が追いかけてきた。
遥か彼方に古都のたたなづく青垣が見えた。