花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

父の手術器械

2015-10-22 | 日記・エッセイ


自院を開業したかしないかの頃に、父は一時期、某企業付属の診療所に勤めていたことがある。その会社は美術展の作品審査の際、応募された絵画を居並ぶ審査員の前に次々と運んで行く仕事を請け負っていた。煙草を咥えたままの審査員連に一瞥もされず、ただ手をひらりと振られて向こうに行けと合図される作品があり、はなから審査される作品は決まっていた。せめて一目でもみてあげればいいのにと、業務を終えて社に戻って来た人達はこぼしていたという。才能がない私も人並みに色々と夢見た年頃があり、将来は美術系の道に進みたいと言ったことがあった。父はその時、医師になるかならないはお前の勝手だが、芸術の道など絶対にやめろと頑強に反対した。

その父の腓腹部には、若き軍医中尉として配属された熊本で受けた貫通銃創の傷跡があった。連隊近隣の巡回医療も行っていて、業務を終えて帰ってきたら軍医宿舎があった所が空襲で焼け野原になっていたこともあったと聞いた。その熊本時代に知り合った軍医仲間の産婦人科の医師に見込まれた父は、君は非常に器用であり、外科出身だがこれを是非覚えて人助けをしてあげなさいと、ある手技の伝授を受けて手術器械一式を譲られた。外地からの引き揚げの際に、女性であるがゆえに不幸な経験を負った方達がおられる。その状況下に医師として何が出来て何をすべきであったか、色々と異論がある重い命題である。それでも一つの役割を引き受けた時、それを全うしようとするのが医師というものである。

そして半世紀以上過ぎてもなお、それらの遺物が本棚の奥底に丁寧に梱包されて仕舞われていたことを、父の古い医療器具を処分した8年前に初めて知った。最初に見つけた時、耳鼻咽喉科医の私は何の手術器械かわからず、これがそうかと生前に聞いていた話を思いだしてやっと合点がいったのである。実際に使うことはなかったのであるが、父はこれらを最後まで残して逝った。ほとんど全ての古い器械を処分した中で、私はこれだけは捨てることができなかった。そして終生、医師を続ける限り手放すことはないだろう。