ヤマトタケルの夢 

―三代目市川猿之助丈の創る世界との邂逅―
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歌舞伎座『十二夜』短観劇報告2

2005-07-30 02:07:28 | 歌舞伎
正直な告白(笑)

国立劇場行く為、7月7日初日のチケットは流してしまい、
まあ、そのうちテキトーに時間空いたら観にいけばいいや~
くらいに思っていた、十二夜@歌舞伎座

しかし、テレビでメイキングを目撃し、
「これは絶対観にいかねば!!」と思った!のは、一般?の人の
まあ、なんか綺麗~とか、いつもの歌舞伎と違うみたい、等の、
理由ではなく、幕開けの演出を観て、下記に書いたように
「まんま、三国志なんですけど(ーー;)?」
どこが斬新?って、でも、
実際劇場に足を運ばずアレコレ言うのはアンフェアよね、という
個人的倫理観(笑)のもと、後日チケットホン松竹に電話。
しかし、テレビ放映後でチケット完売。前売り購入は不可でした。

というワケで国立も終わり、振休で平日休暇の28日@震度3
当日券狙いで、チケットなければ幕見で良いか~と
早朝(昼の部狙い)から並ぶ根性はさすがにないので
ちんたら11時半頃歌舞伎座へ出向いたところ
(夜の部開演までには画期的に早い来場だけど
1等補助席が4席だけ残っており、あまりの暑さに幕見に並ぶ
気力もなく、予算オーバーだけど、花道からなにから全部観なきゃね、
とつい購入。あとでよく考えたら鏡効果で上層階で観ても
花道映りこんで観えたのでは?と反省。でも
花道使ってないんですけど(ーー;)?
(フツーに登・退場には使用しているけど、“演出的効果”
という意味ではナシ。)

ドキュメントでも放映され、視聴者におお~っと
言わせた部分のひとつが、幕開けの桜の大木がハーフミラーから
浮かび上がるように目に飛び込んでくる場面だと思うのですが、
これが、三国志では、≪舞う粉雪がいつしか、桃の花びらに変わり
背景に桃の大木がす~っと浮かぶ、その前で琴を弾く女性≫
との造形で、蜷川演出これに抵触しとらんか~?
なんじゃ、真似っ子!!じゃん(←ハーフミラー越し映る大木の前で
楽器を奏でる―という意匠が)
とか思ってしまった次第でありました。
(換骨奪胎は歌舞伎の常套手段であるから、本気でコンプレイン
しているワケではないので、蜷川ファンは怒らんように・爆)
でも、新機軸謳いたいなら、○○に似てる~は回避するのが
クリエイターの矜持ではないの?とも思ったり。あるいは、
猿之助さんのように、二番煎じ・三番煎じですー!とフェアに
告白(笑)しとくとか。

私の観劇時も、鏡張りと、桜の大木の美しさ、
演出効果というか道具立てに、ほほ~っと感嘆がもれていましたが、
逆に私はこれに新鮮味を感じられず。
単純に美しいとは思いましたけどね。
チェンバロが同じような旋律を奏で、いつしかその旋律が耳に馴染み
観客にある一定のイメージを想起させるようなあたりも
スーパー歌舞伎の音楽の使い方に似てる。
そして、レミゼ並みに(笑)廻る盆。
もっと芸出せー演出!!と思ってしまいました。(キャー)

そういう意味での「演出」は置いといて、
お芝居は、面白かったです。たぶん、多くの人も観て良かった~
楽しかった~、面白かった~の感想を持てる最大の理由は
『台詞が理解出来た』事じゃないかと。
歌舞伎って何言ってるか分からない!台詞のヒアリングが出来ない
という垣根が取り払われ、芝居の理解がスムース。
とにかく、言葉遊び、しかも韻を踏ませるということでの
駄洒落も多いから、台詞が明瞭ではっきり意味が伝わらないと
もう、芝居自体が成立しなくなってしまう。

しかし、ここがまた、私が引っかかったところでもあり
意味や文言を正確に伝えようとするあまり、
台詞廻しがストレートプレイのそれではないか?
と思える部分もあり、そうなってしまっては歌舞伎で、
あるいは歌舞伎役者の肉体でやる価値は?と。
冗長な文言を、歌舞伎の台詞術で納めるような工夫があれば
時間も短縮、言葉も流れず、端的かつ象徴的にその台詞が
目的とするところの意図や意味が
観客の胸により届くのではないかしら。
歌舞伎で言うところの「言い立て」のような間の使い方でもなく
ホント「(長文の台詞をガンバって)喋ってます!!」的な箇所が
見受けられました。皆が、すべてが、という事ではありませんが。

※筋書未購入・未読のため製作側の主旨は(私には)不明~

しかし、学生時代にもっと勉強しておけば良かったなぁ~と
つくづく(ーー;)(ーー;)後悔先に立たず。
とりあえず、シェークスピアとマザーグースを原語で読んで
おかないと、英語を学習したとは云えんのぉ~、だし
異原語間の言葉遊びの置き換え(通訳にしても翻訳にしても)
の困難さ、あるいは可能な範囲を、ロシア語通訳者にして
現在作家の米原万里さんが著書で書いていて爆笑した事があるが
原作読んでいれば、このあたりの面白さ、含まれるアイロニー
もしくはダブルミーニングな文言とか、もっと堪能できたかも。
(あと、翻訳者の苦労も?)

亀ちゃん凄っ!!と思ったのは、
松緑は奇抜な扮装、メイク(!)をして、ヘンな事やってるから面白い、
ピエロ的な面白さで笑いを取れるワケだけど、
亀ちゃんの場合は、面白いことを言ったり
やったりもしてはいるけど、その伝え方
台詞も所作もそうだけれど、その間の取り方が秀逸。
テクニカル的に面白い!!のだ。
一幕、二幕までは、誰よりも一番大きな拍手を貰っていたのは
亀ちゃんだった。

すでに一幕冒頭で観客の心を摑んでしまい、彼、
いや彼女が出てくるだけで、また何か面白いオチ(笑)が
あるんではないか、何かやらかしてくれるんではないかと客席が
メチャクチャ期待(~o~)しているのが分かるほど。
オチというのは、駄洒落的な、あるいはシニカル、アイロニックな
台詞の面白さを期待しているのではなく
(それもあろうが)
亀ちゃんの演技・肉体の中から生まれる何ものかが
笑いを誘発するであろうこと。他の役者が芝居していても
みな、チラチラと控えている麻阿を観察(笑)
私たちにとっては思わず引き込まれ笑っちゃう~、ですが、
もちろん、練りに練られた演技術なのでしょう。
芸談が亀たよりに書かれておりますが、外題のつけ方が伯父さま風(~o~)

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