吉田松陰と楠木正成
紘一郎雑記帳
一坂太郎先生にお会いしお聴きしました
歴史捜査画像
680年前の「7月12日・新暦」楠木正成は湊川の戦いおいて殉死した。
幕府を倒して天皇中心の国家を創る正成に時代を超えて
松陰は崇敬と憧れを持ち松陰の心の師でもあった。
楠木正成は、延元 元年(1336年 )5月25日(新暦7月12日)
湊川 の地で足利尊氏 と戦い殉節した(湊川の戦い )。
その墓 は長らく荒廃していたが、元禄 5年(1692年 )になり
徳川光圀 が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立した。
以来、水戸学 者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。
幕末 には維新 志士らによって祭祀されるようになり、
彼らの熱烈な崇敬心は国家 による楠社創建を求めるに至り
吉田松陰はじめ、真木和泉・伊藤博文・坂本龍馬・新島襄
江藤新平・大隈重信、そして新選組の近藤勇など
幕末史での果たした役割は違えど皆、熱烈な正成崇拝者であった
この湊川を魂のふるさとと考えていた。
明治になり明治5年同地に湊川神社が建てられたが
それまでは楠公の墓であった。
吉田松陰は長州と京都・江戸の往復の度に
この楠公の墓の前に幾度も訪れ、自身の気持ちを整え日本を思い、
泣き崩れた事もあったのだろう。
松陰は幕末、眼前に迫り来る日本の危機を傍観できず、
幽閉された四畳半の壁に「七生滅賊」の幟を掛けていたのは
松陰の時代から五百数十年も前に生きた楠木正成えの
ラストメッセージだったのだろうか。
命をかけて短い人生(29年)を生きた”松陰先生”の思いは・・
かくすれば かくなることとしりながら
やむにやまれぬ大和魂