紘一郎雑記帳

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日米開戦と天皇のご意思 紘一郎雑記長

2011-12-10 03:43:50 | Weblog

日米開戦と天皇のご意思 
紘一郎雑記長

ソ連が参戦し、広島に続き長崎に原爆が投下された昭和20年8月9日。この日に至っても、ポツダム宣言の受諾条件をめぐり出席者の意見は割れていた。「(遼東半島を中国に返還するよう求められた)三国干渉の時の明治天皇をしのび、戦争を終結することを決心した」。

一刻の猶予も許されない状況で、さらなる被害の拡大を食い止めたのは昭和天皇の決断だった。
 天皇は輔弼(ほひつ)(補佐)機関の決定に対し「拒否権」が与えられていない、とする憲法解釈が支配的だった中で下された「聖断」。16年12月の開戦時も、最終局面で軍部を説得し、戦争を回避する手段は他に残されていなかったといえる。



 しかし、従前から絶えず参戦反対を強調してきた天皇の周囲に、その意をくむ者はなかった。杜撰(ずさん)な見通しで「うそばっかり」(元首相・岡田啓介)の国力再検討の実態が進言されることはなく、軍部の執拗(しつよう)な説得に「結局は一戦避け難からんか」と徐々に悲観論に傾いていった。


 
「必敗」を確信する側近さえ、「皇室が国民の怨府になる」(内大臣・木戸幸一)と天皇の影響力行使に消極的だった。
 12月1日の御前会議。3カ月前の会議で、明治天皇御製(ぎょせい)の歌を詠み、開戦回避を説いた天皇は終始沈黙を貫いた。ここに天皇の心情が反映されていたのではないだろうか。