うちの庭です。…嘘です。ゴールデンウィークに行った「花夢花夢」のチューリップ畑です。文翔館の庭もきれいですし、良い庭はそこらじゅうにあります。
家はマンションなのでもちろん庭などはありません。が、「もし広々とした庭を持っていたら、何するだろうなー」と考えてみると、何もしそうもないということに気づきました。畑を作って何かの作物を植えたりとか、きれいにガーデニングしたり…しないだろうな。「まめさ」が足りないんです。
何もしないでほっぽらかしとくような人は、庭なんか持ってない方が良いに決まってます。荒れ放題で蚊がわいたり、ヘンな花粉を飛ばす雑草がはびこったりして、近所にも迷惑ですからね。つまり自分にとって「庭を持っている」ことの良さは、咲く花を見て季節を感じたり、草のにおいをかいで広々とした気持ちになることですから、庭を「僕が持っている」必要はないわけです。
「わたしはいったい何を持っているだろうか!と考えることがあります。たとえばわたしはチャーリー・ミンガスやマル・ワルドロンのモダン・ジャズのレコード。あまりスポーティーではない何枚かのシャツやセーター。都心の安アパートや古いボクシング雑誌、まわらなくなったコーヒー挽き機械を持っています。なかなか標準語化しない青森訛りも持っているし、病歴も、アダムスやスタインベルグの漫画本も持っています。
だが『持っている』といっても、いつも手に持っているわけではない。
おもうときに、おもうように自由にできるから『わたしのもの』だというふうに考えている、というという程度のことなのです。
だが、おなじような意味でなら、わたしは広い空全体も持っているし、東京の町も持っている、ということもできるのです。つまり『思う時に使用しても、文句を言われない』という意味でなら、わたしの所有の範囲はぐんと広まるのであって、…とくに『わたしのもの』と主張しなくても、わたしは先にあげた以外の数え切れない多くのものを『もって』おり…、言葉をかえていえば、かなりの財産家である、ということもできるのです。」
(寺山 修司 「家出のすすめ」より)
そう考えるとやっぱり自然は一番貴重な財産でしょうね。
家はマンションなのでもちろん庭などはありません。が、「もし広々とした庭を持っていたら、何するだろうなー」と考えてみると、何もしそうもないということに気づきました。畑を作って何かの作物を植えたりとか、きれいにガーデニングしたり…しないだろうな。「まめさ」が足りないんです。
何もしないでほっぽらかしとくような人は、庭なんか持ってない方が良いに決まってます。荒れ放題で蚊がわいたり、ヘンな花粉を飛ばす雑草がはびこったりして、近所にも迷惑ですからね。つまり自分にとって「庭を持っている」ことの良さは、咲く花を見て季節を感じたり、草のにおいをかいで広々とした気持ちになることですから、庭を「僕が持っている」必要はないわけです。
「わたしはいったい何を持っているだろうか!と考えることがあります。たとえばわたしはチャーリー・ミンガスやマル・ワルドロンのモダン・ジャズのレコード。あまりスポーティーではない何枚かのシャツやセーター。都心の安アパートや古いボクシング雑誌、まわらなくなったコーヒー挽き機械を持っています。なかなか標準語化しない青森訛りも持っているし、病歴も、アダムスやスタインベルグの漫画本も持っています。
だが『持っている』といっても、いつも手に持っているわけではない。
おもうときに、おもうように自由にできるから『わたしのもの』だというふうに考えている、というという程度のことなのです。
だが、おなじような意味でなら、わたしは広い空全体も持っているし、東京の町も持っている、ということもできるのです。つまり『思う時に使用しても、文句を言われない』という意味でなら、わたしの所有の範囲はぐんと広まるのであって、…とくに『わたしのもの』と主張しなくても、わたしは先にあげた以外の数え切れない多くのものを『もって』おり…、言葉をかえていえば、かなりの財産家である、ということもできるのです。」
(寺山 修司 「家出のすすめ」より)
そう考えるとやっぱり自然は一番貴重な財産でしょうね。
私は、ハイドンを雇っていたエステルハージ侯よりも、ずっと多彩な音楽を楽しむことができます。
同様に、所有してはいませんが(^o^)/
「持っている」ことの価値が「それによって楽しむことができる」という事であれば音楽家は確かに、聴く人のものです。我々もいつもそれを忘れてはいけませんね。