汪 兆銘
汪 兆銘(おう ちょうめい、1883年5月4日 - 1944年11月10日)
中華民国の政治家。字は季新。
号は精衛(中華圏では「汪精衛」と呼ぶのが一般的である)
知日派として知られた。
原籍は浙江省紹興府山陰県(現在の紹興市柯橋区)。
(wikipedia)
汪兆銘政府の成立
一時は新政府樹立を断念していた汪だったが、ハノイでの狙撃事件をきっかけに、「日本占領地域内での新政府樹立」を決意することとなる。これは、日本と和平条約を結ぶことによって、中国-日本間の和平のモデルケースをつくり、重慶政府に揺さぶりをかけ、最終的には重慶政府が「和平」に転向することを期待するものであった。
上海に移った汪は、ただちに日本を訪問し、新政府樹立への内諾を取り付けた。そして8月28日より、国民党の法統継承を主張すべく、上海で「第六次国民党全国大会」を開催、自ら党中央執行委員会主席に就任した。
そして、日本占領地内の傀儡政権の長であった王克敏、梁鴻志と協議を行い、9月21日、中央政務委員の配分を「国民党(汪派)三分の一、臨時維新両政府(王、梁政府)三分の一、その他三分の一」とすることで合意に達し、彼らと合同して新政府を樹立することとなった。
次いで10月、新政府と日本政府との間で締結する条約の交渉が開始された。しかし日本側の提案は、従来の近衛声明の趣旨を大幅に逸脱する過酷なもので、汪工作への関わりが深い関係者も、「権益思想に依り新たに政府各省から便乗追加された条項も少くなく、忌憚なく言って、帝国主義的構想を露骨に暴露した要求と言う外ない代ろ物であった」[4]、「十月初興亜院会議決定事項として堀場中佐及平井主計中佐の持参せる交渉原案を見るに及び自分は暗然たるを禁じ得なかつた。・・・堀場中佐は自分に問ふて曰く「この条件で汪政府が民衆を把握する可能性ありや」と自分は「不可能である」と答へざるを得なかつた」[5]と回想している。
あまりの過酷な条件に、汪自身もいったんは新政府樹立を断念したほどであった。また民国29年(1940年)1月には、汪新政権の傀儡化を懸念する高宗武、陶希聖が運動から脱落して「内約」原案を外部に暴露する、という事件も生じたが、最終的には日本側が若干の譲歩を行ったこともあり、汪はこの条約案を承諾することとなった。
民国29年(1940年)3月30日、南京国民政府の設立式が挙行された[6]。 汪は、重慶政府との合流の可能性を睨んで、当面新政府の「主席代理」に就任した(民国29年(1940年)11月「主席」就任)。なお、新政府では妻の陳璧君も重要な役割を果たすことになった。
その後、折衝のため数度訪日。民国31年(1942年)12月の訪日時には、大勲位菊花大綬章を授与された。
島本真の備忘メモによると、当時大東亜省並びに中華民国国民政府の要請により同国、南京、上海、蘇州に於いて同国滑空機指導者講習会を開いたと言う。
死去
民国33年(1944年)に入ると、狙撃の際に受けた傷が激しく痛み始め、まもなく下半身不随の重体となった。汪は若い頃から体質的な糖尿病を病んでおり、この糖尿病が傷の症状をさらに悪化させることになった。3月3日には渡日して名古屋帝国大学医学部附属病院に入院。多発性骨髄腫と診断された。汪は身体の激痛に耐えながら闘病生活を続けたが、11月10日、そのまま名古屋にて客死した。
遺体を小牧飛行場から飛行機に乗せて送り出す際には、小磯国昭・重光葵ら当時の政府閣僚、近衛文麿・東条英機ら重臣などが見送りに訪れた。南京郊外の梅花山に埋葬されたが、墓を暴かれる恐れから、棺はコンクリートで覆いがされた。
終戦後の民国35年(1946年)1月15日、国民党第七四軍は、墓のコンクリートの外壁を爆破、汪の棺を取り出した。遺体はまもなく火葬場で灰にされた後、野原に捨てられたという。「漢奸」の墓を残すわけにはいかない、との考えからと見られる[7]。