歴史の真実が此所にある。
アメリカは侵略国家。この歴史的な事実を言わせないために、日本国内のサヨクをして語らしめる。いわく『日本は侵略戦争をした。』などと。まさかのこと、侵略者そのものが是を言い立てれば、『お前等、アメリカこそ押し込み強盗だ。』などと反論されてしまう。それで、是を日本国内の反日政策で飼い慣らした、サヨク・スパイどもに代わりに遣らせてきた。それに対抗すべく、対抗馬の偽ウヨクも用意した。それで沖縄戦を、『日本軍による集団自決強要』 などという極小のことにのみ関心を集約させようと企んできた。
しかし、これに欺されてはいけない。
沖縄戦では日本の将兵の死者数が10万人。民間人もおよそ10万余名死亡してる。そしてアメリカ軍の死傷者は1万数千名。江戸幕府の怠惰が、明治維新の混乱と、その後の戦乱の惨い時代をまねいた。そして日清・日露に辛勝した、その次世代が是に奢って、戦への本当の備えを忘れた。その結果が将兵 200万名の戦死と、民間人 100万名余の死であった。これに対して、集団自決による死は、1000名程度である。
防空壕とか洞穴に避難した、その様な戦意のない者を、火炎放射器とか毒ガス、あるいは砲撃などで殺戮した。これも明々白々の戦時国際法違反である。何故に自称ウヨク民族派(嗤)と宣伝する者たちは、この米軍の非道を言わないのか。それは、この者たちがユダヤ等に支配された、出版や報道で飯を喰っているから。そう、偽の民族派もアッチ側の工作員なのだ。
上陸中のアメリカ軍 (4月13日)
真珠湾攻撃は純粋に軍事施設や軍の艦艇を攻撃目標とした。
これに対し米軍の沖縄攻撃は、沖縄全島を徹底的に蹂躙することで、完全に地上の生物を全て破壊し尽くすという、この世に地獄を出現せしめた殲滅戦であった。雨ポチのサヨとか、飴のタマちゃんのウヨなどが、「日本軍による集団自決強要」などという、茶番の言い合い対立ゴッコなどは、この殲滅戦の惨たらしさを覆いかくさんとする、たちの悪い売国奴の恥ずべき業ではある。
良く言えば日本の戦いは武士道に則ってなされ、
アメリカ軍のそれは 「ヨシュア記」 の教えに沿って為された。
4月1日朝、アメリカ軍は、守備の薄い本島中西部で、陸軍の第7・第96歩兵師団と第1・第6海兵師団による上陸を開始した。戦艦10隻・巡洋艦9隻・駆逐艦23隻・砲艇177隻が援護射撃をし、127mm以上の砲弾44825発・ロケット弾33000発・迫撃砲弾22500発が撃ち込まれた。北飛行場(読谷村・後の読谷補助飛行場)と中飛行場(後の嘉手納飛行場)の占領が第一目標とされた。第32軍が宜野湾以南に結集して持久作戦をとる方針であったために、日本側が中西部沿岸地域に置いたのは賀谷支隊(1個大隊基幹)と急造の特設第1連隊だけであった[31]。日本軍が水際作戦を放棄したため、アメリカ軍はその日のうちに6万人を揚陸して北・中飛行場を確保。4月3日には第7歩兵師団が東岸の中城湾(アメリカ軍呼称:バックナー湾)へ到達し、第32軍は沖縄本島南北に分断された[32]。4月5日までにはうるま市石川周辺の東海岸一帯が占領下に入った。日本軍は飛行場を自ら破壊していたものの、作業期間が短く不徹底であった。アメリカ軍は1日夜には中飛行場を不時着場に使える程度まで復旧、8日には北飛行場へ戦闘機89機を進出させて上陸船団の防空任務を開始した。翌週には夜間戦闘機まで含む144機が展開して強力な防空網を形成してしまった。
第32軍の持久戦方針による早期の飛行場の喪失は、大本営・第10方面軍司令部・航空関係者などから消極的かつ航空作戦軽視と批判の的にされた。米軍の沖縄本島上陸前からの不信が戦いの最中に露見する結果となった。度重なる大本営や連合艦隊の飛行場再確保の要請は第32軍司令部を混乱させ、第32軍内部でも積極反撃すべきか激論が交わされた。4月4日には、長第32軍参謀長主導[注 3]で攻勢移転が一時決定されたが、島南東部の港川方面への連合軍上陸部隊接近との報告により、中止された。この港川方面への「上陸部隊」は、陽動作戦任務のアメリカ第2海兵師団で、実際には上陸しなかった。
4月6日から、日本軍は特攻機多数を含む航空機による大規模反撃を、連合軍艦隊・船団に対して開始した(菊水作戦)。海軍による菊水一号作戦には約390機、陸軍の第一次航空総攻撃には約130機が投入された。さらに海軍は、菊水作戦と連動させる形で戦艦「大和」以下の第一遊撃部隊も出撃させた。特攻機などの攻撃により連合軍艦艇6隻が撃沈されたが、日本軍機は200機以上が失われ、「大和」も空襲で撃沈される結果となった(坊ノ岬沖海戦)。それでも日本軍は、特攻機を中心とした攻撃を続行した。この空海からの反撃にあわせて、第32軍も第10方面軍の指導で再び総攻撃実施を決定していたが、またも港川方面への陽動部隊接近に惑わされ出撃を中止した。同時期には第5航空軍から派遣された独立飛行第18中隊分遣隊の一〇〇式司令部偵察機III型甲が、沖縄本島の米軍制圧下飛行場および機動部隊に対する強行偵察に成功し、鮮明な航空写真を第6航空軍にもたらしたものの、これを攻撃するに十分な航空兵力や艦艇はなかった。
連合軍による住民殺害[編集]
既述のように沖縄地上戦での住民犠牲は約9万4千人とされているところ、集団自決者や日本軍により殺害された者はそれぞれ1000人程度と推定されており、残りの約9万2千人は連合軍の攻撃により殺害されたことになる。
長周新聞によると、「沖縄本島に上陸した米軍は宜野湾市の嘉数で激しく抵抗された。ここは丘陵が重なり天然の防塁だったため毒ガスを使用。壕に潜む非戦闘員まで殺害した。嘉数では住民の半数以上を殺し、浦添村の前田、南部の島尻などは人口の3分の2を殺した。前田丘陵四日間の戦斗は「ありったけの地獄を1つにまとめた」と米陸軍省が表現するほどすさまじいものだった。国吉では470人前後の住民のうち210人以上が戦死。ここは米軍司令官バックナーが戦死した報復として猛攻撃を加えた。国吉で捕虜になった住民のうち男子は全員銃殺された。南部の東風平村の小城(こぐすく)は戦前の人口が約750人だが戦死者は440人以上で全住民の約6割にのぼった。」[78]
住民がスパイ容疑で処刑されることもあった。ある事例では、「民間人3人は、軍政府内の住民用尋問室で日系人通訳に暴力を振るわれながら尋問された後、身柄を2人の中尉に引き渡された。文書では「1人は敵兵(日本兵)である疑いがあった」と記述している。中尉は民間人3人のうち2人を約180メートル先にある墓穴のような穴を掘った場所に連行した後、そのうちの1人を上官の命令で銃殺した。殺害時、周囲には25-45人の米兵が取り囲んでいた。」という[79]。バックナー中将の戦死時には、住民が日本軍を手引きしたと疑われ、数十人の住民が銃殺された[80]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6
帝国海軍だとか、軍産三菱などが、馬鹿者でカネに汚すぎた。それで、ごつい大金をかけて大艦巨砲主義に堕した。それと同じ事で、チョウセンジンの成り済ましが、日本国の防衛利権で、どれだけ我ら日本人を虚仮にしてきてくれたことか。
日本は米国に対して、核を二発投射できる。そうした国際法的な権利を保有している。これを、やられたならばやり返せる。国際法上の相互主義といふ。
https://blog.goo.ne.jp/wagasato/e/53883a97d3655d7afa155f333b47e42e
参照記事です。 m(_ _)m
米軍に投降すれば 沖縄県民は助かったのか 【かつて日本は美しかった】
実際には戦争ですから、投降して助かった人がいたというのは一面に過ぎません。沖縄の地上戦は昭和20年(1945年)3月26日から始まっています。6月中旬はアメリカ軍は掃討戦として無差別攻撃を行い、喜屋武(きゃん)半島に砲爆撃を倍加して軍民構わず全滅状態に陥らせました。これはもう投降どころではないですね。国吉で捕虜になった住民がいましたが、うち男子は全員銃殺されました。
さらにアメリカ軍は避難壕を発見すると投降勧告を行い、即座に応じなければ、洞窟の頂上にドリルで穴を開け、青酸ガスを容赦なく注入し、あるいは壕の入り口から火炎放射器による攻撃を行って軍民の区別なく片っ端から殺戮したのです(毒ガスも非戦闘員への攻撃は戦時国際法違反)。ひめゆり学徒隊の証言を読むと投降勧告から2,3分でガス弾を投げ込まれたという証言があります。まさに鬼畜米英ではありませんか。投降して助かった多くはこうした掃討戦が一段落してからです。
それからアメリカ軍はインディアンを殺戮しハワイを乗っ取った白人の集合体というのは沖縄県民も知っていることでしょう。フィリピンでも原住民を数十万大虐殺しました。また昭和19年(1944年)10月10日の沖縄空襲は民間人が標的にされています。これでは投降して助けてもらうという発想などおきにくいでしょう。
http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2011/06/post-2626.html