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我が郷は足日木の垂水のほとり

文化芸術から政治経済まで、貧しくなった日本人の紐帯を再構築したいものです

藤田まことさん「明日への遺言」で見せた“男の品格”

2010年02月18日 | 記事紹介

ZAKZAK

 

  記事の紹介です。

藤田まことさん「明日への遺言」で見せた“男の品格”

情熱的で、ダンディーだった。2008年に公開され最後の主演映画となった「明日への遺言」(小泉堯史監督)では、捕虜の米軍兵処刑の罪を負って絞首刑を受けた陸軍中将・岡田資(たすく)を演じた。ほとんどが法廷シーンという緊迫感あふれる内容に「この作品に、主人公に惚れ込んでいるんだ」と全身全霊を打ち込んだ。

 1カ月以上をかけて全国各地を回るハードなキャンペーン。取材の席で藤田さんは開口一番、「こんなに働かせて老人虐待じゃないかね」とニヤリ。さすがコメディアン出身、一気に場の雰囲気が和んだ。

 だが、インタビューの核心に入ると、「日本人としての品格を最後まで失うことなく、法廷で最後まで堂々と自分の主張を通し、散っていった岡田中将の心の声を私が代弁できたら、という気持ちでお引き受けした」と力を込めた。そこには、沖縄で戦死した兄への想いもこもっていた。

 当初、借金の話題は触れない決まりだった。「昔の話をいつまでもほじくられるのはかなわんよ」と周囲に愚痴をこぼしていたからだ。ところが取材では「もう借金のことはご心配なく。ははは」と切り出すサービス精神を見せた。写真撮影では「こうすれば格好良く写るよな」とポーズを決め、「みなさん、ごきげんよう!」と右手を上げて去っていった。

 映画公開直後、藤田さんは食道がんに倒れた。それでも、驚異的な回復力で復活。決まっていた昨年11月のTBS系ドラマ「JIN-仁-」を慢性閉塞性肺疾患で降板したのは無念だったのではないか。映画にドラマに、藤田まことの味のある芝居はずっと語り継がれていくだろう。

 訃報を聞いた小泉監督は「『明日への遺言』のラストシーンで『お別れですね』の問いかけに『なーに、隣へでも行くような気持ちですよ』と笑顔を残し、扉の向こうへ消えた姿が忘れられません。心よりご冥福をお祈りいたします」と悼んだ。(萩原和也)

 

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藤田まこと 藤田まこと タレント

 

 

 

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藤田まことさん死去

2010年02月18日 | 記事紹介

 

 

  記事の紹介です。

 

【藤田まことさん死去】朝日放送顧問 「アナログテレビ時代の終わり象徴」

   2010.2.18 23:34

  藤田まことさんの役者人生で大きな転機となったのは昭和48年から出演した「必殺」シリーズだった。その生みの親である朝日放送顧問の山内久司さんに藤田さんへの思いを寄せてもらった。

    

 ♪春まだ浅き戦線の古城にかおる梅の花-

 若き日の藤田まこちゃんがよく物まねした田端義夫の「梅と兵隊」の一節である。藤田まことという俳優は、桜の花のように絢爛(けんらん)豪華でもなかったし、牡丹(ぼたん)のように、富貴でもなかった。私は、目立たない所に、香り高く咲く梅の花のような印象を藤田さんに感じている。早春の2月。かぐわしい梅花一輪が散った。ご冥福を祈る。

 出会いは、2人とも20歳代であったと思う。藤田さんは、歌謡物まねが得意なタレントであり、司会者であった。私は駆け出しのラジオの制作部員で、歌謡曲を担当していた。昭和30年代の前半、ある歌謡ショウの司会を藤田さんに依頼した。ショウはきわめて明るく、いうなればあっけらかんと進行していた。私はふと舞台袖にひかえている藤田さんを見た。その表情と姿に、陰というか鬱屈したものを感じた。僕の勝手な思いであったかもしれない。しかし、その感覚がよみがえって、中村主水=藤田まことになったのだと思う。主水の二面性を藤田さんは予想をはるかに上回って演じてくれた。それから20年。高い視聴率を維持しながら続いた。必殺だけではない。「はぐれ刑事」「剣客商売」それに「てなもんや三度笠」。すべて大当たりのシリーズである。

 藤田さんはテレビから一日も離れたことがなかったと思う。他の俳優たちにとってはテレビは仕事の一部であるが、藤田さんは常に、テレビが本籍であり現住所であった。20歳代から亡くなる70歳代までシリーズの主役を続けた俳優は他にいない。日本で唯一のテレビ役者であるといってよい。藤田さんは俳優としての芸術的名誉や国際的名誉を、求めなかった。ひたすらに、テレビの視聴者や大衆を喜ばせようと、50年、頑張り続けた。これは容易なことではない。一部の食道楽に褒められる料理より、庶民が喜ぶ味を追求し続けたように思う。もっと言えば、美味しい米の飯を炊き続けた役者であった。重ねて言う。これは容易なことではない。

 来年、地上波はアナログ放送が終了し、デジタルのみになる。テレビは必ず変わる。藤田さんの死はその象徴的な歴史上の事柄になるような気がする。

 今夜は懐メロでも聴きながら、藤田まことさんと創ってきたアナログテレビのよき時代に思いをはせながら、独りで酒を飲みたいと思っている。
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/media/100218/med1002182342003-n2.htm

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