がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

当サイトの掲載写真・イラスト等の無断転載/無断使用を禁じます

琉球八社と神宮寺

2018年12月30日 | ・琉球歴史/文化風景

琉球王国時代、
お寺に比べると神社はそれほど多くはなかったようです。

(現在、鳥居=神社を多く見るのは
明治以降に作られた物や、
グスクや御嶽が"神社化"されたゆえ

 

王国時代、神社として文献に記録されているものは
主に

沖縄本島では
"琉球八社"と呼ばれる8つの宮と、浮島神社、住吉宮、等、
そして
伊江島、宮古島、石垣島にそれぞれ、という感じ。

 

沖縄の神社の特徴として

●琉球古来からの御嶽信仰と合体し、
 御嶽のあった場所に社殿を建て神社とした

●熊野権現を祀る

等があります。
(例外もあり)

 

そして、これは琉球に限ったものではありませんが、
神宮寺(別当寺・併設寺院)といって
神社にはお寺が必ずセットになっているのも注目。

昔は神社とお寺は2つで1つみたいな
「神仏習合」「権現」の観念がありました。

(明治になってから神社とお寺は完全に分離させられます)

 

この辺を追及していくと
かなり込み入ってくるので(観念の話は難しい…)、

とりあえず

琉球王国時代から続く神社は
そばにある「お寺」もセットだったよ!

ということを覚えていただいて
そのお寺も一緒に意識してもらえれば。

「お寺」だけの「お寺」はあるけど(円覚寺とか崇元寺とか)、
「神社」だけの「神社」はなかったってことになるかな。

 

現在、神社と呼ばれるものは多けれど、
王国時代から続く神社となると
由緒あるというか、
歴史の重みも感じますね。

というわけで、
今回はその代表格である

沖縄本島にある
"琉球八社"を一挙ご紹介。

 

すでに過去記事があるものはリンクも貼っておきます。

 

◆波上宮(なみのうえぐう)◆ 那覇市

琉球・沖縄の一ノ宮

創建時期は不明。
(1521年に「再建」とあるので15世紀には存在していたと思われる。
護国寺の創建と同時期なら14世紀の可能性も)

社殿の奥・断崖の端に古来からの拝所を持つ。

過去記事→

神宮寺(併設寺院)は護国寺。
現存。

◇護国寺◇

 

 

 

◆普天満宮(ふてんまぐう)◆ 宜野湾市

創建時期は不明。
(15世紀に熊野三神を合祀か)

裏にある洞穴に古来からの拝所を持つ。

過去記事→

神宮寺(併設寺院)は普天満山 神宮寺。
現存。

◇普天満山 神宮寺◇

 

 

 

 ◆沖宮(おきのぐう)◆ 那覇市

創建時期は不明。
(15世紀中頃には存在)

元々は那覇港の三重城に続く堤の途中に、
臨海時と一緒にあった。

神宮寺(併設寺院)は臨海寺。
天久に移転して現存。

◇臨海寺◇

 

 

 

◆末吉宮(すえよしぐう)◆ 那覇市

創建時期は不明。
(15~16世紀頃か。
万寿寺の創建と同時期なら14世紀の可能性も)

過去記事→  

神宮寺(併設寺院)は遍照寺〈万寿寺〉
跡が末吉宮の麓に残る。
寺院は沖縄市に移転して存在。

◇遍照寺〈万寿寺〉跡◇

◇現在の遍照寺◇

 

 

 

◆識名宮(しきなぐう)◆ 那覇市

創建時期は不明。
(16世紀中頃か)

裏にある洞穴に古来からの拝所を持つ。

神宮寺(併設寺院)は神応寺
現存せず。

◇神応寺跡◇

 

 

 

 ◆天久宮(あめくぐう)◆ 那覇市

15世紀後半ごろに創建。

(下の?)洞穴に古来からの拝所を持つ。

神宮寺(併設寺院)は聖現寺。
現存。

◇聖現寺◇

 

 

 

◆安里八幡宮(あさとはちまんぐう)◆ 那覇市

1466年ごろ創建。

琉球八社で唯一、熊野三神ではなく八幡菩薩を祀る。

過去記事→ 

神宮寺(併設寺院)は神徳寺。
現存。

◇神徳寺◇

 

 

 

◆金武宮(きんぐう)◆ 金武町

16世紀初めごろの創建。

社殿を持たない神社。

洞穴内に祠があるが、
洞穴そのものが聖域(金武宮)とされる。

過去記事→

神宮寺(併設寺院)は金武観音寺。
現存。

◇金武観音寺◇

 

参/『沖縄の神社』(加治順人著)


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世持神社

2018年12月30日 | ・琉球歴史/文化風景

沖縄神社に続いてもう一つ、

ちょっと特異な、
沖縄らしい神社をご紹介。

 

 

奥武山公園内にあります、

世持神社です。

 

「世持」とは

おもろで使われている古語で
「豊年」を意味するもの。

 

 

そして、

世持神社に祀られているのが

沖縄の産業の恩人とされている

 

野国総官

儀間真常

そして

蔡温

 

この神社の意味合いが
めっちゃ分かるラインナップ!

 

おもろからの古語を神社名にしているあたりも
沖縄神社よりも、沖縄らしい神社な気がします。 

 

昭和12年に創建された神社。


昭和初期、
内務省に世持神社建立計画を陳情した時の回答がこちら。

 

正三位以上にあらざる人臣を祭神とする寺社は
本来は不許可である。
が、沖縄県の実情を斟酌し、郷社として許可する。

 

 

 

政治的な意味合いが濃かった沖縄神社とは違い、
一般人からの要求により創立された神社として
特に農業関係者から篤い信仰を集めたといいます。

 

 

が、例にもれず沖縄戦で焼失。
(御神体は戦時中は熊本に移されていたようです)

 

世持神社のあった今の奥武山公園エリアは
米軍占領地となったことから
早期の再建が不可能に。

 


戦後、戻された御神体は
上間朝久氏が那覇市内の自宅で祀り祭祀を行っていましたが、
同氏の死去により、波上宮の宮司が世持神社の宮司を引き継ぎました。

これにより、波上宮境内に祠(仮宮)がたてら
現在、御神体はここに祀られています。

 

 

波上宮拝殿のすぐ手前左側にある、
緑色の屋根の小さな祠がそれ。

 

一つが世持神社で、
もう一つが似たような経緯を持つ浮島神社です。

(浮島神社についてはまた別で)

 

 

 

 

で、奥武山公園内にあるここは、

世持神社の元の場所。

今はすぐ近くにある沖宮(おきのぐう)によって
聖域管理がされているのだとか。

 

ここで年に一度、
波上宮(なみのうえぐう)に祀っている御神体をここに戻し、
波上宮の宮司によって祭祀が行われているとのこと。

 

ちょいと複雑ですが、

●御神体のある本殿(仮宮)は波上宮の小さな祠、

●鳥居、参道、社殿は、奥武山公園内、

ということになります。

 

で、現在の管理は、
沖宮(聖域)と、波上宮(御神体)
というわけです。

 

 

参/『沖縄の神社』(加治順人著)

 

 

そういえば、
「産業まつり」もここ(奥武山公園)で行われているし、

産業にまつわる人は
この神社で初詣するのが吉かも?

(奥武山と、波上宮の世持神社でね★)

 

 

 

社殿左側にあった社。

 

 

右側にあった香炉。


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沖縄神社の今

2018年12月29日 | ・琉球史散策/神話・近代

前記事のつづき。


戦前、首里城にあった沖縄神社。

 

ご存知のように、


旧日本軍の司令部があった首里城は
沖縄戦で猛攻撃を受け、
首里城こと、沖縄神社も灰塵と帰しました。

 

…が、

 

 

実は、
沖縄神社そのものは
今も続いているのです…!

 

もちろん、今の首里城の裏には
何もありません。

 

今は、こちらに移動・再建されています。

 


しゅーりーの東ーのー

べんーがだけ~

(※母校の校歌)

 

の、弁ヶ岳(弁ヶ嶽)

 

この↑拝所の道向かい。

 

 

この階段を上がっていきます。
(なんか、光が神々しく写ってる…!)

 

手前にあるのは、
鳥居の脚の名残です。

 

 

階段を登ったところにあるのが
この祠。

 

訪れたのがちょうど1年前だったので、
お正月仕様になっております。

 

 

手前の、赤い柵のあるほうには

イビ石が。

(その手前には鏡餅)

 

 

イビ石の上の表示を見ると、


左から

 

尚圓(円)王

察度王

舜天王

英祖王

尚思紹王

 

とあります。

 

…戦前の沖縄神社5神と違う…!!

 

舜天以降の各王統の祖ですね。

 

 

奥のもう一つの祠。

扉ではなく白い網で閉じられていて、

こちらにも
ごろっとした大小の石が5つ置かれていました。

 

(トリミング&色調補正で)

 

さっきのイビ石みたいに
平たくて地面に立ってるという感じではなく
色も形も様々で。

ここは石が置かれているだけで
名前や名称なども何もありませんでした。

 

 

ただし

『沖縄の神社』(加治順人著)によると
戦後、祭神が変わったとか追加されたという記述はありません。

また、
波上宮のサイト内にある
沖縄県神社庁・沖縄神社の項でも
同じです。
(波上宮の宮司が沖縄神社の宮司を兼務しているそう)

しかし、
そこ波上宮サイトに掲載されている沖縄神社の写真は
各王統の祖の名前があった手前の祠であり、
奥の祠は載せてはいません。

 

………うーむ、いまいち謎…。

 

 

+ + +

 

 

≪追記(2019.12)≫

 

先月、久しぶりに訪れると、
祠(手前の、赤い冊のほう)の前に
新たにリーフレット入れが設置されていて、
『沖縄神社略記』(波上宮社務所 発行)が入っていました。

 

それによると、
御祭神は前記事で紹介した通り、
舜天・尚円・尚敬・尚泰・源為朝。

この記事で触れた
中の各王統の始祖の名前の石板や、
隣の白い網の祠については
一切ふれられていなかったので、

沖縄神社とは無関係に建てられた(つけられた)
ということでいいのでしょう。
(沖縄にはこういうの、多いからな…)

 

これが沖縄神社オフィシャルの見解、
ということで追記しておきます。

 

ちなみに、沖縄神社は
宗教法人として認証・登記されているようです。


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沖縄神社

2018年12月29日 | ・琉球史散策/神話・近代

前記事のつづき。

 

戦前、皇民化教育の一環として
琉球王国時代からの御嶽やグスクが
神社化されたという話。

 

では、

沖縄で1番有名な、あのグスクは!?

  

 

そう!!

沖縄に300もあるというグスク群の中で
来城者数ぶっちぎり1位を誇る、

 

首里グスク!(首里城)

 

 

この首里グスクも例外ではなく、

かつては

沖縄神社(の一部)であり、

首里城正殿は
「沖縄神社拝殿」と呼ばれていました。 

 


↑クリックで那覇市歴史博物館デジタルミュージアム該当写真にジャンプ

 

この写真↑を見ると、
灯篭、しめ縄、賽銭箱や手水舎
見受けられます。

(鳥居もあったようですが、
戦前の首里城の写真を色々見てみても見当たらず)



↑クリックで那覇市歴史博物館デジタルミュージアム該当写真にジャンプ

 

↑こちらが拝殿(正殿)の後ろ側、
つまり御内原に新しく建てられた
「沖縄神社」の「本殿」。

こっちが沖縄神社の本元。

 

 

 

 

ところで、
琉球処分によって主を失った首里城は
荒廃の一途をたどっていました。

白アリや台風などの被害を受け、
大正末期には半壊状態に。

いよいよ「首里城取り壊し計画」が上がった時、
文化的な価値からそれを良しとしない人々が立ち上がり、

首里城正殿を、
「沖縄神社」の「拝殿」であることを名目に
国から修理費用の補助金をとり、

昭和の大改修へと繋げたことで
取り壊しを免れます。

 

皇民化教育における
グスクの神社化の歴史って、
複雑な気持ちになる部分もあるけれど、
それが功を奏したという側面もあった、
ということですね…。

 

 

 

 

さて、神社というからには
気になるのは

 

誰を祀っていたの?

 

ということ。

 

沖縄神社は「県社」、
つまり沖縄を代表する神社として建てられましたから、
祀った人も沖縄を代表する人たちでした。

 

当初は

 

琉球開国の祖である舜天

その父・源為朝

そして王国ラストキング・尚泰

 

の3人(3神)だったようですが、

 

後に

第二尚氏の祖・尚円

琉球ルネサンス・尚敬

 

が追加され5人(5神)となったそう。

 

この祭神選びは紆余曲折あったようで、
琉球の偉人を祭神とする案は最初、
内務省からの許可がでなかったのだそう。

しかし、舜天の父である源為朝を主神にすることで
やっと認められたのだとか。

 

 

そして、

ご存知のように、

旧日本軍の司令部があった首里城は
沖縄戦で猛攻撃を受け、
首里城こと、沖縄神社も灰塵と帰しました。

 

…が、

 

 

つづく!

 

 

参/
『沖縄の神社』
『写真集 懐かしき沖縄 山崎正董の歩いた昭和初期の原風景』
『首里城を救った男 坂谷良之進・柳田菊造の軌跡』


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グスクの神社化

2018年12月28日 | ・琉球史散策/神話・近代

年始といえば、初詣。

 

初詣と言えば、神社。
(場合によってはお寺)

 

神社と言えば、

鳥居

ですね。

 

グスクをめぐっていて
鳥居のある
グスクに遭遇したことはありませんか?

例えば、

他魯毎の南山グスク

越来グスク

伊祖グスク

名護グスク

などなど。

 

これらの鳥居付きグスクは
ちょいちょい見かけるので
特別に珍しい光景ではありません。

 

なぜ、グスクに鳥居が設置されるように
なったのでしょうか。

 

今帰仁グスクの資料館の前に
こんな文化財があります。

 

 

今帰仁グスクの前に、
かつてあった鳥居の脚です。

 

 

" 戦前、
沖縄各地のグスクが
皇民化教育の一環として
御嶽やグスクが神社と同一化され
鳥居が建立された歴史がある"

 

元々の沖縄の信仰の対象が
日本式にされた、ということ。

 

よって、グスクによっては
その痕跡としての鳥居が、
今もそのまま残っている、
ということですね。

 

これも、沖縄の歴史の1ページ。

 

 

この今帰仁グスクの鳥居は
昭和5年に建立されたもの。

 

鳥居は2003年に撤去されました。
(意外と最近!)

 

 

参/『今帰仁村の文化財』(今帰仁村教育委員会)

 

 

さて、グスクの神社化…ということは……

 

あの、沖縄を代表する超有名なグスクも、
かつては「神社化」されていたのでしょうか…!?

 

 

つづく


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現代版組踊島シリーズ2018 結-MUSUBI-

2018年12月28日 | ・現代版組踊レポ

 現代版組踊舞台レビューについて

 

島口ミュージカル 結-MUSUBI-

2018年12月24日(月)

きむたかホール

 

 

島シリーズ2つめの公演は、
鹿児島・徳之島のチーム
結シアター手舞による「結-MUSUBI-」。

 

夜公演を観劇しました。

 

幕末の偉人、西郷隆盛が
奄美大島、そして徳之島に島流しになった頃が舞台で、
奄美で娶った妻・愛加那や
徳之島で出会った青年・琉仲祐との交流を描いた物語。

 

以前、アトラクションは見たことがあったのですが
公演を観るのは今回が初めてでした。

 

まず、チームの第一印象は
思っていたよりも人数が多いこと。

中でも男子が多くて
しかもみんな体格がいい!

男子みんな高3なの?
っていうくらい背も高くてがっしりしてて。

男女比、半々とは言わないけど、
4割くらいはいるんじゃないかな?

沖縄ではどこも男子メンバー獲得に苦労しているというのに…

なんと頼もしい。

 

もちろん女子も負けてなくて、
ハキハキとしっかりした印象。

 

チーム全体の
一斉発声や斉唱、総演舞などは
ピリッとした緊張感と力強さがあって
とても一体感を感じました。

 

幕開けやクライマックスの演舞
テーマソングでの演舞などは
さすが、表情なども含めて
ビシッと決まっててかっこよかったです

(♪ワイド―×4 の「手舞の空」かっこいいよねー。
CD販売なかったの残念でしたー

 

 

とはいえ、
このようなフル楽器のメインソング以外は
やはり奄美群島の島唄メインで。

奄美三線、太鼓、そしてあの奄美地方独特な歌唱法。

沖縄の三線、島唄とは全然違う
素朴で、どこか哀愁のある音色と雰囲気。

西郷さんと月照が船で行くシーンでは
それが特にマッチしててぐっときました。

前半はこのような構成の楽曲が多く
派手に、華やかというよりも
幕開け以外は全体的に素朴な印象でした。

これはこれで味わいがあって、
沖縄や他地域の現代版組踊とは
結構違った印象を持ちました。

音が作る印象って、大きいです。
(特に私は昔からテレビでも映画でも、
音楽が作品全体の評価に占める比重が大きいのです)


演奏は手舞の生バンド!(もちろん歌も!)
やはりバンドチームがあるのはいいですね

安定感抜群で安心して聞けました。


中休みを挟んでの後半からは
島唄楽曲だけでなくアレンジのきいた楽曲も。

西郷さんが沖永良部に再遠島になった時の
愛加那との別れの曲とかは、
THE・現代版組踊って感じ☆

(このシーンは背後に少しアンサンブルさんがいてもよさそう♡)

 

ラストのダイナミック琉球も
奄美歌唱で「おお!これぞ!」ってなりました。

バンドだけじゃなくて
舞台中央(奥)で愛加奈役の子が唄ってて、
神々しかったですね。

発声だけでその土地らしさを表現できるなんて、
なんという武器。

すんばらしい

 

 

劇中所々に出てくる「島口」も興味深かったです。

沖縄と似たもの、全然違うもの。

奄美ともまたちょっと違う印象?

「あぎじゃびよ!」

は、まさかの共通なのか?(笑)

(おばあ、いい味♪
おじいおばあキャラはどの舞台でもなぜか外れがないな…)

 

 

獅子舞の牛版、闘牛シーンも面白かったし、
きっと徳之島の伝統芸能であろう踊りの数々も
初めて観るもので興味深かったです。
(棒のやつ、ちょっとやってみたい☆)

 

ところで、冒頭で語り部として出てきた「ゆい」は
結局何者だったのでしょう…。

いつの間にかいなくなっていましたが…。

びしっとジャケットを着た「デキる女風」だったので
アカハチみたいに、現代のジャーナリスト?
と思ったのですが…。

謎。

ストーリーテーラーも
ゆい→ケンムン→仲為と次々と変わってましたね。

統一してもよさそうな…。
(肝高の阿麻和利みたくケンムンに、とか…?)

 

 

 

 

 

 

ここからは
子どもたちの演技云々ではなく
物語(ストーリー)展開として思ったこと。

 

個人的に、
徳之島の舞台ということもあって
島の青年・仲祐が主人公格なのかなと思ってましたが、
8:2くらいの"印象"で西郷さんが主人公でした。

個人的には仲祐の活躍というか物語も
もっと見たかった(知りたかった)かも。


物語の人物たち、
「人物ドラマ」としては
自体は結構淡々と(飄々と)、
あまり緩急なく進んでいった印象があります。

なので、ストーリーの展開としては
西郷さんに惚れた!とか
仲祐にしびれた!とか
そういう刺激はあまりなくて。

 

琉球史の現代版組踊みたいに
明確な対立があって、
派手な戦やクーデター、
騙し騙され、
殺されて……

という壮絶なドラマが無いから、
というのは確かにあるかもしれない。

(「鬼鷲」における尚巴志の立ち位置なんかもそれにあたりますね)

 

でも、
例えば西郷さんを主にするなら
西郷さんの苦悩や絶望、葛藤がもっとあれば…。
(大河ドラマ「西郷どん」の西郷さんが、
奄美に来てとことん荒れて腐ってたように)

自殺に追い込まれるほど絶望して荒れてる西郷さんや
家族が引き離されることの怒りや葛藤とか、
それこそ、
沖永良部での牢獄で悲惨な状況の西郷さんの姿とか

そういう彼の色んな負の感情や状況が渦巻くシーンがあれば、
もっと人間味(深み)がでるはず。

そしたら愛加那や仲祐、島の自然や人々との触れ合いの中で
西郷さんが再び使命(志)を見出すとか、
生き返るとか、
負けないとか、
人を愛するとか、
なにかしらのドラマ性がもっと出ると思う。

ひたすら落として、闇をみせるからこそ
光が際立つ…というイメージかなぁ。

 

仲祐だったら、
西郷に出会う前に持っていた島に対する不満や絶望、
出会ってからの彼の変化ぶりを、
徳之島での彼の努力や奮闘、
島の人々との関係の変化、
島の良さを知り活かす(これこそ現代版組踊のベースとなるスピリット!)活躍、
新たに抱いた志など、
マイナスからプラスへ、
それこそ生まれ変わったかのように
もっともっと表に出してもよさそう。
(力石のシーンなどでちょっとはあったけれども)

そしたらその後の、彼の志半ばの死も
もう少しドラマチックになるのでは?と思ったり。

 

(そういえば、西郷さんが何か書いて仲祐に渡した書、
あれで決定的に改心したっぽかったけど
内容が文語体?だったので一回聞いた(見た)だけでは
意味が分からなかったのが残念。)

 

「人間のドラマ」

 

西郷さんや仲祐という、
私たちとなんら変わらない、同じ人間の、
弱さや強さ、変化、志、
つまり生きざまが
もっと物語の中で描かれれば、


島外の人や
西郷さんや仲祐を知らなった人たちにも、
彼らに対する愛着や尊敬、興味や関心が
もっとぐっと深まるんじゃないかな?

 

…と個人的には思いました。

 

ので、一応記録。

 

 

 

 

ともあれ、

初めての「結ーMUSUBI-」公演、
楽しませてもらいました!

来てくれてどうもありがとうございました!

 

"おぼらだれん"

 

徳之島…行ったことないなぁ…。

いつか行ってみたいです。

与論島も、沖永良部島も。

 

現代版組踊島シリーズ2018
ガサシワカチャラ+結ーMUSUBI-
これにて終演。

各メンバーさん、保護者、スタッフ、関係者のみなさん
お疲れ様でした!

そしてありがとうございました。

 

…で!

 

「2018」と銘打つからには
「2019」期待してもいいですか!?

 

オヤケアカハチ!
カモーーーン!!щ(゚Д゚щ)!!

くっそ、やっぱり今年、石垣行けばよかったかなぁ…。

そういえば伊平屋チームは今どんななってるのかなー?
"琉球歴女"ちゃんは健在かしら。

 

 

さて、年が明け早々には
「百十-MOMOTO-」公演も!

今回は百十踏揚は3キャスト(!)、
ヒーロー大城賢雄は、
結シアター手舞のOBが演じます!

楽しみです


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現代版組踊島シリーズ2018 ガサシワカチャラ

2018年12月23日 | ・現代版組踊レポ

 

ガサシワカチャラ

2018年12月22日(土)

きむたかホール

 

現代版組踊島シリーズ2018の一環として
きむたかホールで公演された久米島の舞台。

ワカチャラは去年の秋、久米島で初めて観劇し
(キャラ図鑑・現代版組踊レポの取材の一環として)
12月の久米島フェアとしてのタイムスホール公演も参戦。

その時以来、1年ぶり、4回目の観劇でした。

 

この日は冬至。

冬に至った日とは思えないくらい、
最高気温が26度も27度とも言われた夏日だったこの日、


夜公演を観劇しました。

 

 

 +

 

 

まずは冒頭。

 

ワカチャラ最期のシーンに
まるまる変更!

 

えーーーっ!うっそ!Σ(゚Д゚;)
お父ちゃん(伊敷索按司)らが首里に攻め滅ぼされ
堂之比屋の裏切りが描かれるあのシーン、
リピート観劇者だけが味わえる感じで好きだったのにー!

 

…と動揺したのですが、

 

後日談のような感じで
物語の最後の最後に移動になってて
カットされたわけではなかったです。

あ、良かった(笑)

 

冒頭のワカチャラ最期のシーンは、
もちろん物語が展開したクライマックスでも
まるまるリフレイン。

 

なるほど、
確かにこの見せかたの方が、お父ちゃんも結局は首里にハメられていた、
という悲劇ぶりも
分かりやすいし、
久米島が落とされたという歴史もちゃんと追ってて
初観劇者にもやさしいかも。

 

だからこそ、
もーね、首里の黒さが前回よりも際立って感じました。

 

密かに内部に働きかけ、
(賄賂を送ったり、無理難題をしかけたり、優しく見せて騙したり)
分裂させ、
内紛で弱ったところを一気に攻める。

というのは
古今東西、支配するための常套手段だものね…。

 

尚真、黒いよな…。

(ワタシは尚真は単なる聖人君子な偉大な王ではなく、
尚巴志と似たようなイメージがあります。
野望を持った策士と言うか、時には黒い事や血を流す覚悟も持って
ビジョンを成し遂げていったというか)

 

このシーンの"裏切者"堂之比屋は
前回レビューでも書いてるのですが、
前までは割と感情が見えないミステリアスな雰囲気があったのですが
今回は割と苦悩と言うかそんな感じを表に出してました。

彼が首里からのアプローチを受けた時、
返答をハッキリさせてないだけに
この時の堂之比屋の心情は色々作れると思うので
色々模索してみてほしいです☆

ワタシは堂之比屋がこの物語の「スパイス」と思ってます!
(肝高の阿麻和利でいう金丸的存在!)

 

ところで、ロビーで
久米島スタッフのお父さんとお話ししてて知ったのですが、
堂之比屋ってまんま役職名なんですね。

だから色んな堂之比屋という人物がいるのだとか。

へぇ~

歴史上の色んな堂之比屋、調べてみたくなりました!(宿題)

 

 


現代版組踊の"聖地"きむたかホールが、各チームの憧れのホール。

 

 

 

今回会場がきむたかホールということで
演者さんの立ち位置や動きなども
色々とバージョンアップ!

ワカチャラが神託を受けるシーンは
ガン見すべきは正妃(ウナジャラ)や兄たち、そしてお父ちゃん!
というのは本でも書いたくらい。

怒りをあらわにした正妃が真牛を突き飛ばして
兄たちとともに集団から退場。

えっ行っちゃうの?

と思ったけど、完全退場ではなく
舞台脇の暗がりでしっかりイライラ爆発中。

この物理的な距離感も
ワカチャラたちとの
決定的な心の距離感が生まれてて効果的でした

 

お父ちゃんはね、
ワカチャラのそばにいるのよ。

とはいえ、
しばらくするとワカチャラ肩をポンと叩いて去っていく…。

 

複雑な気持ちを隠せない
お父ちゃん、
そしてワカチャラ自身も。

そんな彼らをよそに純粋に喜ぶ儀間之主。

 

このシーンの人間模様、
どの人もおもしろいのですよーーーー。

 


これは昼公演後の見送りの演舞

 

 

 

今回、正妃と兄二人のやりとりが
新たなシーンとして追加されていました。

兄ちゃんS、お母ちゃんを怖がってるし
(どっちが話しかけるかジャンケンしてるし(笑))
これからどうなるのでしょうと泣きつくし。

そんなの私が知るわけないでしょ!
だいたいね!あなたたちがしっかりしてないからいけないのよ!

と怒りつつも困り果ててる感じの正妃が
なんか可愛かったです(笑)

新たな面が見れたというか。
より人間くさいというか。

 

そして登場するお父ちゃん。

抜刀し、
「ワカチャラを討つぞ!」
と高々と宣言するお父ちゃんのシーンが。

 

 

…おんや?


【敵を欺くにはまず身内から】


ってやつ?

 

(ここの前のシーンで首里からの書状を受け取っている)

 

 

だから堂之比屋も気付いて、
お父ちゃんに咬みつくという従来のシーンに繋がるのか。 

 

"わしや兄たちを差し置いて
久米島の平和を乱そうとしている"

 

正妃にも息子(兄)や部下にをも
敢えて欺いて本心を隠し、

責任を一身に背負わざるを得ない
久米島の統治者・伊敷索按司の悲しい性が見えますね。

この時点でお父ちゃんの本心を知っているのは
粟国島に帰された真牛のみ…。

 

嗚呼、お父ちゃん…(´;ω;`)

 

 

 

 

そしてワカチャラとお父ちゃんのシーン。

つい本心をもらし、
互いに覚悟を決めようぞと語る。

「できません!」と刀を受け取らないワカチャラを尻目に
舞台奥に去っていくお父ちゃん。

 

満天の星空を見上げ、
たたずむお父ちゃん。

 

毅然としたその後ろ姿だったが
しばらくすると膝をつき、うなだれる。

 

思わず駆け寄るワカチャラ。

 

しかしその手を振りほどき、
また毅然とした様子で一人去っていく。

 

1人でしか泣けない、
悲しい性。

 

嗚呼、お父ちゃん…(´;ω;`)

 

 

 

 

残されたワカチャラが、
気持ちを整理し、覚悟を決め、
母親の面影を求めて対話に向かうシーンは
照明・音響効果もあってよりじっくししっとりと。

月が、美しすぎる…。
(MOMOTOにも出てくるアレです)

セリフもなく、
結構な尺なのに、
ワカチャラの心情が良く表現されていました。

 

涙石も健在。

 

父子のシーンから母子のシーンへ。

バランスもちょうどよく、
自然に見ることができました。

 


距離があったのでトリミングしても画像荒くてガタガタ💧(しかも逆光) 雰囲気だけでも伝われば…。

 

 

 

そしてワカチャラの最期、

クライマックスへ。

 

テーマソング「球美の詩」のあとは
ダイナミック琉球。

 

今回、ガサシワカチャラOB/OGメンバーも10数名加わっており
人数は過去最多!

そして演奏するは友情出演のきむたかバンド。

きむたかバンドバージョンのダイナミック琉球に、
劇中でも出演している登武那覇太鼓、
そして同じ島シリーズで24日に演じる
徳之島チーム「結シアター手舞」メンバーも加わっての

スーパーダイナミック琉球!

 

圧☆巻☆!!

 

特に登武那覇太鼓の音は効いてましたね!
ダイナミック琉球でのエイサー、もしかしたら初めて見たかも?

 

阿麻和利公演の時に観れなかったから
見れて良かったーーー

 

(ところで、手舞の男子メンバー、
結構いるし、皆がっしりしてて体格イイ!

え、地域差?

もうそれだけで24日の舞台の期待が高まりましたよ

 


ワカチャラのこのビジュアルシリーズ、好き!

 

各役者の退場の時、
どう去っていくのは結構楽しみにしている正妃と真牛。

今回はハグでした

お。和解した。

 

ワカチャラとお父ちゃんもハグ

お。和解した(笑)

 

お父ちゃんが先に舞台を下り客席へ。

ひとり残ったワカチャラが
きむたかバンドへ拍手を送り
(ここスマートで余裕が感じられて男前だった~!)
再び一礼。

その様子を中通路で振り返って
やさしく見守るお父ちゃん。

 

嗚呼、お父ちゃん…!(´;ω;`)

 

 

なんか、この時の姿はハグをしてた素の高校生ではなく、
「息子を見守る伊敷索按司」そのもので、

最後に

ぐ…っ!

とヤラレタのお父ちゃん贔屓の和々なのでした。

 

 

 

今回の公演が高校3年生にとっての卒業公演。
12名が卒業していくのだそう。

去年からこの舞台を観てきて、
この2年間主要キャストは一緒だったので
ワタシの中での「ガサシワカチャラ」の舞台は
今のワカチャラ、今のお父ちゃん、
今のキャストがベースとなりました。

男子のいない女の子だけのチームにもかかわらず、
そんなことを全然感じさせない、
力強くカッコイイ、
男前でいて美しい、
久米島の英雄たちを魅せてくれました!

 

本当に素敵でした。

惚れました。

どうもありがとう

 

また
来年度からはキャストも大きく変わるのでしょう。

 

新生ガサシワカチャラも楽しみにしています!


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伊舎堂の三本ガジマル

2018年12月22日 | ・琉球歴史/文化風景

 

中城村の旧道(※)沿いにある、
伊舎堂(いしゃどう)の三本ガジマル。

村指定文化財です。

真ん中の一本は伐採されてしまっていますが、
根や幹は生きているのかな…。

 

※国道330より1本内側に入った、かつてのメインストリート。
この道沿いに小学校や中学校もある。

 

 

 

伊舎堂集落の最初に移ってきた伊寿留安里とは、
護佐丸の兄と言われている伊寿留按司のこと。

詳しくは→

このすぐ近くには伊寿留按司の位牌がある
安里家があるらしいです。


参『沖縄拝所巡り300』(比嘉朝進著)

 


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ノロの習作

2018年12月20日 | ・琉球/沖縄、徒然日記

 

以前描いた習作

ノロのおばぁ(勾玉なし)。

 


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雷神

2018年12月16日 | ・琉球/沖縄、徒然日記

 

 

中国の晋の時代、
ある男が畑仕事をしてると雨が降ってきた。

桑の木の下で雨宿りをしていると

そこに雷が落ちかかってきたので

男は鋤をもって格闘し、

雷神の股を叩き折った(きゃーっ!)。

 

逃げられなくなってしまった雷神を見ると

 

唇は真っ赤

目は鏡のよう

毛の生えたツノがあり

体は牛馬

首は猿に似ていた

 

 

中国の書物『捜神記』に出てくる

雷神

を、その記述を元に描いてみました。

 

どんな雷神やねん

 

とツッコみたくなりますが
目が鏡の様というのは
稲光からのものなのでしょうか。

とりあえず、ビームにしてみた。

 

 

ちなみに
石垣市真栄里では雷は

飛び鳥(トゥビドゥリィ)」

というイメージもあったのだそう。

 

 

自然現象である雷を
色んな動物のイメージでとらえているのは
面白いですね。

 

参「沖縄のまじない」(山里純一著/ボーダーインク)


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あせ嶋と雨城

2018年12月12日 | ・琉球歴史/文化風景

11月に放送されていた
ウチナー紀聞
泡瀬村から115年—大綱引と京太郎」。

現在の沖縄市泡瀬に焦点を当てた特集。

小中時代を過ごした私の庭でもある泡瀬。

 

しかし、さすがはウチナー紀聞。

泡瀬は元々砂洲だったことや、
泡瀬の京太郎や塩田産業のことなど、
少しは知ってはいたものの、
琉球で最初のお寺とかもね)
初めて知る泡瀬の歴史や開発の経緯などもあり、
とても興味深く視聴しました。

 

 

でも、ここで記事にしたいのは
泡瀬の歴史のことではなく、
番組に出てきた絵図について。

 

 

琉球国沖縄島(元禄)

 

元禄っていったら、1600年代後半~1700年初めごろ。

その頃の沖縄島の地図。

「あせ嶋」という砂洲がぽかりと海に浮いており、
周辺の沿岸線も今とだいぶ違います。

 

…ってことは、
賢雄と百十踏揚の逃避行もこの沿岸線!?

 

賢雄が嵐を起こした「雨城」の位置も
だいぶリアルにイメージできる!

 

昔、「雨城」の記事で載せていたイメージ地図。

 

※↑この図の雨図の○印(高原南)の所になってますが、もうひとつ上(高原)ですね。

 

割と合ってる♪

 

 

現在の泡瀬地域空撮。

勝連グスクとの距離感。


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続・王様の行列

2018年12月10日 | ・琉球史散策/第二尚氏

前回、古琉球期の王様の行列のについて書きましたが、

同じ朝鮮王朝実録に記録された
王様の行列の超有名なエピソードは
別にあります。

 

通称、

オギヤカの行列。

 

オギヤカの行列の様子については
これまで断片的には取り上げてるとは思いますが
しっかりブログに書いてないっぽいので、
せっかくなのでしっかり拾ってみましょう。

 

供述しているのは1477年に済州島から漂流し、
1479年に帰国した朝鮮人。

帰国までに転々とした先島諸島や
琉球国、九州など各地の様子について語っている
当時の記録。

その彼らが1478年沖縄島にいた時、

あの行列を目撃したのです。

 

 

(意訳:和々)

 

 

俺らは、たまたま、国王の母の出御を見た。

国王の母は漆の輿乗り、四面は御簾が垂れていた。

輿を担ぐ者は20人近くいた。

皆、白苧衣を着て、帛(絹?)で頭を包んでいる。

軍士は長剣を持ち、弓矢を佩いて、前後を警護しており、
100人近くいる。

双角や双太平簫(※楽器)を吹き、
火砲(※祝砲的なやつ?
を放っている。

美しい婦人たちが4・5人、
あやぎぬの衣を着て、表(上)には白苧衣の長い衣を着ている。


俺らは、道端に出て拝謁した。

すると輿が止まり、
二つの鑞瓶が運ばれ、漆の木の器で
酒を賜った。

その味はわが国(朝鮮)と同じだった。

 

若君がいた。

(輿より)やや後ろにいて別隊だった。

年齢は10歳余りだろうか。

はなはだ美しい。

髪は後ろにたらし、編んではいない。

紅のあやぎぬの衣を着て、帯をし、
肥えた馬に乗っている。

轡をとる者、皆、白苧衣を着ている。

騎馬で先導するものが4・5人いる。

左右を護衛するものも、はなはだ多い。

衛士の長剣を持つ者は20人余り。
傘を持つ者は馬に並んで行き、陽をさえぎっている。


俺らは、(若君にも)また伏して謁見した。

すると若君は馬から降りると
鑞瓶を持ってきて酒を盛り、これをくれた。

俺らがそれを飲み干すと、
若君は馬に乗って去っていった。


国の人が言っていた。

『国王が亡くなって、若君はまだ年若い。
なので母君様が朝廷にいる。
若君が成長すれば、すぐ国王になる』


『朝鮮王朝実録 琉球史料集成』(榕樹書林/2005)



この行列は、
尚真が即位(1477年)してじきのことから、
お披露目パレードのような、
もしくは権威を知らしめるためのものとも
考えられています。


だけど、当の尚真王よりも、
母・オギヤカの方が派手で、輿に乗り、前方にいることから
幼い尚真王を差し置いて権力を誇示する
オギヤカの女帝っぷりが感じられるエピソードとして
この行列の記述はよく引用されています。

 

一方で尚真はというと、
母が朝鮮人に酒を賜ったのをそっくり真似て
同じようにやっているのがちょっとかわいい。

馬から降りて、飲むのを最後まで見届けている
というのも、なんだか無邪気な少年らしさが感じられて
面白いですよね。

しかも美少年ときたもんだ。

さすが、モテ男金丸と、
そんな金丸を射止めるほど美人だったであろう
オギヤカの血を引く人だ!

 

もう一つ特筆すべきは、
尚真の髪型。

髪は後ろにたらして編んで(束ねて)はいない。

カタカシラでもなく、
総角でもなく
かんぷーでもない。

ちょっと意外な感じもしますよね。

 

この記述から、キラキラ尚真(少年期)は
さらさらストレート垂れ髪にしてます。

(制作途中↓)

 

本当は髪は(結べるくらい)後ろも前ももっと長くて
サイドも結んではないんだろうけど、

ここは幼さとかわいさを出すための
アレンジとして。

 

採用版では短くおかっぱになりましたけど、
没ラフでは記述通りもっと髪は長かったのです↓

でも金丸も長髪ストレートだったので
被りすぎるかなーと思い、
バリエーションを出すためにも
サイドだけ長くして、後ろは短くした…

という制作裏話。

 

子猿ちゃんの印が怖いですね(笑)

 

 

 

ところでこの漂流民の記述。

 

自分たちを示すのに

 

俺ら(俺等)

 

って書いてあるのがツボ(笑)

 

私が勝手に一人称「俺」にしてるんじゃなくて

本当に「俺等」って書いてあるんです(笑)

 

俺等、適々国王の母の出遊するを見る。

俺等、道傍に出で拝謁す。

 

云々。

 

 

俺等、イカしてるぜ!


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王様の行列

2018年12月08日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

琉球の時代、

「王様の行列」と聞いて
思い浮かべるのはどのような光景でしょうか。

 

↑江戸上り(江戸立)の絵図だったり、
(※これは王様の名代ですが)

↓首里城祭で国際通りで披露される
絵巻行列の光景だったりするかもしれません。
(写真は’09のもの)

 

 

路次楽を奏で、
華やかながらも粛々と進む王様の行列。

 

でも、それはどちらも近世の琉球。

 

 

 

では、古琉球の行列はどんな雰囲気だったのでしょう。

15世紀、
漂流して琉球に一時滞在していた朝鮮人と、
朝鮮に渡った琉球の使者から
当時の琉球について聞き取り記録されたものが
「朝鮮王朝実録」にあります。

 

その中にある、

王様の行列の記述をピックアップ。

 

 

(意訳:和々)

 

国王が外出する時は
護衛の軍士約300名余りが付き従い
皆、甲冑をつけ馬に乗っている。

兵は弓矢や槍、剣、
または鉤のような形の物を持っている。

前後、列をまじえて行く。

国王は轎(輿)、
または馬に乗る。

護衛の軍士は歌を歌う。

その曲風は農歌(農民の歌う俗謡)のようである。

 

『朝鮮王朝実録 琉球史料集成』(榕樹書林/2005)

 

 

300名の武装した軍兵が
みんなで歌を歌いながら行進。

しかも、それは農歌のような歌だったと。

 

 

…え?

ピクニック!?

 

 

物々しい、いかめしい様子ではなく、

なんだかすごくほのぼのした行列を想像したのは私だけ!?

 

だって、農歌のようってことは
農作業しながら歌うようなすごく素朴な、
そういう日常的で、童謡的で、誰でも歌えるような、
単純な歌なんじゃないかな?

 

個人的なイメージ言えば、
「もののけ姫」に出てくる、
たたら場の女たちが作業しながら歌ってた
あの歌(タタラうた)のような雰囲気?

こんな曲↓
参考までに、カバーして歌ってる方の動画を。

 

おっ、こんなのもあった。
中国?台湾?の耕農歌。
こんな雰囲気の歌だったかも?

 

 

この行列の記述は1461年のこと。

 

ということは、
その王様とは尚徳ということになります。

暴君として名高い尚徳。

物々しい軍歌とかで威圧的な行進とかなら
暴君尚徳のイメージそのものだけど…

 

農歌(のような曲)を合唱しながら進む尚徳王の行列…

 

 

やっぱり、

 

めっちゃかわいい!!(笑)

  

 

この行列のスタイルはもしかしたら、
尚徳の前代、尚泰久の時も
同じだったかもしれない。

となると、大城賢雄が王軍のリーダーとして
その行列の(いや、合唱の!?(笑))指揮をとっていたかも…!?

 

 

王様は首里城と、旧城(島添大里グスクと考えられている)を
時々行き来し、2・3日、あるいは4・5日滞在することもあったそう。

 

その城を行き来する時の行列の記述。

 

アゲイン。

 

 

国王が外出する時は
護衛の軍士約300名余りが付き従い
皆、甲冑をつけ馬に乗っている。

兵は弓矢や槍、剣、
または鉤のような形の物を持っている。

前後、列をまじえて行く。

国王は轎(輿)、
または馬に乗る。

護衛の軍士は歌を歌う。

その曲風は農歌のようである。

 

 

 うーーーむ、のどかだ…。


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伊平屋の田名グスクと阿麻和利

2018年12月05日 | ・琉球歴史/文化風景

 

もう、何年も前に撮った写真ではありますが、
伊平屋島の田名グスクを紹介します。

この山そのものが田名グスクみたいなもの。
(グスクのメイン部分は山頂)

今年の5月に県指定史跡になっています。
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-714413.html

 

 

入り口は分かりやすいように
表示もありました。

…が、階段などが整備されているのは
この入り口だけ。

あとは山道をひたすら上ります。

 

 

冬だったからか、

草ぼーぼーなこともなく、
木々も低くて陽の光もよく届いていました。

鬱蒼した…という雰囲気はありませんでした。

ただ、地面は砂地っぽくてさらさらしていて
すべりやすかった記憶があります。

地学はさっぱりですが、
田名集落のあたりは掘り起こすと砂地が多いらしいので
その影響もあるのでしょう。

 

 

登城途中、眼下に集落が見えます。

 

上に行く道中、左右にもいくつもの曲輪があったようなのですが、
素人目にはよくわかりませんでした(^^;)


一休みしたあと、
ゴールが見えずくじけそうな心に鞭打ち(笑)
とにかく山頂をめざして、
まだかまだかとひたすら上っていくと……

 

 

…あった!

石積を発見!

城門(虎口)です。

 

 

石積みがしっかり残ってる、
なかなか大きく立派な虎口です。

中に入ってみると…

 

 

山頂部をぐるりと城壁で囲んであるようでした。

スゴイ

 

『琉球グスク研究』(當眞嗣一著)にある
縄張り図によると、
郭や物見台、中央部にはため池もあるようでしたが、
奥の方までは行けませんでした。

 

 

ところでこの田名グスク。

先の県指史跡の新聞記事によると、

14~15世紀に築城、
居住地ではなく逃げ城的な役割、
とありますが、

まだまだ謎が多いグスクなのだそう。

 

 

一方でこんな説もあります。

 

田名グスクは、
阿麻和利が作った。

 

 

田名に伝わる『大城グェーナ(古謡)』に
このような歌詞があるのだそう。

 

大城げいな

天城仕立てな

勝連のあまりが

勝連のあまじやらが

 

 

これを歌い出しに、
築城のプロセスが延々と続く大城グェーナ。

 

大城、天城というのは田名グスクのことであり、
あまり、あまじやら(あまんじゃなー)は阿麻和利だ、

と主張するのは
『真説 阿麻和利考』(高宮城宏著)より。

 

 

阿麻和利が勝連按司になり、
百十踏揚と結婚し、
王族の一員になった頃。

義父でもある国王の命により
伊平屋に派遣され、
築城監督を任されたのでは…というもの。

 

勝連グスクを留守にしている間に
鬼大城は勝連を調べ上げ、
百十踏揚とも懇ろな関係に……

 

 

ともあれ、
阿麻和利(勝連)が伊平屋島、さらには与論などの奄美諸島まで
船を行き来させていたであろうことは
想像に難くありません。

このような各島々での阿麻和利の痕跡、伝承を見ると、
またひとつ、阿麻和利という人物を
深く感じることができるような気がします。

 


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浮縄御嶽

2018年12月03日 | ・琉球歴史/文化風景

 

那覇市安里一丁目交差点の所にある
こちらの御嶽。

浮縄(うちなー)御嶽といいます。

大通り沿いにあるので
そういえば見たことあるかも…
という人も多いはず。

こちらの御嶽、
実は安里大親に由来する御嶽です。

 

 

安里大親はすぐそこ川辺で
よく釣りを楽しんでいた。

安里大親が亡くなった時、
人々は彼を追慕して
よく釣りをしていた場所を御嶽とした

という由来。

 

 

今は安里地域の村御願の拝所として、
そして安里大親の子孫が拝んでいるのだそう。

 

参/「沖縄拝所巡り300」(比嘉朝進著/那覇出版社/2005)

 

 

この一帯は安里大親にまつわる史跡が多くて
彼の生活圏が分かりますね。

 

おうち跡→

密談場所→

釣り場→ここ

 

ちなみにお墓は繁多川のところです→

 

 

この御嶽の存在は前々から知ってはいましたが、
なんせ都会の交差点沿いで
簡単に路駐するわけにもいかず、
なかなか写真を撮るまでに至りませんでした。

 

ある時、那覇で呑む機会があって、
歩いて移動中に撮ったのがこちら。

夜写真で失礼しました。

 


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