がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

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察度のおうち、黄金森グスク

2018年09月12日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

宜野湾市大謝名にある黄金森グスク(黄金宮)。

中山王になる前の察度が住んでいた場所
とされている所です。
(ちなみに察度の実家はコチラ

住宅街の中にあるのでとても分かりにくい…
と聞いていましたが、
『黄金宮』という標識がどーんと立っていて
分かりやすくなっていました。

でもこの標識がないと
一般民家の庭にしか見えないので
確かに分かりにくかったかも。

以前のこの場所の写真を見ると
大きな木があったりして
もっと緑が生い茂っている感じでしたが、
台風でやられたのか伐採されており
こざっぱりとした印象でした。

 

 

中には案内板と、

拝所のみ。

かつては石積などもあったようですが
今はすっかり住宅地となっていて
その面影は見当たりません。

 

 

なぜ黄金森、黄金宮というと、

貧しかった察度が勝連按司の姫を嫁にゲットし、
この住まいに戻ってくると、
なんとそこらへんに黄金がゴロゴロ。

驚いた姫が問いただすと、
「これなら畑にいっぱい転がってるぞ」と。

姫から黄金の価値を教えられた察度は
その黄金で港に来ていた商人から鉄を買い、
農機具を作って皆に分け与えた。

…という逸話に由来しています。

 

 

昔はこの近くまで海岸線が伸びてたんですね。

釣りなどをして放蕩していた察度
…というのも納得な環境。

 

 

道中にも案内板があったので
迷わずに行けました。

 

↑案内板(クリックで拡大)



りゅうPON「人ものがたり」で描いた察度。
勝連グスクに嫁を無心するの図。


琉球/沖縄、一問一答 【第120問】

2018年08月12日 | ・琉球史散策/グスク時代

【第120問】

 

琉球王国最後の国王の名前は?



 

(答えは下)

 

 

 

琉球/沖縄、一問一答シリーズについて

 

 

 

 

■ ■ ■ ■


 

 

 

【答え】

 

尚 泰(しょう たい)
(1843~1901)

 

琉球処分を受け、東京に移り住みます。

尚泰久(しょうたいきゅう)と
ごっちゃになる人が多いので注意です。



琉球/沖縄、一問一答 【第119問】

2018年08月03日 | ・琉球史散策/グスク時代

【第119問】

 

琉球史上、最初の王とされていて
源為朝の子という伝説もある、
カタカシラのモデルとなった人物は誰?



 

(答えは下)

 

 

 

琉球/沖縄、一問一答シリーズについて

 

 

 

 

■ ■ ■ ■


 

 

 

【答え】

 

舜天(しゅんてん)

 

舜天は右の側頭部にコブがあり
それを隠すようにそこに髪を結っていた。
彼が王になると皆が真似し始めた
それがカタカシラの始まりである。
(『蔡温本 中山世譜』)

でも雪舟の描いた琉球人の図では
カタカシラは左側になっており
右か左かはどちらでも良かったのか
時代を経て変わったのか、謎です。

 

舜天王の墓↓


琉球/沖縄、一問一答 【第117問】

2018年07月28日 | ・琉球史散策/グスク時代

【第117問】

 

中山世鑑を漢文に訳した歴史書の名称は?


 

(答えは下)

 

 

 

琉球/沖縄、一問一答シリーズについて

 

 

 

 

■ ■ ■ ■


 

 

 

【答え】

 

中山世譜(ちゅうざんせいふ)


 

蔡鐸本(1701)と蔡温本(1725)があります。

蔡温が、父・蔡鐸の「中山世譜」を改訂したのものを
「蔡温本 中山世譜」と言います。

 

正史を古い順に並べると

・中山世鑑(1650)

・蔡鐸本 中山世譜(1701)

・蔡温本 中山世譜(1725)

・球陽(1745)

となります。


クリスin那覇市歴史博物館

2018年07月18日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

那覇市歴史博物館で開催中の
『考古学から見た那覇』

 

ワタシも開催早々観に行ってました。

お目当ては、円覚寺跡から出土したという「クリス」!

琉球戦国列伝でも芥隠に持たせた、
あのくねくねした剣です。

 

まだ生では見たことがなかったクリス!

ついにお目見え!!

 


芥隠さん@琉球戦国列伝ver

 

かーなーりー小さかった。

 

 

戦国列伝で描いたものほど大きくはないとは思ってたけど
予想以上に、はるかに小さかった…。

びっくりこいた…。

 

(…戦国列伝で描いたクリスは
同型で大きさの違うクリスが他にもあった、ということで…

 

展示会ではほかにも
3万年前の自然が分かる遺物や
国際商業都市として栄えた那覇の様子が垣間見える
様々な出土品が展示されています。

 

コンパクトな展示ではありますが、
一見の価値ありです。

 

今月30日までですので
まだの方は是非この機会に★

 

06月A4ポスタ(刀剣)よこ+延長+延長

 

また、当初6月までだった宝刀の展示も
同じく今月30日まで延長中!

実は当初の展示最終日の日(6月27日)に、
あの刀剣乱舞の新キャラ「千代金丸」がお披露目され
ネットがかなりざわつくというまさかの事態が発生…

その「千代金丸」キャラのニュースをうけ、
学芸員さんが頑張ってくれてみごと展示会期が1か月延長!!

 

…という経緯があります。

 

こちらも是非。

(でも私個人的にはやっぱりクリス推し!)


森の川と西森御嶽

2018年06月24日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

『琉球歴女の琉球戦国キャラクター図鑑』でも
擬人化されてる宜野湾市にある森の川。

言わずと知れた、
天女の羽衣伝説のある泉です。

 

 

ここで出会った天女と奥間大親は夫婦となり、
一男一女をもうける。

その一男が、後の察度王である、
というお話。

今でも水が湧き出ている森の川は
公園として整備されてて
綺麗なので
訪れやすい史跡の一つです。

 

この森の川の奥には
西森御嶽(にしむいうたき)があります。

 

 

ここは奥間大親の居住跡とも伝えられており、

石門の奥には洞穴の古墓は
奥間大親の墓ともいわれているようです。

 

参/沖縄拝所巡り300(比嘉朝進著)

 

察度もそうだけど、
奥間大親もなかなか人間臭さが感じられて
面白いです。


写真は’14.9撮影のもの。


ナスの御嶽/舜天王の墓

2018年05月20日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

北中城村を代表する史跡のひとつ、
ナスの御嶽。

🍆ではなく、
この御嶽の、神の依り代であるイベ(岩)の神名
「ナスツカサ御イベ」からきているもの。

 

 

そのイベが柵の向こう側にある岩。

 

 

このナスの御嶽は
「舜天の墓」として紹介されていることも多く、
岩の手前にある石碑には
「舜天王 舜馬順煕王 之墓」

と書かれていました。

舜馬順煕(しゅんばじゅんき)は舜天の息子で、
舜天王統の2代目です。

 

 

三代目の義本王については、
舜天らと同じくもここに葬られたとも、
王妃墓に葬られたとも、
はたまた辺戸だ、と
謎になっています。

 

義本王の時代(1200年代)に飢饉や疫病などが起き、
義本は自分の不徳の故だとし英祖を摂生に迎え、
後には王位をゆずって
隠遁したと言われています。

『中山世鑑』などは、義本のこの判断は正しかったと、
義本王あってこその英祖王であり
この禅譲が国に利益をもたらしたと義本を称えていますが、

義本のその後の足取りが不明であったり、
本島最北にまで及んでいること、
墓とされるものが点在していることを考えると、

義本から英祖への政権交代は
歴史書にあるように平和的な禅譲ではなく、
波乱万丈な最期だったんじゃないか、
結構、悲劇の王様だったんじゃないだろうかと想像します…。

 


【描いてみた】琉球史マイナー人物、を、9 ver弐【キラ男子】

2018年05月13日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

GWの史跡巡りが図らずも舜天王統巡りになったので
キラキラ舜天を描いてみた。

昨日記事にした義本王は舜天の孫にあたります)

 

…けど、以前にも舜天はキラキラ化しているので
今ならこう描く、というバージョン2ということで。

前はコブの位置逆にしちゃったしね…。

 

お父ちゃん(伝)の源頼朝は武芸に秀でた武骨なイメージがあるけど
舜天はなんとなくしなやかな人というイメージ。

バージョン1よりも少年的で中性的にしてみた。

『中山世鑑』によると10歳には才徳にすぐれ、
15歳で浦添按司になったみたいだし。
若くして活躍したのは確かでしょう。

でも舜天という人物そのものを
突き詰めて考えてみたことはあまりないので
追及してみると面白いかも。

 

なお、彼はまだ伝説上の存在とも言われていますが、
琉球王国の王様は代々、舜天(=尊)を初代として数えられているため
過去記事→尚巴志じゃない、初代“王様”
お父ちゃんが源為朝云々などはさておき、
その時代に舜天に値する力を持った人物がいたことは確かかもしれません。

 

 

源為朝が主人公で後半は琉球が舞台となる
江戸時代のファンタジー小説『珍説弓張月(滝沢馬琴著)』。

葛飾北斎が描いた挿絵には舜天↑も。

関連過去記事→  


王妃の墓in北中城村

2018年05月12日 | ・琉球史散策/グスク時代

そういえば、
北中城村に焦点を当てた史跡巡りって
やったことがないな、と思って、
今年のGWは北中城村史跡巡りをしてみました!

 

参考にしたのはこのマップ。

 

 

でーじじょーとー。

各自治体作ってほしい。

 

いくつか周ったのですが、
中でも苦労した史跡がこちら。

【王妃の墓】

 

 

仲順・喜舎場エリアは
このような史跡道路表示があり、
そこにもばっちり表示されています。

歩道に沿って引かれている白いラインをたどると
その史跡に行けるになっているはずが…

 

なぜか王妃の墓のラインは途中でスルーされており…。

マップから判断するに森(藪)へダイブなのは予想がつきましたが
ここから入っていく、という表示もまったくなく…。

 


(史跡案内の歩道の白い線はずっと先に続いているのだが…)

 

マップから判断して、
藪の奥に行けそうなところを、勘で。

 

 

森の中に入っていく…。

おお、古い石段や道が……。

怪しい…。


(写真は帰りに撮ったものもあるので登りのように見えますが
基本、下って行く感じでした)

 

 

途中に途中に古墓がいくつも。

王妃の墓ってこれのこと?

いや、それともコレ??

 

いまいち確証が得られるのまま、
何度か引き返そうとしつつ、
あともう少し、あともう少し…と先にすすんでみると……

 

 

…あった…!!

 

 

予想以上の立派なお墓!
立派な空間!

 

さて、ここに祀られている王妃とは、
舜天王統最後の王様(1200年代)、義本王の妃のこと。

義本王自体のお墓は
辺戸にそれとされるものがあったり
はたまた仲順のナスの御嶽がお墓だとされていたり、
実はここ王妃の墓に、義本王も一緒に葬られている…
などなど、色んな説があります。

 

辺戸よりも、ナスの御嶽よりも、
ここが一番大きくて迫力がある…!!

 

 

シーミーが行われていたのでしょうか、
生花が生けられていました。


きっとここまでたどり着けたのも、
草刈りされてて道が見えていたおかげ。

シーミーの恩恵にあずかりました(感謝)。

 

 

+ + +

 


近くには
義本王の直系の子孫であるという
花崎家のお墓もありました。



【オマケ】

辺戸の義本王の墓についての関連過去記事
義本王の骨発見…!?


伊祖の高御墓

2018年03月23日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

埋もれた写真データを発掘。

浦添市にあります、

「伊祖の高御墓(いそのたかうはか)」です。

 

昔、琉球が統一される(1429年)前までは
中山の中枢は首里ではなく浦添でした。

その浦添一帯を治めていたのが中山王、
尚巴志以前を遡ると、察度や英祖、(舜天)、の王統ということになります。

(察度代に首里遷都の説もあり)

 

 

このお墓は、
(今のところ)存在が確実視されている最初の中山王・英祖の、
父祖の墓です。

(舜天はまだ伝説の粋。
あ、でも英祖の一つ前の義本王は有力になってきてるのかな…!?)

 

なお、当の英祖王自身の墓は
浦添ようどれ」とされています。

 

 

なお、英祖の父は
伊祖グスクを拠点としていたと言われています。

 

 

お墓から振り返るとこう。

国道330が丸見え。

浦添大公園の所にあります。


琉球におけるお寺の始まり

2018年03月17日 | ・琉球史散策/グスク時代

前記事の続き。

 

英祖王代、
琉球に初めて仏教を伝えたとされる
謎の人物、禅鑑。

その彼が開いたのが極楽寺です。

浦添グスクの近くにあったようで…
というのが前回までのお話。

 

さて、その極楽寺。

 

のちのち荒廃したので
「浦添グスクの西」から
「浦添グスクの北」に移転。
(尚巴志の頃ではとも考えられています)

 

しかし火事で焼失。

 

時はたち、
尚円王の時代に浦添村に移設し、
名前も「龍福寺」にチェンジ。

あの芥隠龍福寺の住職を務めています。

 

(なお、寺内には舜天から武寧までの各王様らの大硯屏があったようで
第一尚氏以前の王統の国廟的な役割もあったのかもしれません


1609年の薩摩侵攻の際、
龍福寺は焼き払われて再び焼失。

 

そして尚寧王が更に再建したのが
現在の浦添中学校のグラウンドあたり。

 

 

けっこう大きなお寺だったようです。

明治期の龍福寺の回想図がこちら。

 

 

その後の龍福寺は(おそらく官営としては)廃寺となり

大正初期に糸満市に移転。

そして大正末には更に沖縄市泡瀬に移転します。

 

 

…ん!?

沖縄市泡瀬!?

 

小中時代を過ごした私の庭でもある泡瀬。
泡瀬にお寺なんてあったっけ???

 

 

 

……はっ!!!

 

 

もしかして
ビジュルの向かいにあるアレか!!!

 

 

 

これが現在の龍福寺だ!!!!

 

 

 

 

まぎれもなく龍福寺!!!

 

外見はただの家に見えますが
立派なお寺!!

 

 

 

 

2つ隣の黄色い建物は龍福寺の文殊堂。

私が小さい時はこんなにハデな建物じゃなかったんだけどね(^^;)


建て替えられてリニューアルされています。

 

まさか、小さい頃から見ていたこの建物が
琉球で初めてのお寺の流れを汲む龍福寺(極楽寺)だったなんて……。

 

「雨城」の場所を知った時と同じくらいの衝撃。

 

これまではただの派手なちょっと異質な建物(失礼)
くらいにしか思ってなかったけど

俄然見え方が変わってきました

 

中には入ったことないんだけど、
今でも舜天~察度王代までを祀ってたりするのかな??

 

 

道沿いには立て看板もできてました。


琉球の寺の始まりって書いてるし!



参/
『琉球仏教史の研究』(知名定寛著/榕樹書林/2008)
『お欣和は仏教王国だった―仏教はなぜ定着しなかったかー』(川上正孝著/新星出版/2017)


琉球における仏教の始まり

2018年03月14日 | ・琉球史散策/グスク時代

現在のマイブームは沖縄の神社と寺です。
(時々、琉球古来の神々)

という訳で、神社・寺関係の本も読み、巡り、
ブログに書きたいネタもたまっているのですが
全然更新が追いつかなくて
書こうと思っていたネタを
どんどん忘れていく今日この頃です。

 

でもインプットした物は
アウトプットして初めて知識として定着する、
ということを実感しているので
遅くなっても一つ一つ書いていけたらと思います。

 

そんな今日は、この人について。

 

渓隠&芥隠の時と同様、
キャラ(ビジュアル)化して右脳にアプロ―チ!

 

 

禅鑑(ぜんかん)です。

 

『琉球国由来記』によると
彼は琉球に初めて仏教を伝えたお坊さんとされています。

英祖王代(1200年代)のことです。


その人物像は謎で、どこから来たのかなどもよくわかっていないのですが、
琉球に流れ着いた彼は名をなのらず
ただ「補陀落(ふだらく)僧」と言ったそう。

 

球陽では彼の名前を禅鑑と書いており、
禅鑑とは後に琉球で名乗った、もしくは付けられた名前なのかな…?


そのことから「補陀落渡海」に関係のある者と考えられているそうですが、
「補陀落渡海」とは、海の遥か彼方に補陀落山という所があり
そこに観音菩薩が住んでいるという信仰の元、
この補陀落山を目指して小舟で海に漕ぎ出し、航海を続けるという行為。

 

もちろん、そのまま海に沈むことが常だったのでしょうが、
運よく(悪く?)潮に流されて、
どこぞの島にたどり着くこともあったわけです。

 

ってゆーか、彼は
たどり着いた先(琉球)が
観音様の住む補陀落山じゃなかったことを知り
落胆したのでは……
と個人的には想像するのですが
どうでしょうかね。

 

そして当時浦添一帯を治めていた英祖と会い、
英祖は禅鑑の話に感銘を受けたのでしょう。
彼のために浦添グスクのそばに「極楽寺」を建て、
禅鑑を住まわさせた…

よって極楽寺が琉球で初めの寺とされています。

 


現在、考古学の立場から浦添ようどれの前のあたりが
極楽寺跡では?と考えられているのだそうです。
(『首里城以前の王城・浦添グスクの調査』)



この極楽寺について追いかけてみたら
思いのほか面白かったので次記事に


つづく。



参/
『琉球仏教史の研究』(知名定寛著/榕樹書林/2008)
『お欣和は仏教王国だった―仏教はなぜ定着しなかったかー』(川上正孝著/新星出版/2017)
『沖縄大百科事典』


望月按司は●だった!?

2018年02月26日 | ・琉球史散策/グスク時代

そのうち書こう書こうとおもいつつ

何年もたってしまったあの話を、
今日は書こうと思います。

出典はこちら。

 

琉球の裏面史』
(石川文一著/琉球文庫(S49))



この本は9つの伝承(歴史)と
それに対する筆者の推測・考えがまとめらているのですが
そのうちの一つ、

〝第8話 望月按司、阿麻和利に討たる〟
より。

 

ご存知、
阿麻和利に討たれた。
酒におぼれて政治を怠っていたという
あの望月(茂知附)按司です。

 

 

この望月按司の実像に迫るというもの。

 

 

 

 


結論を先に言うと、

 

 

 

 

 

 

望月按司は女だった(!!)

 

 

 

ということ。

 

 

はぁっ!?

 

 

と思わず声を発した皆さん、
私と同じです(笑)

 

 

では、なぜ著者が望月女説を確信するに至ったかを
簡単に追ってみることにします。

 

まず、
按司と言う名称は
何も男性限定のものではなく、
身分の高い特別な女性にも
つけられている、ということ。

百十踏揚も
百十踏揚按司加那志
と書かれているように。




百十踏揚の墓標

 

ふみあがり(踏揚)もそうだけど、
身分の高い(王妃、王女、夫人など)特別な女性には
三十三君(高級神女)としての名称がつけられており
(※三十三君の名を持つ者が全て王族という意味ではない)
それには名前の後には「按司」がつくとのこと。

 

なお、王族の三十三君の場合、基本的に
尚真代に確立された聞得大君を頂点とする
ピラミッド型の神女体形に組み込まれた

祭祀をつかさどる実質的な神女というよりは
それとは別枠の、名誉職名みたいなものかなとワタシは思っています。



(『絵で解る琉球王国歴史と人物』/JCC出版部 より拝借)



「ふみあがり」や「もちづき」はその三十三君にもある名前です。

よって、
踏揚が踏揚按司と称されて存在したように、
望月按司と称されている存在も当然おり、
実際、
浦添王子朝里の次女と、
羽地王子朝武の娘(池城親方安頼の奥方となる)は
望月按司として『女官御双紙』に記録されているそうな。

 


首里、琉染にある三十三君の名前の額 もちつき や ふみあがり が確認できる。他に あふりやゑ(アオリヤエ)なども。

 

また、
男性に使う「按司」の場合も、
領地名+按司と言う風に使うのが常だが
(勝連按司、今帰仁按司、中城按司etc…)
「望月」という地名はない、と。

 

だから、「望月按司」というのは
神名である「望月」に、敬称としての「按司」がついたものであり
それはつまり女性であることに他ならない

と。

 

 

さらに、続きます。


勝連のオモロには
「もちつき」を謳ったものがいくつかあり、

 

あかる もちつきや

きみの もちつきや


で始まるオモロ(巻十六の六)には
もちつきや のところに


原註 かつれんのあまわり おなちやらを申なり

とあるらしい…!!

 

おなちゃら=オナヂャラ(ウナジャラ)=女按司・妃


つまり、


望月は阿麻和利の妻(女)だった!!

 

なにぃっ!?Σ( ̄□ ̄|||)

 

 

ただ、私はこれはもしかしたらあると思っていて。
(望月按司=女というのはひとまず置いといくとして)


というのは、
阿麻和利と、倒された望月按司は
お互いにまったく面識がなかったわけではなく
阿麻和利は元々望月按司に仕えていた(奉公していた)というのは
ちょいちょい見かけるんです。

ほんで、そのうち望月の娘と結婚し、
望月の婿養子に入った…っていうのは
小説『百十踏揚』の設定だけど
それに近い伝承だったかなんだったか、
ちょっとハッキリはしませんが、どこかで読んだような。

 

だから、
望月(一家)と阿麻和利が、かつて、
なんらかの密な関係を結んでいたのは
あり得るかな、と。

そして、
「望月按司(一家)」は
阿麻和利らに倒されてしまい、

その後、新たに妻に迎えたのが、
あの百十踏揚、と考えれば、

(もちつき が)
かつれんのあまわり おなちやらを申なり

というのもアリエナイ話ではないかな、と。

 

 

従来通り、望月按司は男性だという立場に立って
これらのことを総合して私なりに考えてみると

とりあえず、

おもろを見ると、
もちつき という名前の身分の高い神女が
勝連にいたことは確かだと思えます。

そしてその神女は、若き阿麻和利と関係があった。
(→かつれんのあまわり おなちやらを申なり
彼女の父親は勝連城主で、
神事をつかさどるものとして影響力を持ち、
おもろにも歌われている娘の「もちつき」と言う神名を
美称として自らにも「望月(の父)」として使った(記録された)
っていうのはどうかな?

(父が娘の名を借りて威を誇るってのは無理があるかな?(^^;))

そしてなんやかんやの理由があって、
彼女(もちつき)と、父(勝連城主望月)は
阿麻和利らによって討たれれる、と…。

 

 

 

 

ともあれ、
著者はこの
かつれんのあまわり おなちやらを申なり
という原註記述は誤りでは?と棚上げして、
(その理由は割愛)

女性「望月按司」は
先の勝連城主・浜川按司の奥方だったであろう
と推理しています。

 

 
勝連グスク内の案内版

 

そして、彼女は
夫である勝連城主・浜川按司が早くに死んだので、
彼に代わって政治も行うようになった…

(跡を継ぐ子(=3代目浜川按司)がいたが、
まだ幼少だったため代わって母である彼女「望月按司」が政治を行った、とも)

 しかし酒におぼれ政治を怠り、
阿麻和利らに討たれることとなる…。

 

 

 

 

さて、長々と望月按司女説をご紹介してきましたが

 

あなたはこの説、

 

あり?

 

それとも

 

なし?


伊波グスク再訪

2017年05月08日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

薄曇りながらも新緑が目に鮮やかな4月某日。

久々に伊波グスクに行ってきました。

以前訪れたのが2010年だから…
7年ぶり(!!)

 

以前は緑豊かな風景だったのですが、
今回は足元の緑がなく、
ちょっと殺風景な印象…。

 

 

でもその分、以前よりも石垣がちゃんと見れる!

 

 

通用門の所。

場内からの視点。

 

 

通用門から、場内の視点。

ちなみに通用門の所の道は
藪に覆われていて現在通行できません。

 

 

グスクから見下ろす、
石川の街並み。

 

 

一の郭パノラマ。

パノラマ写真はクリックで拡大します。

 

草がないことで、
前は見れなかったもの、
気づかなかったもの、
たくさんありました。

(というか、それ目当ての再訪だったのですが)

 

もしかしたら、これからの梅雨を経て、
夏に向けてまたどんどん草が伸びていくのかも。

もし、遺構をしっかり見ておきたいという方がいれば
今のうちかもしれません。

 

 
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史劇 尚巴志と三山

2017年03月04日 | ・琉球史散策/グスク時代

琉球歴史ドラマ「尚巴志」放送を目前に控えての
尚巴志関連再放送の一環として、

今日の午後3時から放送されたウチナー芝居、
RBCアーカイブス特選「史劇 尚巴志と三山」
を見ました。

 

公演は1982年!
35年も前の映像。

もちろん見たのは初めてでしたが
興味深く拝見しました。

その1番の理由が、

 

物語のメインが


武寧


だったから。

 

 

三山が語られるとき、
どうも武寧は影が薄いというか、
省略されることが多い気がする(笑)

ドラマ「尚巴志」でも出ないしさ…。

だからイチ人間としての武寧を
イメージしたことのある人は
なかなか少ないと思うのですが、
その武寧が尚巴志の敵役として主要キャストに!!

 

察度の子としての立ち位置もしっかり踏まえた上での
酒好き女好きの愚王として描かれていました。
(そして汗っかき(笑))

武寧王の王妃、側室、
臣下たちの対立なども。

ぶっちゃけ、
尚巴志よりも武寧の方が詳しく描かれていたような…。

(それとも今日放送されたのはごく一部で
物語はもっと続いているのかな。
そんな感じはするけど…)

 

武寧を討った所で物語は終わるのですが、
悪い王様を討った正義の味方・尚巴志!
めでたしめでたし~!

というのとはちょっと違った終わり方に
ほほ~…ってなりました。

 

「今まで驕り高ぶった
武寧の哀れな姿よ。

平田に美里よ、
決して喜ぶな、

今日の勝ち戦」

 

 

これはキラキラ化した武寧
ちびキャラバージョン。

尚巴志に倒された「悪いヤツ(=敵)」に
光りを当てたい!!

…と思う和々なのでした。

 

 

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