がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

当サイトの掲載写真・イラスト等の無断転載/無断使用を禁じます

沖縄の建築と文化を守った男、仲座久雄展

2021年03月07日 | ・琉球史散策/神話・近代

 

中城村・護佐丸歴史資料図書館で開催中の
「仲座久雄」展に行ってきました!

仲座久雄(1904~1962)は
戦前・戦後を通して沖縄の建築や文化財の保護に尽力した
中城村出身の人です。

建築界では知らない人はいない!
っていうくらいの有名人。

 

でも建築だけではなく彼の業績は様々で、
この展示会では幅広く紹介されています。

 

大きく分けるとこの3つ。

 

① 戦後の沖縄建築(設計)

② 花ブロック

③ 文化財

 


唯一の写真OKな「キカクヤーの模型」

 

特に知られているのが「キカクヤー」(規格住宅)


パーツごとに加工され、
現場で組み立てれば家になるという
プレハブ式の簡易住宅。

戦後、家を失い収容所でテント暮らしをしていた
多くの人に無償提供され
戦後復興の大きな役割を果たしました。

 

他にもいろいろな公的施設や教会などの設計をしており、
年配の方なら覚えのある建物もあるかもしれません。
(残念ながらそれらの建物は、今はほぼ残っていません)

 

 

 

そして花ブロック!(好き!)

沖縄といえば花ブロック!

もともと穴の開いた装飾性のあるブロックは
世界各地にあるのだそう。

おそらく米軍とのやり取りの中で
そのようなものを見聞きしていたのかもしれない仲座は
いわゆる「花ブロック」を考案・普及させました。

今でも沖縄の至る所で見かける花ブロックは
100種類ほどもあると言われています。

本土にも多少花ブロックはありますが
そのバリエーションや使用量は沖縄の比ではありません。
花ブロックはもはや沖縄の立派な文化なのです。

 

ただ、仲座デザインの花ブロックは、
今はあまり見かけなかったりします。

集落の古い建物や塀などに残っているのを
探すしかなさそう。

「花ブロック」にちょっとアンテナを張って地域を見てみると
もしかしたら仲座デザインの花ブロックを発見できるかもしれません!

(実際の仲座デザインの花ブロックについては是非展示会場で☆)

 

 

 

そして、文化財保護。

戦後、守礼門や園比屋武御嶽石門など、
多くの文化財を修復・復元などに尽力しました。

 

 

 

また、修復・復元以外にも
文化財指定に向けての調査も行っています。

 

 

石垣島の
桃林寺仁王像

 

 

権現堂

 

 

久米島
上江洲家住宅

 

 

仲里間切蔵元石穡

などなど。
(まだまだいっぱい)

 

 

それから、

 

 

伊波普猷の墓や

 

 

円覚寺放生池とは
どんな関連が!?

 

答えは展示会場にて!

 

 

 

今回は運よく濱口館長が受付にいて
つきっきりで案内をしてもらいました!
(ありがとうございました!)

定期的に待機しているようなので(※毎日ではないです)
もしタイミングが合えば声をかけてみることをおすすめいたします!
展示内容も分かりやすく把握できる上に、
裏話などもたくさん聞けたりして!?

可能な方は比較的すいている平日が狙いめかも!

 

濱口館長は護佐丸歴史資料図書館ブログでも
仲座久雄展についての熱い紹介記事を書いていますので
是非ご覧ください。

私のこの下手な紹介記事なんかいらないかも?(^^;)

 

 

仲座久雄展~沖縄の建築と文化を守った中城出身の建築家~

護佐丸歴史資料図書館 3階企画展示室
~3月29日(月)まで
10:00~17:00
入場無料

※毎週火曜日と3月18日(木)は休館日

 



 

もう少し書きたいことがあるのですが、
長くなったので次記事で。

 

(つづく)


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近代那覇の都市風景

2020年01月04日 | ・琉球史散策/神話・近代

今日が仕事はじめという方も多かったでしょうか。

三が日明けがちょうど土日だったことから
私は、月曜日まで持ち越しです。

 

そこで、この正月休みの内にやっておきたかった「宿題」を
2つ片付けました!

偉いぞ自分!!(笑)
(でも本当はあと一つ、手を付けておきたいトコロ)

 

その「宿題」に使うため、
編集した画像。

どうやらまだブログ記事にはしてなかったようなので、
ツイッターではUPしてたけど
ずらっと公開。

 

 

それは、
那覇市歴史博物館に常設展示されている
ジオラマ(模型)です。

 

 

昭和7~12年頃の那覇の中心地(現:那覇市東町)を再現したものです。

路面電車が走り、
洋風建築の中に赤瓦が混じる、
独得な都市風景を作り上げています。

 

 

今でいうレトロモダンな洋風建築は、
那覇市役所、那覇郵便局、那覇市公会堂や山形屋など。

 

 

この模型は、このまちに暮らしていた
人々の姿も生き生きと再現しています。

 

 

では、その人々に焦点を当てて
当時の那覇の暮らしを覗いてみましょう。

 

 

いかがでしたでしょうか。

一人ひとりにドラマがありそうですね。

 

近代沖縄の物語といえば、
琉宮城の姫君』(滝沢志郎著)が記憶に新しいですが、

このような”ハイカラ”な那覇で暮らしていた
近代沖縄の人々の物語がもっと読んでみたいものです。

 

 

那覇のランドマークでもあった
那覇市役所の塔。

5階建ての鉄筋コンクリートの塔で
時報を知らせるサイレンがついていた。

だけどそのサイレンはたびたびズレていたため、
人々からは「バカ塔」と呼ばれていたそうです(笑)


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沖縄神社の今

2018年12月29日 | ・琉球史散策/神話・近代

前記事のつづき。


戦前、首里城にあった沖縄神社。

 

ご存知のように、


旧日本軍の司令部があった首里城は
沖縄戦で猛攻撃を受け、
首里城こと、沖縄神社も灰塵と帰しました。

 

…が、

 

 

実は、
沖縄神社そのものは
今も続いているのです…!

 

もちろん、今の首里城の裏には
何もありません。

 

今は、こちらに移動・再建されています。

 


しゅーりーの東ーのー

べんーがだけ~

(※母校の校歌)

 

の、弁ヶ岳(弁ヶ嶽)

 

この↑拝所の道向かい。

 

 

この階段を上がっていきます。
(なんか、光が神々しく写ってる…!)

 

手前にあるのは、
鳥居の脚の名残です。

 

 

階段を登ったところにあるのが
この祠。

 

訪れたのがちょうど1年前だったので、
お正月仕様になっております。

 

 

手前の、赤い柵のあるほうには

イビ石が。

(その手前には鏡餅)

 

 

イビ石の上の表示を見ると、


左から

 

尚圓(円)王

察度王

舜天王

英祖王

尚思紹王

 

とあります。

 

…戦前の沖縄神社5神と違う…!!

 

舜天以降の各王統の祖ですね。

 

 

奥のもう一つの祠。

扉ではなく白い網で閉じられていて、

こちらにも
ごろっとした大小の石が5つ置かれていました。

 

(トリミング&色調補正で)

 

さっきのイビ石みたいに
平たくて地面に立ってるという感じではなく
色も形も様々で。

ここは石が置かれているだけで
名前や名称なども何もありませんでした。

 

 

ただし

『沖縄の神社』(加治順人著)によると
戦後、祭神が変わったとか追加されたという記述はありません。

また、
波上宮のサイト内にある
沖縄県神社庁・沖縄神社の項でも
同じです。
(波上宮の宮司が沖縄神社の宮司を兼務しているそう)

しかし、
そこ波上宮サイトに掲載されている沖縄神社の写真は
各王統の祖の名前があった手前の祠であり、
奥の祠は載せてはいません。

 

………うーむ、いまいち謎…。

 

 

+ + +

 

 

≪追記(2019.12)≫

 

先月、久しぶりに訪れると、
祠(手前の、赤い冊のほう)の前に
新たにリーフレット入れが設置されていて、
『沖縄神社略記』(波上宮社務所 発行)が入っていました。

 

それによると、
御祭神は前記事で紹介した通り、
舜天・尚円・尚敬・尚泰・源為朝。

この記事で触れた
中の各王統の始祖の名前の石板や、
隣の白い網の祠については
一切ふれられていなかったので、

沖縄神社とは無関係に建てられた(つけられた)
ということでいいのでしょう。
(沖縄にはこういうの、多いからな…)

 

これが沖縄神社オフィシャルの見解、
ということで追記しておきます。

 

ちなみに、沖縄神社は
宗教法人として認証・登記されているようです。


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沖縄神社

2018年12月29日 | ・琉球史散策/神話・近代

前記事のつづき。

 

戦前、皇民化教育の一環として
琉球王国時代からの御嶽やグスクが
神社化されたという話。

 

では、

沖縄で1番有名な、あのグスクは!?

  

 

そう!!

沖縄に300もあるというグスク群の中で
来城者数ぶっちぎり1位を誇る、

 

首里グスク!(首里城)

 

 

この首里グスクも例外ではなく、

かつては

沖縄神社(の一部)であり、

首里城正殿は
「沖縄神社拝殿」と呼ばれていました。 

 


↑クリックで那覇市歴史博物館デジタルミュージアム該当写真にジャンプ

 

この写真↑を見ると、
灯篭、しめ縄、賽銭箱や手水舎
見受けられます。

(鳥居もあったようですが、
戦前の首里城の写真を色々見てみても見当たらず)



↑クリックで那覇市歴史博物館デジタルミュージアム該当写真にジャンプ

 

↑こちらが拝殿(正殿)の後ろ側、
つまり御内原に新しく建てられた
「沖縄神社」の「本殿」。

こっちが沖縄神社の本元。

 

 

 

 

ところで、
琉球処分によって主を失った首里城は
荒廃の一途をたどっていました。

白アリや台風などの被害を受け、
大正末期には半壊状態に。

いよいよ「首里城取り壊し計画」が上がった時、
文化的な価値からそれを良しとしない人々が立ち上がり、

首里城正殿を、
「沖縄神社」の「拝殿」であることを名目に
国から修理費用の補助金をとり、

昭和の大改修へと繋げたことで
取り壊しを免れます。

 

皇民化教育における
グスクの神社化の歴史って、
複雑な気持ちになる部分もあるけれど、
それが功を奏したという側面もあった、
ということですね…。

 

 

 

 

さて、神社というからには
気になるのは

 

誰を祀っていたの?

 

ということ。

 

沖縄神社は「県社」、
つまり沖縄を代表する神社として建てられましたから、
祀った人も沖縄を代表する人たちでした。

 

当初は

 

琉球開国の祖である舜天

その父・源為朝

そして王国ラストキング・尚泰

 

の3人(3神)だったようですが、

 

後に

第二尚氏の祖・尚円

琉球ルネサンス・尚敬

 

が追加され5人(5神)となったそう。

 

この祭神選びは紆余曲折あったようで、
琉球の偉人を祭神とする案は最初、
内務省からの許可がでなかったのだそう。

しかし、舜天の父である源為朝を主神にすることで
やっと認められたのだとか。

 

 

そして、

ご存知のように、

旧日本軍の司令部があった首里城は
沖縄戦で猛攻撃を受け、
首里城こと、沖縄神社も灰塵と帰しました。

 

…が、

 

 

つづく!

 

 

参/
『沖縄の神社』
『写真集 懐かしき沖縄 山崎正董の歩いた昭和初期の原風景』
『首里城を救った男 坂谷良之進・柳田菊造の軌跡』


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グスクの神社化

2018年12月28日 | ・琉球史散策/神話・近代

年始といえば、初詣。

 

初詣と言えば、神社。
(場合によってはお寺)

 

神社と言えば、

鳥居

ですね。

 

グスクをめぐっていて
鳥居のある
グスクに遭遇したことはありませんか?

例えば、

他魯毎の南山グスク

越来グスク

伊祖グスク

名護グスク

などなど。

 

これらの鳥居付きグスクは
ちょいちょい見かけるので
特別に珍しい光景ではありません。

 

なぜ、グスクに鳥居が設置されるように
なったのでしょうか。

 

今帰仁グスクの資料館の前に
こんな文化財があります。

 

 

今帰仁グスクの前に、
かつてあった鳥居の脚です。

 

 

" 戦前、
沖縄各地のグスクが
皇民化教育の一環として
御嶽やグスクが神社と同一化され
鳥居が建立された歴史がある"

 

元々の沖縄の信仰の対象が
日本式にされた、ということ。

 

よって、グスクによっては
その痕跡としての鳥居が、
今もそのまま残っている、
ということですね。

 

これも、沖縄の歴史の1ページ。

 

 

この今帰仁グスクの鳥居は
昭和5年に建立されたもの。

 

鳥居は2003年に撤去されました。
(意外と最近!)

 

 

参/『今帰仁村の文化財』(今帰仁村教育委員会)

 

 

さて、グスクの神社化…ということは……

 

あの、沖縄を代表する超有名なグスクも、
かつては「神社化」されていたのでしょうか…!?

 

 

つづく


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尚泰王の四男、尚順の屋敷跡

2018年10月28日 | ・琉球史散策/神話・近代

首里の桃原には
琉球最後の王、尚泰の4男である尚順の屋敷跡があります。

ただの住居としての屋敷だけではなく
農園があったことも特徴。

「桃原農園」と呼ばれていました。

 

 

さすがに当時の屋敷そのものはありませんが、
庭や樹木など、一部当時からのものを見ることができ、
イタリアンレストラン「ラ・フォンテ」として

営業されて…

 

いたのですが…

 

残念ながら、現在は閉店しています。

 

行こう行こうと思いつつ、
行くなら庭が見れる昼がいいよねー、
晴れてる時がいいよねー

と伸ばし伸ばしにしていたら…
まさかの閉店。

 

思い立ったら早めの行動が吉、ですね…。

 

お店の建物や敷地は壊されずにそのままなので、
また歴史に理解のあるオーナーさんが入ってくれたらいいなぁ。

 

 

(元)ラ・フォンテの入り口には
ちゃんと松山御殿跡の案内パネルがありました。

今はこの辺りは住宅地で
広大な農園としての面影はありません。

 

 

松山御殿跡前のバス停には
「松山御殿」と書かれたベンチが(笑)

ピカピカだったので最近置かれたものなのかなー。

 

+ + +

 

松山御殿、それから尚順に関しては
本もいくつか出ているので参考までに。

 

■「松山御殿の日々・尚順の娘・茂子の回想録」
(知名茂子著 尚弘子監修/ボーダーインク)

 

■「松山御殿物語」
松山御殿物語刊行会/ボーダーインク)

 

■「松山王子尚順全文集」
(尚順著 金子豊編/榕樹書林) 


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RyCom今昔

2018年01月17日 | ・琉球史散策/神話・近代


↑クリックで拡大

 

沖縄市にあるプラザハウスは
日本で初めてできたショッピングモール。

1954年から続いています。

そのプラザハウスの3階の広場の壁には
当時のこのエリアの写真が貼られています。

 

どこがどこだか分かるかな?

 

 

では、解説写真↓

 


↑クリックで拡大

 

写真右の大きな通りが国道330号線。

南側に向かって見た写真です。

 

私が小さい頃
(ってゆーか、つい最近まで
っていうイメージがあるんだけど、)

今イオンや徳洲会病院があったところは
昔は基地内(ゴルフ場および関連施設)でした。

東(海)側からライカム交差点に出るまでの道も小さくて、
今のイオン前の大きな道路はまだなかったんだよー。

 

とりあえず、
そのゴルフ場エリアが返還されて、
つい最近、2015年に
イオンライカムや徳洲会がオープンして、
このライカムエリアは大きく変わりましたねー。

 

なお、ライカムとは
かつてのこのエリアにあった
琉球米軍司令部 (Ryukyu Command headquarters) の通称で
それがそれがそのまま交差点名となり
今に残っています。


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尚泰王の次男、尚寅

2017年07月25日 | ・琉球史散策/神話・近代

 

最後の琉球国王・尚泰の次男、
尚寅(しょう いん)。

14歳の時に廃藩置県に伴い上京。

 

そんな若き日の尚寅を描いてみた。

15歳前後くらいかな?

王国末期の人物は写真が残ってたりするので
描きやすいですね。

昔の人は頭が大きい(そして肩幅が狭い)ので
ホントはもっと頭でっかちなんですが、
あまりにもアンバランスに感じてしまうので
違和感を感じない程度に大きさ調整をしてあります(^^;)

 

 

うーむ。

最近のブログはツイッターでネタにしたことの
単なる焼き直しになっているなぁ…。


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大正6年の広告

2016年03月14日 | ・琉球史散策/神話・近代

 

「新聞投稿に見る百年前の沖縄」(上里隆史著)
が評判なので便乗して(笑)
以前チェックしてた昔の新聞広告をば。
(住所と名前の一部をぼかしてあります)

広告の内容から見ると大正6年のもの。

 

『妊娠は女の義務也 子はらみ薬』

 

うーむ、時代を感じますね。

3週間分入りで2円50銭。

7週間分入りで5円。

『新聞投稿に見る~』によると
大正時代の沖縄そばが1杯5~10銭だったようなので、
今の感覚で1杯500円だとすると、

1銭50円換算で
3週間分入りで1万2500円

ってとこでしょうか?

 

霊能的妙剤にして
其の他において
本剤特有の妙薬により…

 

霊能的妙剤…
どんな成分だったんだろう…。

 

 


「女性は2人以上生むことが大切」
という校長発言が報道されていますが
このブログ記事は女性の妊娠義務の是非について

意見するためのものではありませんのであしからず。

純粋に、「今は見ることのできない内容の広告」で
「その時代を感じ」てくれればと思います。

 

 


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近代の沖縄古道ワイトゥイ

2014年04月30日 | ・琉球史散策/神話・近代

 埋もれてた下書き記事発掘その2。

うるま市勝連にある近代の沖縄古道、ワイトゥイ。

 

人力で断崖を削って道をつないだ歴史の道。
(1935年昭和10年に完成) 

垂直に切り取られたその高さに圧倒。

これが人力によるものだとは…。 

ワイトゥイという不思議な響きは、
「割り(ワイ)取り(トゥイ)」
ということらしい。

納得。 

高さは最大20メートルあるそうです。

安全のためのネットが貼られています。

ワイトゥイは約150メートル続きます。

同じく人力で削って作られた国頭の「戻る道」よりも規模が大きいので
見ごたえ、撮りごたえ、歩きごたえがありますよ。 

恩納のフェーレー岩(エリア)もこんなイメージだったんだけどなあ(笑)

ワイトゥイのそばに立てられていた
案内板と石碑。

肝高の阿麻和利などで勝連に行く時は
ちょっと足をのばしてみてください

一見の価値アリ!ですよ。

 

参/「琉球古道」(上里隆史著/2012)

 

 
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天照大神in伊平屋島

2014年04月21日 | ・琉球史散策/神話・近代

伊平屋旅での1番の目的は
野甫の海屋蔵墓だったんだけど、

1番ショーゲキ!だったのは、
「クマヤ洞窟」でした。

島を北に向かって車を走らせていると、
突如現れた岩の塊。

むき出しの岩肌がワイルドな光景。

まるで沖縄ではないような。

階段をのぼっていくと…

行き止まり??

いやいや、小さな隙間がありました。
(ところで、左下の折れてる石柱が気になる…)

体の大きな人は諦めざるをえないほどの
人一人がやっと入るだけの小さな隙間。

そこを潜り抜けると…

なんじゃこりゃ~~~~!!

表からは想像もしてなかったほどの
広い広い空間がドーーン!!!

しかも、地面はさらさらの真砂!

聞くと、真正面にある浜から吹きあげられて
長い年月をかけて積もったものだとか。

*クマヤ洞窟*

天照大神(アマテラスオオミカミ)が隠れた天の岩戸伝説。

江戸時代の学者、藤井貞幹が
「天の岩戸はここだ」と発表。

以来、次々と学者や研究者が訪れ、
ついに昭和33年に史跡文化財に指定。

洞窟の中は高さ5メートル、
(※洞窟前の案内板には高さ10メートルとあり)
広さは200坪ほど。

洞窟の奥には石垣に囲まれた住居跡も残っているそう。

クマヤの由来は、
神がこの穴に籠っていたので
籠穴(クマヤ)と呼ぶようになった
とされています。

 

参/「いへや薬膳と旅のレシピ」(伊平屋村商工会)

確かに、そんな神話の舞台になってもおかしくないような
すごく不思議で、神秘的な空間でした。

天の岩戸伝説って
沖縄だったら知らない人もいるかな?

知らない人は例えば このサイトをどうぞ。

神話の世界も面白いよねー。

 

ま、天説云々はともかく、
この偉大な自然造形は一見の価値ありデス


写真では明るく見えますが、
洞窟の奥は天気のいい真昼でも闇の空間。

更に通路のようになっていて奥がありましたが、
さすがに行くのはやめておきました。

昔は手前に“勝手に建てられた”祭壇があったようですが
(※博物館の糾弾掲示物による)
撤去されたようでした。

入口の隙間を内側から撮ったの図。

これくらいの隙間。

穴を出ると、“現世”。

ふーっと深呼吸。

異空間を味わった伊平屋のクマヤ洞窟でした。

 


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今帰仁グスクを見下ろす

2014年04月15日 | ・琉球史散策/神話・近代

 

1回目は様子見
2回目は予想以上の難所で途中で挫折、
3回目ででやっとたどり着いた、
今帰仁のクバの御嶽登頂。

途中までは問題なく行けますが、
途中からロープを頼りに登るコースになります

途中にある御嶽。

祭事が行われる場所のようです。

この御嶽からが難所コース!

安須森御嶽を彷彿とさせる、
高所恐怖症泣かせのコースでした

地元の小学生(?)は学習の一環として
皆で頂上まで登るって聞いたけどホント!?
危険極まりないんだけど…

その難所をがんばって越えると…

今帰仁グスクを上から見下ろす、
絶景かな、絶景かな。

でもスペースはあまりなく、
足場も不安定だったので
全然動けませんでしたけど(^^;

フリーズ。

もうちょっと詳細を書くとこんな感じ。

全部見えます。

古宇利島です。 

聖地・クバの御嶽ですが意外と登山者いるみたいで、
挫折した2回目の時も、
今回の3回目も、
おじさま、おばさまに出くわしましたよ。
(登山サークルっぽいグループも)

でも、ハブと足場に気をつけて。

経験者同行を推奨します。

 
↑クリックで拡大


この時はさすがに筋肉痛キマした…。
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アマミキヨじゃない人類の始まり

2014年01月12日 | ・琉球史散策/神話・近代

 舞台AMAMIKIYOの記憶も新しい、今日この頃。

もうご存知のように、
アマミキヨは琉球の創世神であり、人の始まり、
ということになっていますが(→

実は琉球における人類発祥の伝説は
アマミキヨ以外にもあるのをご存知ですか?


向こうに見えるのが古宇利大橋

その舞台はこちら!

今帰仁の北に位置する古宇利島!

今は古宇利大橋で繋がれて
恰好のドライブスポット、ビーチスポットとして有名です
ワルミ大橋もセットでね!)

このブログでも古宇利島は何度か書いているのですが
今回は自然風景ではなく島にまつわる伝説を紹介します

古宇利大橋から島に入ってしばらくのトコとろに
このような石碑がばっちり立っています。

アマミキヨ・シネリキヨ(アマミク・シネリク)ではなく、
ウミナイ・ウミキイ(ウナイ・ウキイ(ウミキ?))。

イメージ図也。

女性がやや大きく描かれていて
ここでも女性優位な感じ?


この2人の伝説は「沖縄版アダムとイブ」とも言われていて
この通称で紹介されていることが多い感じ。

 

ではその物語を簡単にご紹介。

 

昔むかし、この島に2人の男女が天から遣わされた。

2人は裸でいても何も恥ずかしいと思うことなく
自由にのびのびと暮らしていた。

天からはいつも餅が降ってきて
2人はそれを食べて生活していた。

しかし2人はこの餅を蓄えるようになったので
神様は餅を降らすのをやめてしまった。

それで2人は海に出て漁をするようになり
労働の苦しさを学んだ。

ある日、2人は海でジュゴンが交尾をしているのを見て
子作りを理解した。

そしてここから人が増え、
沖縄に広がって行った

 

というもの。

(参/ありんくりん沖縄サイト 他)

 


手前で潮が渦巻いている…。

天から餅が降るというのはともかく
子作りについてはなかなか人間くさいリアリティが…

伝説とは言え、魔法みたいに子どもがぽんぽんぽーん
という感じじゃないんだよね(笑)

旧約聖書のアダムとイブでは
2人をたぶらかした蛇の存在があり
「知恵の実」を食べたことで労働や性の不自由に開眼してしまうのですが
古宇利島のアダムとイブは急にどうしたんだろうね。

元々人間が持つどうしようもない欲深さってことでしょうか。

ほんで、ここが2人が暮らしていたという
シラサ岬という場所。

晴れた日は海が本当にキレイ
(※撮影は数ヶ月前の秋頃。やっと今になってお披露目…

そしてこの洞窟が、2人の住処。

かつてはフイ島、クイ島(越島)と呼ばれていた古宇利島ですが
このアダムとイブ伝説があることも伴って
古宇利島は縁結びとか恋の島(クイ→コイ)
って謳ってるみたいです。

ハート岩とかさ、他にも色々あるみたいよ…。

 

まぁそういう俗的なことはともかくとして、
古宇利島は古からの風習、風景等も残っているということもあり
ちょっと“感じる”人曰く、
いわゆる霊的な意味でもなかなかの島
ということです。

桜まつりも来週から始まりますし、
北山に観光客が増えるこの季節。

今帰仁までおこしの際は
古宇利島まで足をのばしてみるのもいかがでしょうか

 


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クバの御嶽with LOVE

2013年07月10日 | ・琉球史散策/神話・近代

今帰仁グスクの西側にある山。
今帰仁にあるクバ(クボウ)の御嶽。

今帰仁の重要な聖地の1つ。

琉球七獄の1つという説も。
今帰仁の金比屋武〈テンチジアマチジ〉とも、クバの御嶽とも。)

山登り、できるようですが
この日はそのつもりじゃなくて装備もままならなかったので
入口付近を様子見だけして中断。

涼しくなったら登ってみようかと思ってます。

 

見上げたら、ちょうど雲がハート型

クバの御嶽with LOVE.

 


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久高殿とイラブー

2013年04月06日 | ・琉球史散策/神話・近代

久高島の史跡記事。

御殿庭(うどぅんみゃー)または久高殿(くだかどぅん)。

イザイホーのメイン会場で、
よく映像で使われているのもこの場所でのもの。

真ん中にあるこの建物が神アシャギ。

奥にある森は、もう神の世界。
(もちろん立ち入り禁止)

イザイホーの時にはここに籠り、
霊力を授かり“神女”となるのだとか。

この建物が現世と神の世界の境目。

手前の建物はシラタル宮。

島の始祖の一人であるシラタル(白樽)が祀られています。

逆隣の建物はなんとイラブーの燻製小屋!

えっ!?こんな最重要祭祀上場にイラブー?

って思ったんだけど、

イラブー漁は祭祀とも密接なかかわりがあったようで
祭祀を司るノロの家系だけが許されていたそうです。

最近何かでくわしく見たんだけど…ちょっとうろ覚え

なおイラブーは猛毒のウミヘビなのですが
夜に、素手で獲るのが習わし。

現在も昔ながらの手法で獲っているそうです(!)

 そのイラブーの産卵地。

イラブー汁、みなさんた食べたことありますか?

一応、久高島以外でも食べれるオキナワンフードだけど、
ワタシはないんだよなぁ…。

少なくとも一般家庭で作る料理・食材ではないからねぇ

 


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