がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

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安里大親のおうち跡、馬鞭の御嶽

2018年05月27日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

那覇市にある崇元寺(跡)。

ここには代々の王様の位牌が祀られており
冊封使が来琉した時は
まずここで先王の葬儀(諭祭)を行ったという
由緒ただしい寺院、国廟でした。

現在は石門のみが残されています。

 

その崇元寺が建てられたのははっきりとはわかっていませんが
第二尚氏になってから、1500年代(1527年頃)とされているようです。

 

さて、

今回はその崇元寺ができる前の話。

以前にも記事にしたことがあるのですが、
もともとここは
霊験あらたかな場所だったようで

あの安里大親(清信)がお告げをうけて
ここに家を建て、悠々自適な生活をしていた

…という場所でもあります。

 

 

(一部再掲載↓)

 

 

ある日、清信が安里橋の東側を通り過ぎようとすると、
白髪の老人に出会った。

一礼すると、老人もそれにこたえ、
自分の家へと招いた。

それは林の中にあり
それはそれは素晴らしい建物で
まるで蓬莱島のようであった。

そこには二人の老人が碁をし、
子どもが茶を沸かしていた。

清信は不思議に思って
礼を言ってそこを去る時
印として馬の鞭を置いて行った。


翌日、再びそこに行ってみると
何もなく、誰もいなかった。

ただ、林の中に鞭が置かれているだけなのだ。

清信はただただ神秘を感じ
そこを去った。


後日、月の美しい夜にそこを通ると
またあの老人に出会った。

そして別れる時、
老人は清信に金塊を与えて言った。

「あなたとは不思議な縁がある。
ここを開拓して家を建てなさい」

老人はそういう言い残すと
風のように消え去った。

 

清信がその土地を改めて見てみると
とても良い場所であったので
家を建て、竹の垣根を作った。

そして悠々自適の生活を送った。

 

 

その名残がこちら。

崇元寺公園のすぐそばにある、
その名も

馬鞭の御嶽
(または崇元寺御嶽)

 

そうです。
安里大親が不審に思って
目印に馬の鞭を置いていったという話に
由来する御嶽です。

つまりはここに安里大親が住んでいて
金丸にアプローチをし(そしてドン引きさせ)、
足首にある金のアザを見たという、

その場所ということになるのです。

 

参『門中拝所巡りの手引き』(月刊沖縄社/1986)

 

 

ところで、
拝みをしてる人と遭遇することはよくあるのですが
この時は男性の方々が拝みをしていて
(拝みセットを携えた本格的なやつ)
それは珍しいな、と思いました。

安里大親=男性の霊能者
という所縁もあってのことだったりして…?


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ガイド考

2018年05月25日 | ・琉球/沖縄、徒然日記

 

世界遺産をはじめとする観光スポット史跡に行くと
よくガイドさんを見かけます。

旅行会社やバス会社のガイドもいれば
その施設スタッフによるサービスとしてのガイド、
その手のプロが行う有料商品としてのガイドもあれば
ボランティアが行う無償ガイドもあります。

私自身、ガイド研修を受けガイドを請け負った経験もありますし
今でも時々依頼を受けてガイドをすることがあります。

(私の場合は子供から大人まで、
主に県内の人相手が多いです)

 

また、逆に私がいわゆる「お客さん」として
ガイドを受けることもあります。

これまで色んなガイドさんの色んなガイドを受けてきました。

その手のプロが行う商品としてのガイドは申し分ないのですが、
(有償のものはやはりそれだけの価値があります!)
無償(又は心付程度)で行っているボランティアガイドさんについては
歴史的な内容はともかく、
ガイドとして…正直…う~ん……と思うことも多く…。

 

じゃあ、
どういうことがありがちなのか?
どうしたら良くなるんだ?
と言うことを自己の振り返りの意味も込めて
ちょこっとまとめてみようと思います。

 

※歴史的内容云々のことではなく
いわゆるガイドとしての技術としての話に絞ります。

 

+ + +

 

【ガイドの役割って?】

私はガイドの役割は

ものの観方のアドバイス

だと思っています。

 

見方となる指標が自分の中になければ
ただ表面的なこと、


でかいねー
赤いねー
景色がきれいだねー
暑いねー

で終わってしまうからです。

 

有れども見えず

です。

 

だから観るための指標、
そこで起きた出来事であったり
人間ドラマであったり
装飾などの美術面であったり
文化的、宗教的な意味合いだったり
自然環境であったり、

を、お客さんに与えることで
ただの岩や木が意味合いを持って見えてきたり
自分には関係ない昔々のことだと思っていた歴史が
身近に感じたりするんじゃないかな、と。

見る を 観る にするためのサポート。
それがガイドの役割だと私は思います。

なお、
知る ではなく 観る と書いたのは
そこが「実際の現場」だからです。

机上の学びでない、現場だからこそのことを
サポートしてほしいのです。

 

 

【「観る」時間を与える】

だから、
ある程度ガイド(話)して、観方の指標を与えたら
その指標でお客さん各自がそこを観る、味わうという時間が必須だと思うのです。

ガイドさんが、
しゃべって、移動、しゃべって、はい移動、しゃべって、次移動ー
とせわしく動かされ、話を聞くだけでそこを観る時間を取ってもらえないと、
誰の何のためのガイドかな?と思ってしまいます。

数人の小規模ガイドなら
ガイドを聴きながら観るということもできますが
ある程度の人数(10名以上と思うべし)になると、
輪の遠くにいる人は聞きながらそれを見る、
ということは厳しい場合もありますからね。

 

 

【テーマを絞る】

それをするためには、
内容を詰め込みすぎないのが必須です。

お客さんのニーズに合わせてテーマを絞って
ガイド内容を厳選するのが吉。

もし質問されたら答えればいいわけで。

たくさん教えたい!知ってほしい!という気持ちは
充分わかりますが、
ここはぐっと抑える我慢も必要かな、と。

だからガイドを依頼されたら
何が依頼主のニーズなのかあらかじめ聞いておく
っていうのも大事だと思うんだよなー。

 

 

【視野は広く】

ここで言う視野とは、お客さんたちを把握するための視野です。
ポイントに立ち止まってしゃべるときは、
輪の一番外側にいる人に向かって話すつもりで。

声も、お客さんへの視線も一番後ろの人を意識する。

よくあるパターンは
自分の目の前にいる2~3人だけに向かってしゃべってて
声も小さく、視線も落ちている方。

完全に目の前の人しか相手にしていない。

そうなると、輪の後ろにいる人たちは
無視されているのと同様ですから、
次第に聞くことをあきらめ始めます。

確かに周りの状況によってはガイドが頑張っても
十分に後ろまで聞こえない時もあるかもしれませんが、
担当しているお客さん集団全員を巻き込む意識を
ガイド自身が持っているか持っていないかとでは
だいぶ変わると思うのです。

 

 

【聞ける状況を作る】

スポットに立ち止まって説明する時、
特に子供集団なんかの場合だと
自分の近くに寄らせる、
自分の後ろや横に来てもいいよと手招きするなど
聞こえる状況をガイドが意識して作ってから喋る
っていうのも大事だと思います。

 

っていうか、私の実感としてもガイド一人当たり10名程度が限度だと思うので
(見学場所や対象年齢やガイドスタイルにもよりますが…)
例えば学校なんかの社会見学とかで
ガイド1人で一クラス40名ってのはそもそも無理があるとは思いますね…。

学校はケチらないでクラスを複数のグループに分けて
グループごとにガイドをつけよう!!
そのほうが絶対子供たちにとっても実のある体験・勉強になります!

那覇まちま~いがガイド1名につき10名を上限にしているのは
学びを保証するという意味でも理にかなっていると思う。

 

 

【対話する】

一方的にしゃべるだけのガイドは
つまらないですよねぇ…。
マニュアルを喋るだけだと機械的で。
(バスガイドさんにありがち?)

だからなるべく対話式でガイドができたらいいですよね。
お客さん参加型というか。

例えば、
こちらから問いかけてみたり、
ミッションを与えてみたり
(○○を探せ!とか)
予想させてみたり、
三択クイズとかをいれてみたり、
とかね。

意外と大人でもノッてきますよ(笑)

 

 

【休憩タイムは必須!】

特にこれからの時期!

炎天下の中、ずっと立ちっぱなし歩きっぱなしは
誰でもきついです!

1時間以上ノンストップは過酷と思うべし!!

ガイドさんは何度も来てるから慣れてるかもだけど
初めての人の体感疲労は2倍だと思うといいかも。

だからガイド時間の中には「途中休憩」もきちんと入れてほしいもの。

トイレ&水分補給&休憩タイム、という名のゆるい自由時間。

 

もし資料コーナーとかある限られたエリアがあるなら
入る前に見るポイントやミッション(→指標)なんかを与えて(ここ大事)
見学と休憩を兼ねても良し。

休憩も兼ねながら○時○分にはまたこちらに集合ーって感じで。

その間が
個人的にガイドさんに自由質問タイム~ってなったりもします。

なお、再集合した時には
入る前に言っておいたポイントが見れたか
ミッションはクリアできたか確かめる(対話する)と吉です。

 


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ナスの御嶽/舜天王の墓

2018年05月20日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

北中城村を代表する史跡のひとつ、
ナスの御嶽。

🍆ではなく、
この御嶽の、神の依り代であるイベ(岩)の神名
「ナスツカサ御イベ」からきているもの。

 

 

そのイベが柵の向こう側にある岩。

 

 

このナスの御嶽は
「舜天の墓」として紹介されていることも多く、
岩の手前にある石碑には
「舜天王 舜馬順煕王 之墓」

と書かれていました。

舜馬順煕(しゅんばじゅんき)は舜天の息子で、
舜天王統の2代目です。

 

 

三代目の義本王については、
舜天らと同じくもここに葬られたとも、
王妃墓に葬られたとも、
はたまた辺戸だ、と
謎になっています。

 

義本王の時代(1200年代)に飢饉や疫病などが起き、
義本は自分の不徳の故だとし英祖を摂生に迎え、
後には王位をゆずって
隠遁したと言われています。

『中山世鑑』などは、義本のこの判断は正しかったと、
義本王あってこその英祖王であり
この禅譲が国に利益をもたらしたと義本を称えていますが、

義本のその後の足取りが不明であったり、
本島最北にまで及んでいること、
墓とされるものが点在していることを考えると、

義本から英祖への政権交代は
歴史書にあるように平和的な禅譲ではなく、
波乱万丈な最期だったんじゃないか、
結構、悲劇の王様だったんじゃないだろうかと想像します…。

 


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金カブの構造

2018年05月14日 | ・琉球/沖縄、徒然日記


首里城再現儀式「百人御物参」より

 

 琉球の神女・ノロさんたちが頭に差している簪を
「金カブ(キンカブ)」と言います。

王国時代のものがいくつか残っていて
博物館などで実物を見ることができるのですが、

この金カブ、よーーーーく見ると
頭の丸い部分に穴が開いているんですね。

そして、モノによってはそこから針金のようなものが
ぴょこっと飛び出た状態のものも…。
嵐山昌さんのツイートで気づかされました)

 

…なんだこれは!?

 

おそらく茎と呼ばれる棒部分とくっつけるための
構造上のなにかだろう…けど

どういうこと???

 

いや…でも茎の根元に
針金をぐるぐるして固定している様子は見られない…

 

 


いや、でもこれではしっかりとは固定できないだろう…。

そんなこんなで金カブの構造にアンテナを立てたまま
しばらくの時が過ぎたある日…

『首里城研究 No5』に収録されている
「金属文化の素描~神女の簪について(1)~」(粟国恭子)に
構造上の記述を発見!


それらを参考に更に分解して絵にしてみたのがこちら。

 

 

※針金の長さなどは分かりやすく図解するために誇張しています。

 

つまり、

巻き付けて、引っ張って、はめる

ということらしい。

 

また、お気づきのように金カブの中は空洞です。

私は持ったことはないのですが
見た目の印象よりはだいぶ軽いようですね。

 

 

金カブを前から挿すか、後ろから挿すか、
というのは色々説がありますが

空洞で軽いのであれば
後ろから挿しても落ちないですね。

(でも私は見た目のバランス的に前から派。↑モデル:百十踏揚)


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【描いてみた】琉球史マイナー人物、を、9 ver弐【キラ男子】

2018年05月13日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

GWの史跡巡りが図らずも舜天王統巡りになったので
キラキラ舜天を描いてみた。

昨日記事にした義本王は舜天の孫にあたります)

 

…けど、以前にも舜天はキラキラ化しているので
今ならこう描く、というバージョン2ということで。

前はコブの位置逆にしちゃったしね…。

 

お父ちゃん(伝)の源頼朝は武芸に秀でた武骨なイメージがあるけど
舜天はなんとなくしなやかな人というイメージ。

バージョン1よりも少年的で中性的にしてみた。

『中山世鑑』によると10歳には才徳にすぐれ、
15歳で浦添按司になったみたいだし。
若くして活躍したのは確かでしょう。

でも舜天という人物そのものを
突き詰めて考えてみたことはあまりないので
追及してみると面白いかも。

 

なお、彼はまだ伝説上の存在とも言われていますが、
琉球王国の王様は代々、舜天(=尊)を初代として数えられているため
過去記事→尚巴志じゃない、初代“王様”
お父ちゃんが源為朝云々などはさておき、
その時代に舜天に値する力を持った人物がいたことは確かかもしれません。

 

 

源為朝が主人公で後半は琉球が舞台となる
江戸時代のファンタジー小説『珍説弓張月(滝沢馬琴著)』。

葛飾北斎が描いた挿絵には舜天↑も。

関連過去記事→  


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王妃の墓in北中城村

2018年05月12日 | ・琉球史散策/グスク時代

そういえば、
北中城村に焦点を当てた史跡巡りって
やったことがないな、と思って、
今年のGWは北中城村史跡巡りをしてみました!

 

参考にしたのはこのマップ。

 

 

でーじじょーとー。

各自治体作ってほしい。

 

いくつか周ったのですが、
中でも苦労した史跡がこちら。

【王妃の墓】

 

 

仲順・喜舎場エリアは
このような史跡道路表示があり、
そこにもばっちり表示されています。

歩道に沿って引かれている白いラインをたどると
その史跡に行けるになっているはずが…

 

なぜか王妃の墓のラインは途中でスルーされており…。

マップから判断するに森(藪)へダイブなのは予想がつきましたが
ここから入っていく、という表示もまったくなく…。

 


(史跡案内の歩道の白い線はずっと先に続いているのだが…)

 

マップから判断して、
藪の奥に行けそうなところを、勘で。

 

 

森の中に入っていく…。

おお、古い石段や道が……。

怪しい…。


(写真は帰りに撮ったものもあるので登りのように見えますが
基本、下って行く感じでした)

 

 

途中に途中に古墓がいくつも。

王妃の墓ってこれのこと?

いや、それともコレ??

 

いまいち確証が得られるのまま、
何度か引き返そうとしつつ、
あともう少し、あともう少し…と先にすすんでみると……

 

 

…あった…!!

 

 

予想以上の立派なお墓!
立派な空間!

 

さて、ここに祀られている王妃とは、
舜天王統最後の王様(1200年代)、義本王の妃のこと。

義本王自体のお墓は
辺戸にそれとされるものがあったり
はたまた仲順のナスの御嶽がお墓だとされていたり、
実はここ王妃の墓に、義本王も一緒に葬られている…
などなど、色んな説があります。

 

辺戸よりも、ナスの御嶽よりも、
ここが一番大きくて迫力がある…!!

 

 

シーミーが行われていたのでしょうか、
生花が生けられていました。


きっとここまでたどり着けたのも、
草刈りされてて道が見えていたおかげ。

シーミーの恩恵にあずかりました(感謝)。

 

 

+ + +

 


近くには
義本王の直系の子孫であるという
花崎家のお墓もありました。



【オマケ】

辺戸の義本王の墓についての関連過去記事
義本王の骨発見…!?


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喜友名の石獅子群

2018年05月06日 | ・村シーサー/おきなわ石獅子マンガ

車で前を通るたびに気になっていた
宜野湾市喜友名の石獅子巡りを(やっと)してみました!

 

 

喜友名集落の周りに置かれた7つの村シーサー。

巡るための順路やマップもあったので
案内板の地図を写真に撮り、それを頼りに歩いてみました。 

 

 

それでは1番から順に行ってみましょう!

 

 

村シーサーの特徴は、

1体単独であること。

そしてざっくりとした原始的なフォルム。

ころっとした体。
豚のような小さなしっぽ。
とにかく大きな口。

にやっと笑っている表情が実におもしろい。

 

 

3番4番はなかなかのフォルム(劣化・摩耗)。

表示がないと気づかないかな…。

 

 

6番は鼻筋が通っていて
なかなかのイケメン。

民家の塀の上にちょこんと載っていて
かわいらしい。

 

 

歯列がはっきりした7番。

空を見上げていました。

 

それぞれの獅子にちゃんと表示柱が立っていたので
7つとも迷わずに探すことができました♪

 

 

ところで
今回1つの集落の7つのシーサーを一気にめぐって再認識したことは
シーサーの置かれている「向き」。

マップにシーサーの向きを矢印で書きこんでみました。
(記憶に頼ったものなので、微妙なずれがあればご容赦を)

シーサーは外部からの厄を追い払うために外を向いているのですが
この7つのシーサーのあるところがかつての集落の縁だったのかなぁ、と想像しました。
(現在の喜友名地区はこの地図のエリアよりももうちょっと広い)

写真だけではわからない、
実際に巡ったからこそ、の再認識でした。


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