がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

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50回一気読み

2016年01月21日 | ・『百十踏揚』を読ム

ワタシにとって大きな影響を与えた琉球史小説は
今でも変わらずこの2冊。

 

『テンペスト(角川書店)』

『百十踏揚(新星出版)』

 

琉球史初心者さんにも
自信をもってお勧めする2冊です!

(ただし「百十踏揚」は読むコツがありますけど(笑))

 

その「百十踏揚」ですが、
去年の11月から、琉球新報で続編が連載されています。

 

 

…のは知っていましたが、
今、新聞はとってないし、
ショクバで読むにしても
毎日ちょっとずつ見るのは集中が切れそう…

ということで、
ある程度溜まってからまとめて読もうと思い
第1回を読んだだけで、あとは読まずに過ごしていました。

 

で、本日でちょうど連載50回。

そろそろいいかな?と思い、

図書館に行って、まとめて読んできました!

 

 

結果、

 

 

ぶはぁっ!!゛;:゛;`(;゜;ж;゜; )!!

 

 

ってなった(笑)

 

与並さん、

まさかそーゆー設定で来る!!??

 

みたいな。

 

 

んーーーーー

 

これはアリか!?

 

アリなのか!!?(笑)

 

 

いやー、でも久しぶりに小説を読んで

「次!次どうなるの!?」

っていうワクワク感を味わいましたよ。

 

 

与並さんは歴史上の出来事や通説、
時代考証をしっかり踏まえた上で、
歴史の中にある「謎な部分」をうまーーく使って
フィクション(想像)を入れてくる。

それがまたリアルで自然で、
本当にこれが真実なのでは!?
と思ってしまうほど。

 

そして出来事に対する登場人物の心模様が本当に緻密!

ちゃんと「なるほど~!」って落としてくれる。

それは今回も健在で、
前回完全に黒幕だった金丸に対しても、
なるほどこうきたか、と。

 

まだ連載50回ですけど、
続きがどうなるのか楽しみです。


次は1か月ごとにまとめて読んでいこうかな?

 

 

 


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小説・百十踏揚のススメ

2014年06月01日 | ・『百十踏揚』を読ム

(本日2投目)


思えば、琉球歴女の会で
毎回話にのぼるのがこの本。

『琉球王女 百十踏揚』
(与並岳生著/新星出版/2003)

テンペストよりもこっち。

これはもう、琉球歴女必読の書に指定してもいいかもしれない。

このブログでもカテゴリあるし
何度も触れているのですが
それでもまだまだ「読んだことない」または、
「知ってるけどページ数に圧倒されて…」
という人が多いみたい。

でも琉球史、特に阿麻和利・護佐丸あたりが好きで
この本を読んでいないというのは
ほんっっっっと~~~~に損してる!!
(ちなみに再演の声多し現代版組踊「百十踏揚」もこの小説がベース)

そこで、「小説・百十踏揚」を読むためのコツ、
失礼を承知で改めて書かせていただきます!

 

【1】

表紙に惑わされるな!

表紙と物語の百十踏揚、
ハッキリ言って全くイメージ違います。
劇画タッチだからというのもあるかもしれませんが…
とりあえず、表紙の絵から受ける
とっつきにくい(っていうか怖い…)印象は無視してください。

物語の百十踏揚は、
もっと健気で姫でかわいいです。

ワタシはそっこーで表紙とっちゃいましたよ…。

 

【2】

うんちくは飛ばしてOK!

物語の最中にわんさか出てくるうんちくの嵐!(笑)

物語の進行リズムを妨げていると
思わず思ってしまうほど…(^^;
(うんちくが数ページ続く時も)
「あ、また出た」と思ったら
目でざーっと追うだけにして飛ばしましょう!

大丈夫。飛ばしても物語には大して影響ないから。

うんちくは2回目、3回目と
再読した時に読めば楽しいかも。

また多少分からない単語や専門用語が出てきても気にしない事!
最初から100%理解しながら読む必要は無いんです!
個々の単語ではなく「物語」を楽しんでください(^^)

 

【3】

おいしい所だけを読むのもあり!

阿麻和利や護佐丸から琉球史に興味を持った人は
阿麻和利が登場して阿麻和利が死ぬまでを読んでも
充分に楽しいです。
具体的にいえば、6章~12章まで。

そこがこの小説の1番おいしい部分です。

もちろん1章から読んだ方がいいにこしたことはないですが、
普段小説とか読まない人は
おいしい部分だけをまずは読む
っていう方法もありかと思います!

ちなみに大城賢雄ファンなら
最後まで読むことをおススメします(笑)
(泣かせるんだな、これが…)

 

【4】

文庫もあるよ。

個人的には分断された文庫よりは
1冊のハードカバーがおススメ。

でもこれは個々人の好みです。

文庫で阿麻和利の部分は3巻かな?

 

 

以上!

ホント、だまされたと思って読んでみて。

特に女子!
胸キュン要素もばっちりですよ。

いい意味で「だまされた―!(≧▽≦)」ってなるから(笑)

ワタシがおススメして読んだ人、
全員はずれナシです!

『百十踏揚を読ム』カテゴリにある過去記事も参考にしてみてね!

 

ちなみにワタシの初読の感想はこちら

大河ドラマ化しないかなぁ…。

 

   

与並岳生さんの本、いくつか読むけど
ワタシは「百十踏揚」がダントツで好きです!!

コメント (4)
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百十踏揚行脚~国直グスク~

2013年09月29日 | ・『百十踏揚』を読ム

肝高の阿麻和利つながりで、
昨日撮ってきたこの史跡をご紹介。

国直グスク(遠景)です。

伝承によると、金丸(派)によるクーデターに立ち向かうため
鬼大城賢雄や安谷屋按司たちが築いたグスク。

ゆえに、国、直し、グスク。

賢雄の最期については色々説がありますが(→ 
やっぱ新政権(尚円)に立ち向かった故に討たれたという
この説がドラマがあっていいな。
(少なくとも美女狩りよりは…)

ちなみに聖人君子な金丸を描いた「尚円王物語」では
この時の賢雄ついては一切ノータッチでした

 

というわけで、小説「百十踏揚」より
新政権に立ち向かう直前の場面を御紹介。


 

 

「さ、夜の明けぬうちに、行きなさい。
時を移している間にも、敵が近付く。
田場大親、頼みましたぞ」

「はッ、この田場、命に代えて、
うみいないびの前と思徳金様をお守り申し上げまする」

「呉屋も、照屋も、桃原も、皆、頼んだぞ」

田場と並んでいる護衛役たちに、
いちいちその名を呼んでこの踏揚母子の城落ちを託す。

皆、

「命にかえまして」

と心強い。

「うむ。頼んだぞ」

もう一度頷いてから、鬼大城は思戸の側に寄り

「思戸。そなたの気持ち、踏揚から聞いた。
かたじけなく思うぞ。
そなたが側についてくれるなら、心強いことだ。
頼むぞ」

「はい、及ばずながら、うみないびの前を、
お助け致しまする」

思戸は涙をぬぐった。

鬼大城は頷いて、それから踏揚の前へ行き、

「踏揚―――」

と、気持ちを抑え込みつつ、妻の名を呼んだ。

「はい……」

と踏揚は目を上げる。

「そなたには、いろいろと、詫びねばならぬ……」

「もう、そのことは……」

踏揚はさえぎった。

鬼大城が何を言わんとしているか、
聞かずとも分かっていた。


「百十踏揚 713- ※一部省略」(与並岳生著/新星出版)

 

 

一応、P722に国直グスクの事もちょっと書かれてますが
敢えてこちらを。

賢雄と百十踏揚と、息子との別れのシーン。

これがまた泣けるんだな、
賢雄父ちゃんが(涙)


はぁ~、小説「百十踏揚」、大好き。

↑クリックで拡大


ところでこの国直グスク、
どこにあるのかと言うと、ここです。

嘉手納基地の中。

なので入れないし、グスク内部の様子も分かりません。

撮影は向かいにある道の駅の展望台から撮りました。

グスクの前にある黒いかまぼこは
飛行機の収納庫かな…。

 

パノラマ撮影はおNEWの7代目で!

パノラマ撮影がちょ~~~楽~~~~

しばらく続くかも。パノラマ写真

 

  
肝高の阿麻和利レビューはもうちょっと後でね!

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百十踏揚行脚~安里八幡宮~

2013年01月21日 | ・『百十踏揚』を読ム

那覇市安里にある安里八幡宮。

次々と新しい建物がたてられ沖縄県屈指の“都会”になった
那覇新都心のすぐそこ。

密集した住宅街の中に
ちょこんとありました。

では、久々に百十踏揚行脚記事。

 

■安里八幡宮■

安里村に差しかかった時のことだ。

鳥が一羽、鳴いて飛んで行った。

尚徳王は素早く弓矢をつがえ、

≪若し我、奇界を平ぐるを得れば、一矢にて鳥を射落とさん。
若し平ぐることを得ざれば、又射ること得ざらん≫
(球陽)

と、天を仰いで祈り、

ハッシ!

と、弦音を響かせて矢を放った。

矢は見事、鳥に命中し、鳥は射ぬかれて落下した。

可哀想に、何の鳥だったか……。

しかし、勇み立つ尚徳王は、鳥の命など省みる心なんかない。

鳥どころか、これから喜界の人民を、
殺しに行くのだった。

飛ぶ鳥を射落として、尚徳王は、

「喜界はもはや平らげたも同然」

と大いに喜び、兵たちも歓呼を上げて、王を讃えた。

(凱旋後、尚徳王は鳥を射た安里村に宮を建て、八幡宮と名付けた。)

 

「百十踏揚 627-」(与並岳生著/新星出版)

あ、そうそう、もうお分かりかと思いますが、
尚徳と言えば刀よりも弓というイメージはここからです。
(@琉球戦国列伝)

ちなみに尚徳の神号は「八幡之按司」

八幡は軍神、武の神。

左三つ巴は八幡の紋。
(→尚家家紋、左三つ巴を考える【2】)

なので碑↓にある左三つ巴は、
尚徳王という尚家に関係のある神社だからではなく、
左三つ巴がもともと八幡宮の紋だから。

だーかーらー、


なんで尚家の家紋が左三つ巴なのか
なーぞーなーのーでーすー。

いまだに。

一体いつこの左三つ巴が琉球に入ってきて
いつから王家(尚家)の家紋になったのか。

家紋フリークのワタシとしては
どうしても気になるのです…。

ついでに言えば、
尚泰久の三男である尚徳の神号は八幡之按司ですが、
尚泰久の四男は八幡加那志。

仲栄真グスクに住んでいたというあの四男。

八幡が2人いる尚泰久の息子たち。
(でもおそらく異母兄弟)

なんだか深読みしちゃうのはワタシだけ?

とりあえず琉球における左三つ巴の謎は
尚徳とかここらへんの年代になにかある気がする…。
(今のところ最古の左三つ巴は1500年の百按司墓木棺)

尚家の家紋になったのは、もっと後だとして。

社の中心には鏡。

お賽銭箱の隣には
オリオンビールのダンボール箱(笑)
(もちろん空箱でしたが)

 


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百十踏揚行脚~勝連グスク/一の郭外壁~

2012年11月30日 | ・『百十踏揚』を読ム

(本日二投目)

 

先週、肝高の阿麻和利を観に行くついでに勝連グスクに寄りました。

そしたらコレまで藪で覆われていた所が伐採されてて
一の郭裏に続く通路が…!

もちろん躊躇なくGO!

一の郭にぐるりと周りこむように進みます。。。

 

藪の中から見上げると、わずかに見える断崖絶壁の一の郭の城壁。

思い出したのは小説「百十踏揚」の、あのシーンでした。

 

■勝連グスク~一の郭(外壁)~■

蓑笠に身を包んだ四つの黒い影が、一の郭への急な石段を
背をこごめて登って行った。

言うまでもなく、鬼大城に率いられた脱出者たちにほかならない。

上へ登って行くのは、要するに勝連城のてっぺん、
一の郭から脱出しようというわけだろう。

でも、目も眩む、削ぎ立てたような城壁から、どうやって……
と、踏揚と思戸が訝るまでもなかった。

「大丈夫です。目を瞑っていて下され」

鬼大城は安心させるように言って、
それから、踏揚がまた心変わりしないうちにと、
すかさず踏揚を包んだ畚を、城壁から外へ降ろしはじめる。

踏揚は観念して、目を瞑った。

畚は、揺れながら、降ろされていく。

雨と風が、ヒューヒューと煽りあげてくる。

ズルッ、ズルッ……

奈落の底へ、落ちて行く心地……。

(ああ、わたしは……)

今まさに、阿麻和利按司を振り捨てて、逃げていく……。

このような、畚なんかで……夜陰にまぎれて……。

浅ましさと、惨めさと、後ろめたさと、罪の深さ……。

だが、それを必死に振り払うように

(首里へ、行かねばならぬ。
行って、父上に、勝連討ちを止めさせるのだ。
按司様を、そして肝高のこの勝連を、救わねば……)

 

「百十踏揚 427-」(与並岳生著/新星出版)

 

勝連討伐直前に、百十踏揚が鬼大城賢雄と勝連城を脱出するシーン。


百十踏揚と賢雄は元々デキてたとか、
阿麻和利はまさに悪党だったとか、

そういうのはまさにこの百十踏揚と賢雄の脱出劇ゆえ
とも言えるのですが、

この小説は二人の脱出という事実はしっかり踏まえた上で
無理なく百十踏揚と阿麻和利をラブラブに描いているあたり
本当にステキ小説です。

 

※阿麻和利・百十踏揚ラブラブ&阿麻和利英雄説をとる時、
百十踏揚の勝連脱出と、阿麻和利(勝連)の首里城先制攻撃は
どうしても避けては通れない難所(笑)
「月下に語る」でも1番苦労したぁ~

そんなことに思いを馳せると
藪の中でも、ほら、楽しい(笑)

ちなみにワタシ個人的には、
二人が一の郭から脱出したのはココ(南風原御門側)じゃなくて
反対側(西原御門寄り)のイメージです☆


再掲載写真。記事はこちらから。

↑の模型写真で言えば左下ぐらい。

今回の写真は右下あたりからのアングルです。

 


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「百十踏揚」、最近また中城戦後~勝連戦の部分を読み返し
喜怒哀楽没頭してました。
阿麻和利はもちろん、みんなステキ過ぎ

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百十踏揚行脚~勝連グスク/石畳~

2012年08月04日 | ・『百十踏揚』を読ム

今日は所用で勝連に行ってきました。

天気も良かったので帰り際、
勝連グスクにもちょっとだけぶらり。

 

さて、これまで勝連グスクについても
色々とマニアックな鑑賞ポイントをお伝えしてきましたが
東の郭とか南風原御門とか)
今日はこんなポイントをご紹介。

現在、三の郭に登るには長い階段が設置されていますが、
もちろんこれは安全上のもの。

元々は何かと言うと、石畳の坂道でした。

現在も階段のそばに確認することができるし
実際に歩くこともできますよ。 


(過去撮影。大みそかの夜明け)

少しでも本来の姿を楽しみたい方は
階段ではなく、こちらを登ってみるのもいいかもしれませんね。

ただし、雨が降ったときは滑りやすく危ないので
晴れてる時にしましょう☆

 

では、せっかくなので久々の百十踏揚行脚!

■石畳■


(過去撮影)

その上グスクへ、踏揚は今、阿麻和利に導かれて登っていく――。


登り口は、途中までは割合広い石畳坂になっていたが、

防衛上からか、中ほどから人二人がようやく肩を並べるほどの
狭く急な石段となる。

うっかり滑ってしまうと、転落してしまいかねない。

踏揚は思戸に手を撮られて、一段一段、踏みしめるように、
ゆっくりと石段を踏み登っていった。

前に立つ阿麻和利は、時々立ち止まって、登ってくる踏揚を待ったが、
何も言わず、手も貸さなかった。

 

「百十踏揚 227-」(与並岳生著/新星出版)

 

百十踏揚嫁入りのシーンです

手を貸さない阿麻和利。

実はこの後、二人のステキポイントがあるのですが、
これは是非実際に読んで確かめてください(笑)

 


「百十踏揚」明日台風なら読み返そうかな~♪

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百十踏揚行脚~布里の墓~

2012年05月05日 | ・『百十踏揚』を読ム

■布里の墓■

尚布里が兵数十人を率い、闇に紛れて、首里城に乱入したのは
子の刻(午前零時前後)であったという。

甲冑姿の尚布里の一団は、城内へ入ると
十数本の松明を点け、御広庭を占拠した。

尚布里は正殿の階に上がって、御内原へ声高く叫んだ。

「余は江洲王子である。志魯王子が即位致さば、
国は滅びるであろう。
よって、尚巴志が六男、布里が代わって玉座に登るべく、参上致した」

 

 

「お、叔父上。こ、これは何の真似でござるか!
こ、ここは御城ぞ。
かかる無体な乱入は、御城を踏みにじるものぞ。
神をも恐れぬ所業ぞ。早々に立ち退かれよ」

「立ち退くのは、そなたじゃ。
昼も申した通り、そなたが王位に就かば、わが王統は滅びる。
己が不徳を恥じ、潔く身を引くがよかろう。
王位はそなたに代わり、余が継ぐ。
余が、わが王統を守り抜く」

 

「百十踏揚 56-」(与並岳生著/新星出版)

昨日訪れた、布里の墓です。

5代目の王であった尚金福王の死後、
金福の息子である「志魯(しろ)」と、弟である「布里(ふり)」の、
王位継承争いが「志魯・布里の乱」(1453年)

結果、

2人とも相討ちで死亡。

そんでもって

首里城全焼。

時代背景をもうちょい詳しく知りたい人は → 
その時のものかもしれない首里城の遺構は → 

ちなみにこの「百十踏揚」では布里は死亡ではなく、
身分剥奪&首里払い(玉城に移り住んだ)というということになってます。

 

布里のお墓は尚泰久のお墓の近く、
南城市玉城にあります。

ここが布里の墓と示すものは墓の前の石碑(写真2枚目)だけで、
周辺には案内板も解説版もありません。

もしかしたら王位についていたかもしれない尚巴志の息子の墓としては
なんともわびしいありさまでございました

 

…そう言えば志魯のお墓はないのカシラ?

 

 

『琉球戦国列伝』では志魯も布里も描きました~。

尚巴志を中心に“親子関係(つまり一親等)”までは「直毛」という設定です(笑)
思紹、尚巴志、尚金福、布里、尚泰久、
この親子シリーズ、ある程度は似せて、かつ違いを出すの結構難しかった…
布里は尚巴志に似て低身長+童顔系、かつ血気盛んめのおっさんというキャラ設定です。
尚金福が1番特徴なくフツ~(笑)
「人間」としていまいちリアルにとらえきれてない証拠

ちなみに汪応祖の家系は縮れ毛で量が多いという設定(笑)

 

 
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百十踏揚行脚~勝連グスク/東の郭~

2011年12月04日 | ・『百十踏揚』を読ム

先週、勝連グスクに立ち寄ったときに
テンションがあがった理由その1。

 

ぬを…っ!!

東の郭、大躍進!!

…って日本語おかしいし(笑)

 

東の郭は勝連グスクに行くたびに登って
その進行状況をチェックしていたエリアでしたが、

今まで覆われていた草木が見事に伐採されて
その姿があらわに!

あらっ、これまでこんな斜面を行き来してたのね

ちょっぴり登るの怖かったわ
(つかむ木や枝もないしね)

見えぬが仏、だったかも?

before→   

東の郭は普通の人は気にすることのない未開拓エリアですが、
実は勝連グスクは東の郭が整備されてはじめて
「勝連グスクだ」とも言えるような超重要なエリア。

王府軍による勝連討伐(勝連グスク侵入)は、
地形上、この東の郭から攻められたとも言えるのですから。

というわけで、「百十踏揚」より抜粋です。

 

■勝連グスク~東の郭~■

第一段階は、むろん東グスクでの攻撃である。

(※首里軍)が突入を図るとすれば、ここ以外にはないのだ。

ここには、約200人の槍隊を配置した。

これを率いたのは照間大親。
漁港のある照間村の長で、銛の遣い手として知られた猛将である。

この東グスクでは、門扉を破り、あるいは城壁を乗り越えて突入してくる王軍を、
槍襖で迎え撃とうというものだった。

実際、この東グスクの槍隊は、突入してきた首里の兵らを
入ってくる順に串刺しにしていったことだ。

しかし、後から後から鼎が沸くように押し出してくる王軍の勢いを、
止める事はできなかった。

槍隊の大半は斬り伏せられて地に這い、
残りはじりじりと、下グスクへ追い返されていった。

*

王軍の先方は東グスクを占拠し、
下グスクへ追い込んだ勝連兵たちに、矢を浴びせ、火筒を炸裂させて行った。

東グスクから下グスクは見下ろしである。

王軍は下グスクの建物群にも、射下ろしに、火矢を注いだ。

 

「百十踏揚 p516-」(与並岳生著/新星出版)

とまぁ、なんとも壮絶な首里軍突入の様子。

でもその前には、
この東の郭のすぐ外、平坦な地であったという東原で
勝連軍の鮮やかな先制攻撃があったのです。

突然、東門に陣取った前線で、
ワーッと、喚声が沸き起こった。

「何だ!」

将たちは立ち上がって、幔幕の外へ飛び出した。
鬼大城も後に続き、そして

「あっ!」

と、目を瞠った。

鬼大城と将たちは、そこに予想だにしなかった光景を見たのだった。

突如として、勝連城の東門が開かれ、
怒涛が堰を切って溢れ出すように、ドドーッと大地を揺るがし、
砂塵を巻き上げて騎馬軍団が吐き出され、
つむじ風のように、首里の軍兵の中へ躍り込んできたのである。

*

陣幕を出て、一瞬アッと叫んで立ち竦んだ鬼大城であったが、反射的に

「おのれ!」

と、次の瞬間には、陣幕前につないであった愛馬に飛び乗り、

「槍!」

と叫び、郎従が差し出すのをひったくると、

「どけ、どけーッ!」

兵たちをかき分けて飛び立った。

*

勝連の騎馬隊はパニックに陥った首里の前線で、
疾風迅雷、竜巻が荒れ狂うように地けむりを上げて蹂躙していた。

これを率いていたのは、屋慶名大親と津堅大親であった。

屋慶名はいくさ用の大斧をビュンビュン振り回し、
津堅は刀を振りまわし、その先頭を突き進んでいた。

*

「津堅、もう良い!引き上げだ!」

「承知!皆、引け!」

津堅は、鬼大城を取り巻いた兵達に叫んだ。

皆一斉に馬首を返した。

一連の行動は、秩序だった、見事なものだった。

「や、逃げるか、卑怯な!」

鬼大城が叫んだ。
騎馬隊のしんがりに立った屋慶名が振り返って、
「鬼大城よ、これはほんの挨拶がわりよ、後ほどゆっくり刃を交えようぞ」

言い捨てて屋慶名は

「では―――」

というように、鬼大城へ不敵に片手をあげると、
身を返して馬腹を蹴った。

いかにも人を喰った態度であった。

「おのれ、待て、屋慶名大親!」

カッとなって、鬼大城は追撃していったが、
勝連の騎馬隊は砂塵を巻き上げて、もはや城門に吸い込まれ、
その殿から屋慶名は悠々と、城門の中へ消えた。

 

「百十踏揚 p479-」(与並岳生著/新星出版)

これは正史にもある記述で
いかに勝連軍が勇猛かつ侮れない相手であったのかが分かるエピソードでもあります。

 

其の城(=勝連城)、西北は険阻、南は海濱に臨み、東角は平易なり。

而して阿摩和利は武勇の人なり。

或いは城を出て殺戦し、或いは門を閉じて拒禦す。

居数(=鬼大城)大いに怒り… (以下略)


 「球陽」より

 

東の郭の発掘&復元作業が進み、
在りし日の勝連グスクの全貌が現れるのが待ち遠しいですね

 

*オマケ* 

勝連城跡ののぼり。

…なんで白目むいてるの?
(せっかくかわいい阿麻和利様なのに~

マジックで黒目書き足したくなる…。

 

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在りし日の勝連城―模型―

2011年11月04日 | ・『百十踏揚』を読ム

勝連グスク資料館にある、模型です。
(去年6月に撮った写真を発掘…

当時の面影を感じることができれば、
阿麻和利や百十踏揚、鬼大城、そしてそのドラマを
よりリアルにイメージできて楽しいですよね

というわけで、小説「百十踏揚」をベースに、
勝連グスクでのドラマをまとめてご紹介

すでにピックアップしている記事も多いので
現在のその場所を見てみたい方はリンクをクリックして下さい。

また、過去記事、在りし日の勝連城の絵も一緒にご覧くださいネ

南風原御門は百十踏揚が嫁入りした場所。

勝連討伐で王軍の進入を許したのが東の郭側。
現在はこんな状態

一番死闘が繰り広げられたであろうのが下グスクエリア(四の郭)。
勝連グスクの心臓部。
ああ屋慶名…壮絶すぎる。

四脚門は、鬼大城が女装して上グスク侵入を許した場所。
(四脚門は形状であり、門の名前ではありません)

勝連討伐後、戦利品として鬼大城が賜ったのもこの門であったか。

鬼大城VS阿麻和利が上グスク(二の郭)、按司館前の御庭。
鬼大城VS阿麻和利、かっこよすぎ

(ちなみに『月下に語る』も同じ位置設定です)

↑写真手前が一の郭。

阿麻和利が夢を描いた場所。

茂知附按司が酔っ払って落下死した場所。

百十踏揚と鬼大城が“脱出”した場所。

勝連討伐の際、真五郎が侵入して火をつけた場所。
(真五郎のバカー

ただ観光で漠然と見て周るだけだと、

「坂がきつい」とか「見晴らしがいい」とか、広いとか狭いとか、
ただの“風景”としか写らないグスクですが、

この場所で起きたドラマを知ることで、
ただの石積みが、ただの傾斜が、ただの広場が、
すごく魅力的に写ってきます。

歴史とは、ただの知識じゃなく、
歴史とは、私たちと同じ人間の営み。

人間の織り成す数々のドラマ。

それを知り、そしてその舞台(場所)を味わってほしいのです

 

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百十踏揚行脚~屋良グスク【裏】~

2011年09月27日 | ・『百十踏揚』を読ム

昨日の記事の続き。

屋良グスクの裏。

(ちなみに公園の遊具と案内板があるところを【表)としています)

裏に回ると、風景はガラリとその趣を変えて、
まるで森の中の散歩道のような空間になります。

隣には、比謝川。
(トップ写真)

ではここで、もうヒトツの百十踏揚行脚。

 

■屋良グスク【裏】■

 

屋良グスクは、比謝大川の南のほとりにあって、

当時は屋良大川城と呼ばれていた。

川に面した北側は険しい断崖になっていた。

阿麻和利が小さいときに捨てられた漏池(ムルチ)は、

この屋良城の崖を越えた、比謝大川の中流あたりである。

屋良按司は、大読谷山按司となった又従兄弟の護佐丸を歓迎し、
護佐丸はその夜、屋良城に泊まった。

 

「百十踏揚 262-」(与並岳生著/新星出版)

はい、その屋良按司のお墓がコチラ!

ちなみに屋良グスクに屋良按司のお墓は2つあって、
この写真は「先」大川(屋良)按司の墓。

「後」大川按司(とその一族)の墓は最近リニューアルされたのか、
とてもぴかぴかの真っ白なお墓でした。

さあ、その屋良按司ですが。

実は、屋良按司は阿麻和利の父ちゃん
だという伝承があったりもします。
(この説、結構有名ですがブログで書くのは初めてですね)

阿麻和利は屋良村生まれの孤児となっていますが、
実は父親は屋良按司だった、と。

でも生まれつき体が弱かった故に棄てられたが
後に勝連按司として大出世するわけですから、
やっぱり按司の血が流れていたんだ…というような。

また、別にはしっかりと屋良で育って勝連へ移り住んだ、という説も。

確か阿麻和利を祀った家が嘉手納にあったと思いますが、
それは『沖縄戦国時代の謎(比嘉朝進著)』によると、

屋良按司の奥さん(または側室)として阿麻和利を生んだとされる
林堂家関係者(門中)ということになるらしいです。

 

個人的には普通に阿麻和利は百姓の子で棄てられて…、
という説を取りたいですケドね。

(「百十踏揚」の説が1番ドラマ性はあるとは思うけど☆全くありえない話じゃないから面白い

 

阿麻和利の子の有無とかも色々説もあって、
一応、「阿麻和利には子なし」が通説だと思いますが…

でも「阿麻和利の子孫」を名乗る人は、
実は見たこと、聞いたこともあったりするので…

やっぱり色々と謎の多い阿麻和利なのです。

この時代、謎が多いから、面白いんだよな~。

そんな伝承や歴史を知ると、また一段と楽しめる屋良グスクなのでした。

ひと気は少ない(っていうかほぼない?)ですが、

歩道は↑の通り石畳で整備されているので
晴れた日なんかは屋良グスク【裏】を散策してみるのもいいかもしれませんよ♪

(ぐる~っと周ると結構な広さです。ウォーキングコース並?)

隣を流れる比謝川のせせらぎも実に爽やかです。

ちなみに屋良漏池についての過去記事はコチラからどうぞ。
「百十踏揚行脚~屋良ムルチ~」

同じ比謝川でもガラリと雰囲気違いますよ。

こっちの比謝川(河口)もね☆

アンダーのWB蛍光灯で撮影。

 

トップ写真と似てるけど、もう1枚掲載。

ちなみにトップ写真と同じアングルの、
ハイキーバージョンはコチラ

 

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百十踏揚行脚~屋良グスク【表】~

2011年09月26日 | ・『百十踏揚』を読ム

王朝末期(幕末)のテンペストな話題が続いたところで、

古琉球関連記事にリターン!

嘉手納町にあります、屋良(やら)グスクです!

こちらも喜屋武グスク同様、
昨年度までめちゃくちゃ生活圏内にありながらも散策できずにいたグスク。

喜屋武グスクとセットで、
やっと散策できました♪



この日は読谷村立図書館

尚巴志の墓

阿麻和利の墓

屋良グスク

鬼大城の墓

喜屋武グスク

肝高の阿麻和利
そして合間にショッピングと、スゴイ盛りだくさんの1日だったのです



屋良グスクは今では公園として整備されていますが、

まぁ、こちらも例に漏れず常に人が戯れているような公園ではなかったですね…。

でも立地的には住宅街の中で近くに団地とか高校とかがあるので
まだマシなほうではあるんですけど。

せっかくキレイに整備されているので
もうちょっとマメに清掃とか草刈とかできればいいんだろうけどな…。

屋良グスクについての案内板。

屋良グスクについてはこちらを見てください。
(手抜き)

さて、屋良グスクといえば、古琉球ですよ!
護佐丸ですよ!阿麻和利ですよ!

 

ということで、

久々の「百十踏揚」行脚記事です!

 

■屋良グスク【表】■

座喜味城時代、護佐丸はよく愛馬を駆って、領内を巡察したが、
ある時、山田時代からの旧臣、瀬名派大親を伴って、
比謝大川を越えて、屋良城へ行った。

屋良按司は、護佐丸には又従兄弟であった。

護佐丸の父の読谷山(山田)按司は、伊波按司の二男である。

先代の読谷山按司に嗣子がなかったために、
親族である伊波按司の子が養嗣子に入ったものだ。

一方、伊波按司の五男――すなわち護佐丸の父の弟は安慶名按司となり、
その二男が屋良按司であった。

 

「百十踏揚 262-」(与並岳生著/新星出版)

…人物関係、意味分かります?

図で見ると分かりやすいんだけど…。

伊波按司の二男(A)が読谷山按司の養子に入って、この人が護佐丸の父ちゃんになります。
同じ伊波按司の五男(B)、つまり護佐丸父ちゃんの弟が安慶名按司になります。

その安慶名按司の息子に、屋良按司と、そして喜屋武按司(C)がいます。

その喜屋武按司(C)の息子が栄野比大屋子で鬼大城の父ちゃんなんです。

 

伊波按司から、読谷山按司、安慶名按司、屋良按司、喜屋武按司と繋がっているというわけですね。

ちなみに、このもともとの伊波按司を、更に遡ると、
攀安知の爺ちゃん(怕尼芝(はにし))に追放された今帰仁按司(今帰仁世の主)。

……と繋がるわけです。

 

とりあえずこの系図に関しては過去記事コチラも参考までにどうぞ。

山田グスク・護佐丸父祖の墓

伊波城跡と伊波按司

安慶名グスク【2】

喜屋武グスクと鬼大城

…その、屋良グスクなんです!

構造や発掘品ではなく、
人間ドラマとしての屋良グスク、分かったかな?(笑)

(ワタシにとってはこういうのが重要(笑)。歴女的グスク巡りの楽しみ方☆)

でも屋良グスク…御嶽はあったけれど…

城壁とか遺構とかはないにしても
(屋良グスクは名護グスク同様、土のグスクとか?)
もうちょっと隠れスポット的な、いかにもグスクらしい絵になるような場所とかないかな?


…きっとあるはず!

 

グスク散策のコツはこれ!

 

道は もう一つ 裏へ。

もう一つ 奥へ。

(おや?どこかで聞いたフレーズ?(笑))

 

 

ほら、

 

ほぅら……

 

なんかありそうでしょう?

 

ってことで、発見!

 

 

百十踏揚行脚~屋良グスク【裏】~ へ続く!!

次記事では屋良按司にまつわる、アノ伝承も紹介しますよ!

 

元ネタ↓

 

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昨日の琉球史バトンのQ7で書いた早田さん。
タイムリーにも今日の沖縄タイムスの「古琉球と海域アジア」で
早田さんのことが書かれてます(笑)
check it out now!


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百十踏揚行脚~首里城/京の内・クンダグスク~

2011年07月06日 | ・『百十踏揚』を読ム

昨日の記事の続き)

昨日の写真は現在の首里城「京の内」を古写真風にレタッチしたものでした~。

王国時代は実に鬱蒼とした森だったとか。

首里城が復元されて19年。

何もなかった復元・京の内もこれだけ木々が伸びてきて
なんとなく「森」の雰囲気を味わうことができるほどになりました
(でも台風2号の塩害はどうだったかな~写真は去年の秋に撮ったモノです)

 

 

 

さて、そんな京の内は御嶽が集中する聖域なだけあって、
ミステリーな伝承や話も数々あるのですが、

今日はその中の1つ、

ある御嶽と、「クンダグスク」にまつわるこんな話を、
小説「百十踏揚」から引用してご紹介しましょう。

 

時は1469年。

7代目琉球国王、尚徳が29歳の若さで急死。

その直後に、事件が起こるのです。

 

■首里城/京の内・クンダグスク■

世あすたべは王の「急死」に不穏なものを嗅ぎ取り、
急遽、群臣を御広庭に非常召集し、幼い世子の手を取って、
間髪をいれず、その即位を宣しようとした。

その時、一人の鶴髪雪の如き老臣が、

「あいや、しばらくお待ちあれ!」

と手を挙げて、進み出たのである。

群臣が一斉に振り向いた。

老臣は胸を張って、群臣を眺め渡し、

「国家はすなわち、万姓の国家にして、一人の国家に非ず」

朗々とひびき渡る声で大演説をぶったのである。


―――今こそ内間後鎖金丸を王に樹てようではないか。


満潮の臣士は、声を和して、

「オーサーレ!オーサーレ!」

と呼応した。

「その通りだ」という掛け声である。

呼応するとどろきはあたかも雷鳴のようであった。

 

このようにして、クーデターは成し遂げられたのである。

 

王家の人々とその近臣は、先を争って逃げた。

王妃と、王母、世子の乳母らは、
幼い世子を連れて、京の内の御嶽深くに隠れたが、
兵たちが追い詰めて殺害、首里城の巌下に葬ったという。

 

その巌下というのは、
首里城南西部の京の内の南崖で、
俗に“クンダ(脹)城”と呼ばれている。

殺されて投げ捨てられた王妃の脹骨(ふくらはぎ)が崖に引っ掛かっていたからという、
おぞましい伝承にちなんでいる。

 

「百十踏揚 641-」(与並岳生著/新星出版)
※一部文節調整あり

 


そうです。

王妃たちが逃げ隠れ、殺されたといわれている場所(御嶽)が、
今でも京の内に見ることができるのです。

ちょっと寄り道するコースにはなりますけどね。

京の内も隅々まで歩いてみると
また違った首里城の姿が見えてきますね。

クンダグスクはこの御嶽の城壁の下辺りになるそうです。
城壁の下には降りられず、草木ボーボーの未整備エリアです。
なので今は「このあたり」という感じで上から眺める程度です。

ちなみに「クンダグスク」の名前の由来ですが、
別説もあります。
(詳しくはたとえばコチラのサイトをどうぞ)

 

  

色んな説がある第二尚氏のクーデターですが、
やっぱり武力を使って血も流してるんだよね~

そして、クーデター派は、
そのまま金丸を王として迎えるため、
金丸の隠居する内間村に向かうのです。

(この後の話は過去記事、こちらから)

 

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百十踏揚行脚~勝連グスク/四脚門跡~

2011年02月27日 | ・『百十踏揚』を読ム

「テンペスト」に負けずとも劣らない、
MY fovorite book「百十踏揚」

テンペスト三昧の今日この頃ですが、
久しぶりに「百十踏揚」から、行脚記事を書いてみましょうか。


■勝連城跡/四脚門跡■

「何年ぶりか……」

二度目の京旅は、豪壮絢爛たる寺々、公家館などにも見覚えがあり、
こんどはゆっくりと、それらを眺め渡す心のゆとりもあった。

公家の館や門構えなどを見上げて、

「立派な門だな。こんな門を、勝連にも構えたいものだな」

と、阿麻和利が呟くのへ、
すかさず津堅が、

「帰国したら、勝連城に建てましょうぞ。
このような門を構えれば、勝連城はまた一段と、
見事なものになりましょうぞ」

勝連城内に、大和の公家館の四脚門に似せた、
檜の楼門が建ったのは、それから間もなくであった。

公家館の門は板屋根であったが、
こちらは高麗系の大瓦を乗せ、
門柱や棟は赤と黄の彩色を施した。

これによって、勝連城はまた見違える豪壮な趣を備えた。

 

「百十踏揚 191-」(与並岳生著/新星出版)

天下を揺るがした「梟雄」阿麻和利。

―――これを討ち滅ぼして、鬼大城の武勇は、また一段ととどろき渡った。

勝連凱旋後、鬼大城にはまず戦功として、
勝連城から持ち帰った戦利品の中から、

阿麻和利の「錦緞衣装」と
勝連城の楼門が授けられた。

 

「百十踏揚 569-」(与並岳生著/新星出版)

勝連グスクからは瓦が出土しています。

当時、瓦は非常に高価なものであり、
瓦が出土するのは5箇所のみだそうです。


首里城、

首里城隣の崎山御嶽、

前王都である浦添グスク、

久米村のあった那覇、

そして勝連グスク。

そのことからも当時の勝連が
いかに特別で、力を持っていたのかが分かるのです。

ちなみに勝連グスクから出土した瓦は
グスク下の資料館でも見ることができますよ。

 

そして、
過去記事「その後の大城賢雄」でも書いてますが、

勝連戦後、この四脚門を賜ったのは
大城賢雄なんですねー。

わざわざ門を解体して、首里まで運んだんですね。

勝連グスクの四脚門が、
それほどのものであったということが、想像できますね。

 

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御茶当真五郎

2010年10月22日 | ・『百十踏揚』を読ム

小説「百十踏揚」(与並岳生著/新星出版)

テンペストと同様にワタシが超☆オススメする琉球小説です。
テンペストはエンターテーメント小説で幕末の琉球。
百十踏揚は歴史小説で室町時代の琉球。


その「百十踏揚」に御茶当真五郎(うちゃたい まごろう)という人物が登場します。

探索方、影の忍として金丸につかえ、
金丸の手足となって暗躍します。

小説では、真五郎さえいなければ…!!
という場面がたくさんあります。
(護佐丸もきっと死ななかったし、百十踏揚と鬼大城の勝連脱出も失敗しただろうし、勝連も首里軍に負けなかったはず)

それくらい、重要な場面で影の働きをして話を展開していきます。



えー…、でもこの真五郎って……



フィクションでしょ?



…って思ってたら……!!!!



昨日も書いた、自治体や個人が自費出版で出している読谷村の民話集に
「御茶当真五郎」の名前が……!!!

なにーーーーーっっっ!!!!?




「読谷村民話資料集1 伊良皆の民話」
(読谷村教育委員会 歴史民族資料館編 1979年発行)

“御茶当真五良とアマンジャナー”
※アマンジャナー=阿麻和利のこと

前半部分を要約すると、
真五郎は百姓だが、容姿端麗で頭もよかった。
ある日、尚泰久が首里城でお茶沸かしの役を募集しており、
真五郎は志願して選ばれた。

真五郎は王の体調や様子を伺って
お茶の入れ方を変えるなどをしており、非常に王に気に入られた。

しかし、真五郎は遊郭に行っては遊びまくり、
自分は士族だなどと言って女をだまし
しまいには「だまし屋」と言われた。

その悪評を聞いた尚泰久王は、
「今日はためしに私をだましてみよ」
と真五郎に言った。

「しかし、人をだます棒がないとだませません」

「なら、その、人をだます棒をお前は持っているのか」

「持っていないので、王様の大刀を貸してください。
そうすれば、人をだます棒を切って来ます」

尚泰久は快諾し、
真五郎は王の大刀を持ってそのままとんずらした、という話(笑)



しかし、面白いのは次です。

真五郎はその後、勝連に向かい阿麻和利と会います。
(赤=真五郎、 青=阿麻和利)


「君は、百姓から按司になってよかったね、カナー」
(※カナー=阿麻和利の童名)

「どうして君は、外門も錠を入れてあるし、
内門にも錠を入れてあるのに、どこから入ってきたのか」

「君達が錠を入れてあったところで、
私はどんな錠でも外して入る知恵があるんだから」

「君はたいした奴だなあ」



……ゆるい!

なんだこのゆるすぎる会話は(笑)


読んでて爆笑してしまった(笑)
(古老の語り口をそのまま訳したものなので、こうなるんですね)

まあ、その後で会話が続いて
結論は、真五郎が護佐丸の脅威を説き、入れ知恵をし、
阿麻和利はその警告に従って護佐丸を討つ…

という、あとは正史にある、あの展開になっていきます。



この辺を読んでると、小説「百十踏揚」にあるような、
忍びのような人物、も感じられますね。

西原町内間の人物らしいので、
その地域の民話を調べるともっと色々な説があるんでしょうね。
西原町内間といえば、金丸の地でもありますね)





ちなみに、「百十踏揚」では…



山々を獣のように駆け抜け、
闇を風のように走り、
鷹のような敏捷さと、
一里先の人を見極め、遠くの話し声も聞き分ける。
耳も鋭かったが、読唇術も心得ていたのだ。

弓・刀・槍・棒……と、武芸百般に通じていると噂されていた。
寡黙で、いつも風か影のように、音もなく動く。

「百十踏揚 121-」より (与並岳生著/新星出版)



と書かれています。


真五郎が小説のような影の働きをしたかどうかは
さすがにフィクションでしょうが、
でもちゃんと伝承のある人物だったんですね。


しかし、1番驚いたのは、

真五郎が「容姿端麗」って書いてあること!!!


絶対、




こんなだと思ってたのに!!!!!
(三白眼のガリ。)
↑これ、本当の落書き。朝薫の下書きの裏でした(笑)

くそう。
容姿端麗とか、なんか許せん。


写真は、勝連グスク。
小説「百十踏揚」では勝連グスクのこの場所と真五郎が、
勝連敗北へいざないます



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百十踏揚行脚~万国津梁の鐘~

2010年07月29日 | ・『百十踏揚』を読ム

■万国津梁の鐘■

その冬―――。

首里城では、冬至の朝拝の日に、
「万国津梁の鐘」が掛けられた。

正式には「首里城正殿洪鐘」で、
「万国津梁の鐘」は後代の通称である。



正殿前、御広庭の一隅には鐘楼が築かれ、
懸鐘式は、冬至の朝拝の後、
各地の後、百官が見守る中、
首里那覇の寺僧が勢ぞろいし、厳かに挙行された。

継妃真加戸金とともに、女官、神女たちも、
御内原を出てきた。

本来なら、踏揚も第一王女として出なければならないところであったが、
気分が優れぬことを理由に、うみないび御殿に閉じこもっていた。



外祖父護佐丸、そして「夫」阿麻和利が滅ぼされて、
踏揚の心の傷は深く、
とても晴れがましい場などに出て行く気にはなれなかったのだ。

そもそもこれは、護佐丸・阿麻和利という、「国の憂い」を除いて、
まさに「琉球の平安」を築き整えたことを祝賀する儀式でもあったのだ。


「百十踏揚 572-」(与並岳生著/新星出版)



はい、百十踏揚行脚記事です。

写真は、今年の正月に首里城の「新春の宴」に行った時に撮ったモノ
やっとご紹介…デス。
(’10新春の宴→   

万国津梁の鐘、というのは結構有名。

2000年に沖縄でサミットがあったとき、
作られた迎賓施設も「万国津梁館」と言います。

でも、この万国津梁の鐘が首里城にあることや、
ましてや尚泰久が掛けた鐘であることは
意外と知らない人も多いのでは…。

万国津梁の鐘が有名なのは、
鐘に書かれている銘文です。

一部、紹介します。



琉球国は南海の恵まれた位置にあり、
朝鮮の優れた文物に触れ、
大明国と深く結び、
日本国とも離れがたく結び、
この領域の真ん中に位置して
(徳や幸の)湧き出ずる蓬莱嶋(理想郷)である。

船の往来をもって万国の架け橋となり、
異国の産物宝物は国中に満ち溢れている。
すぐれた地に生きる人々は、
日本、中国の人徳に浴している。

「百十踏揚 574-」(与並岳生著/新星出版)



島国、琉球の気概を現す文としてとても有名なフレーズです。

「平家物語」とか古典の暗唱があるみたいに、
そのまま暗唱テストに出そうなくらい、沖縄では有名。

尚泰久は、仏門に熱心で
多くの寺院を立て、鐘を造らせたことでも有名なのです。



首里城に起こしの際は、
是非、広福門前広場にある、
この万国津梁の鐘も見学していただき、

「万国津梁」の文字を探してみてください


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