がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

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ガサシワカチャラ那覇公演’17

2017年12月26日 | ・現代版組踊レポ

現代版組踊舞台レビューについて

 


月光の按司 ガサシワカチャラ

2017年12月10日(日)

タイムスホール

 

風邪気味でぎりぎりまで迷いましたが、
熱はなかったので思い切って観に行きました!

ガサシワカチャラ那覇公演!

9月に久米島で2回目みて、
今回は3回目。

観劇からだいぶ間が空いてしまいましたが
メモを頼りに思い出して書いてみようと思います。

 

 

+ + +

 

 

まず、前回の公演レビューで書いていた
最初の登場人物の紹介シーン、
分かりやすくなってた!

紹介される人ごとに
登場していき、
中央にあつまる、
という風に。

最後に出てくる主人公のワカチャラは
紹介者の「母」の後ろにぴったりついて、
兄たちとはとは差別化。

グッ!(`・ω・´)b☆

 

 

キンマモンが登場するシーン、
バックライトでの逆光が神々しくて
かっこよかったな。

むしろその逆光のまま、
キンマモン顔をはっきり見せない演出でも
いいと思いました。

そのほうが威厳もあって神秘的な気がします。

バックライトという設備が許されるのであれば、
ですけどね。

 

 

前回、がっつりお父ちゃん(=伊敷索按司)にヤラレタわたし。

その印象が強かったから、
お父ちゃん贔屓、
というのもあるかもしれませんが、
父子のシーンはもっと伸ばしてもいいなぁ。

お父ちゃんが本音を語るのが
割とすぐな印象なので
(初めてワカチャラを攻めたその時に、な印象)
何回かの戦を重ねた末に…
という感じがもっとしっかり出せたらいいな。

 

そしたらその後の母子のシーンでの
ワカチャラの独白、
何故父や兄者たちに憎まれるのか、
という苦悩や
でもやっと父の本心を知ることができた、
っていうセリフの重みが出てくる、はず。

 

 

前回レビューで
お父ちゃんが本心を隠して

"わしや兄たちを差し置いて
久米島の平和を乱そうとしている"

と、わざと憎まれるような物言いをしたところに
お父ちゃんの全てがある!

と書きましたが、

 

…あれ、

 

それ、
ワカチャラよりも先に
堂之比屋に言ってるわ。

 

うーむ。

 

ワカチャラだけにそれを言うなら
そのセリフの重みもありますが
そうでないとすると…

…でも、かといって
堂之比屋に正直に首里からのお達しだ
と言うのも妙だし…

ちょっと考えちゃいますね。

 

(そもそも私が深読みしすぎなのか)

 

 

さて、その堂之比屋。

ワカチャラの理解者として登場する彼。

お父ちゃんがワカチャラ討伐を決めた時、
何故ワカチャラを攻めるのかと
伊敷索按司に問い詰め
上のように返され、袖にされるのですが…

その時の彼(の演技)には
動揺というよりは怒り
を感じました。


なので
その後の堂之比屋について考えてみると面白い。

堂之比屋の「寝返り」は、
果たして
伊敷索按司への恨みか
ワカチャラの仇か
久米島を想ってのことか
それとも首里へのおもねりか
私利私欲か……

 

首里が堂之比屋に近づいた時も
彼が何も反応しない所が実にいい。

 

そして、劇の冒頭、
っていうね。

これは一度は劇全体を見ている
リピーターがしか味わえない面白さなのですよ。

むふふ。

堂之比屋のミステリアス具合が
色んな憶測をさせてくれるので
とても面白いです。

個人的には善悪が分かりやすい人物よりも
こういうキャラにとても惹かれます。
(史実の堂之比屋も合わせて考えるとまた面白いのですよ)

 


ワカチャラは相変わらずの美形でした

劇中では15歳の設定なんだね。
(死ぬときはもしかしたら数年たってるかもだけど)


ところで、ワカチャラが死ぬ時のシーン、
尺が短くなっているような気がしたのは私だけ?

……気のせい?

一度見て知ってるからそう感じただけ?
(でも観劇2回の時は感じなかったんだけど)

見てて
「…あれっ?終わり??」
ってちょっと物足りなく感じてしまいました…。

死ぬシーンと言うか、
死ぬまでのシーン。

アンサンブルさんの格好いい演舞がもっと見たいなー。
(現代版組踊では戦いのシーンの集団演舞がどれもこれもかっこよくて好き)

 

 

前回もドキュンときた正妃(ウナジャラ)ちゃんは
今回もサイコーなSっぷりでした(笑)

同じように、託宣の後とかは
長男や次男も
もう少し毒出してもいいかもね(笑)
(正妃ちゃんほどではなくとも)

カーテンコールのあと、
正妃&真牛(母)がペアで退場するところは
前回はそのキャラそのままでしたが、
今回はやさしくてかわいかった。

…ギャップ萌えかっ!!

(前回までのツンデレ退場も捨てがたいですが)

 

+ + +

 

ところで、もしかしたら
今回の公演は高3メンバーの卒業公演でもあったのでしょうか?

こうやってまた世代交代がなされて行くのですね。

メンバーが変わっても、
久米島の子たちが
久米島を誇りに想って作り上げる舞台
であることに変わりはありません。

次にガサシワカチャラを見る時は
いったいどんな人がどんなキャラクターを演じ、
どんな舞台になっているのでしょう。

 

また、この舞台を観る時を楽しみにしています

 

 

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琉球/沖縄、一問一答 【第105問】

2017年12月16日 | ・琉球/沖縄、一問一答

【第105問】

 

中国から芋(甘藷)を輸入した人物は?



 

答えは下)

 

 

 

琉球/沖縄、一問一答シリーズについて

 

 

 

 

■ ■ ■ ■


 

 

 

【答え】

 

野国総官(のぐに そうかん)

 

野国は名字ではなく出身村名、
総官は名前ではなく役職名。

案外ミステリーなお方。

なお、甘藷栽培を産業として広めたのは
儀間真常です。

 

過去記事→ 



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琉球/沖縄、一問一答 【第104問】

2017年12月04日 | ・琉球/沖縄、一問一答

【第104問】

 

沖縄独特な形をした、
携帯用の泡盛容器を
何という?



 

(答えは下)

 

 

 

琉球/沖縄、一問一答シリーズについて

 

 

 

 

■ ■ ■ ■


 

 

 

【答え】

 

抱瓶(だちびん)

紐を通して
斜めだけにします。

本体の凹んだ部分が
腰骨に来るように調整します。


今でもよくお店などでも見かけはしますが、
用途はほぼ、置き物・飾り物ですね。

 

本土の沖縄料理居酒屋とかでは
演出の一環として
これで出したりしてたりするのかな?


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解明!?大北墓の右三つ巴の謎

2017年12月01日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

久々に家紋ネタを書くことにします。

琉球で家紋と言えば、
尚王家の家紋「左三つ巴」
(俗に、左御紋(ひじゃいぐむん))

 

現代版組踊でも首里を現す文様としてお馴染みですね。

 

三つ巴には、

  

 

があり、

それぞれしっぽの流れる向きで
左か右かが判断できます。

詳しくは過去記事→ 

 

さて、その三つ巴について、

私がずーーーーーっと気になっていたことが
ついに解明…か!!??

 

 

問題の現場こちら。

今帰仁村運天港のすぐ近くになる
「大北墓(うふにしばか)」

第二尚家の一族であり、
代々今帰仁看守を務めた
家の墓として知られています。

 

その墓前には立派な石碑があります。

 

 

碑文には尚真様第三之御子云々と書かれています。

詳しくは過去記事→ 

 

で、この石碑の上に三つ巴が彫られているのですが…

 

 

なんと、これが

左三つ巴ではなく
右三つ巴なのです!!!

 

 

え!?なぜ!!???

 

尚家は左三つ巴だけど
派生した向家は右三つ巴なのか?

 

という疑問に関しては…

 

一応、右三つ巴、ありました。
参/「沖縄家紋集」(那覇出版社)

 

 

向家も圧倒的に左三つ巴が多いではあるけど、
右三つ巴も全くないというわけでもない。

 

では、
大北墓の今帰仁看守、
今帰仁王子朝典を祖とする
向氏具志川御殿(具志川家)の家紋が
右三つ巴なのかと調べてみると…

 

「丸に左三つ巴」なのです。

 

 

右じゃない!!

 

やっぱりこれは石工さんの間違い!?

でも王族の墓でこんな間違いってアリ!?

 

と、

依然として腑に落ちない部分がありました。

(石碑は大正期に改築されてるらしいですが、
それでも元のものと同じように作るはずだし
元のものを無視して間違えたとしたらそれこそアリエナイ)

 

 

月日が流れ、ある日の事。

 

別件で沖縄大百科事典で調べ物をしていると…

ふと目に留まった「巴紋」の項目に
こうありました。

 

 

【巴紋】

尚王家の家紋。
俗に〈左御紋〉と称されているが、
玉陵上面の瓦当に記された巴紋を見ると
三つ巴の左巻きと右巻きが
ほぼ半々になっている。

それは王家の紋は
左右どちらでもよい
ことを示すものと思われる。

 

 

……え、マジで!?

 

い、いや、個人的には
瓦の巴紋と家紋としての巴紋が
果たして一緒とみなしていいのか
という疑問はもっているのですが(→

でも、左右の差別化・固定化したのは
近世後半になってからで
それ以前の時代の巴紋は
左右の向きなど気にしていなかった
…というのはいかにもウチナーンチュっぽくて
確かにあり得そう…!

 

 

同じく沖縄大百科事典の
【家紋・紋章】の項目を見てみると

 


起源は尚家など一部の名門を除けば
諸行事などが定着する
尚穆末年から尚灝初年(18世紀末から19世紀初頭)
にかけてのことだろうと言われる。

1762年の「大島筆記」には
家紋が一般的でなかったこと、
道具紋であったことが記されている。

 

 

大北墓の建造はいつだっけ…!?

……1761年!!

琉球で家紋が意識され始める前だ…!!

 

 

なるほど…

 

琉球で家紋文化が広まっていくことで
細かいところまで差別化・固定化が
必要となってくるのは当然ですね。

その時に「王家の三つ巴」が「左オンリー」と
強く意識していったというのは確かに想像がつきます。

向きを意識した「左御紋」という俗称が
いつの文献から使われているのかを調べてみたら
また見えてくるのがあるかもしれないけど。
さすがにそこまではワタシでは調べつくせないので
(でも「球陽(1745)」では巴紋という言い方止まりっぽい?)

 

 

ということで
私なりの仮説。

 

大北墓の右三つ巴は、
間違いというわけではなく、
その当時、
左右の区別は特に意識してなかったから

 

としておこうと思います。

 

18世紀前期までの史料で
右三つ巴になっている例がもっとあれば
確信持てるんだけどね。

 

うーむ。

 

 

 

*オマケ*

 

四つ巴なんてのもある。


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