がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

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戦後の海中道路建設に、長虹提を想う

2018年10月31日 | ・琉球歴史/文化風景

 

勝連半島と平安座島をつなぐ
海中道路。

その道の途中に
うるま市立海の文化資料館
があります。

主に沖縄で使われてきた木造船や造船技術、
漁に使われる道具や、
海の自然などの紹介がある
小さな博物館です。

(写真撮影等確認済)

 

 

その一方で、
個人的に興味深かったのが
平安座島と勝連半島を結ぶ、
この海中道路の歴史について。

 

戦後、
島の人々が、それこそ男女関係なく
子供から大人まで総動員で、
道作りを行っていた時の写真。

 

 

 

島民ひとりひとりの、
まさに手作業で土や石が運ばれでいます。

(後に米軍からブルドーザーが提供されたそう)

 

 

建設途中に台風で道の一部が決壊するなどの困難もありつつ、
それらを乗り越え、無事に完成します。

 

 

これらの写真を見ながら、
15世紀の長虹堤建設なんかも
割とこんな感じだったんじゃないかなと
想像しました( ˘ω˘ )。

 

 

ドライブスポットとして、
観光スポットとして、
一役買っているうるま市海中道路ですが

海中道路にまつわる歴史にも
是非触れてみて欲しいです。

 

入場無料です。


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尚家の石敢當

2018年10月29日 | ・琉球歴史/文化風景

 

尚家の塀(道路沿い)に埋め込まれていた石敢當。

さすがは、尚家。

なんだか字体もカッコイイ。

上にあるマークのようなもの?はなんだろう…。
(花押のようなデザインに見える…)


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尚泰王の四男、尚順の屋敷跡

2018年10月28日 | ・琉球史散策/神話・近代

首里の桃原には
琉球最後の王、尚泰の4男である尚順の屋敷跡があります。

ただの住居としての屋敷だけではなく
農園があったことも特徴。

「桃原農園」と呼ばれていました。

 

 

さすがに当時の屋敷そのものはありませんが、
庭や樹木など、一部当時からのものを見ることができ、
イタリアンレストラン「ラ・フォンテ」として

営業されて…

 

いたのですが…

 

残念ながら、現在は閉店しています。

 

行こう行こうと思いつつ、
行くなら庭が見れる昼がいいよねー、
晴れてる時がいいよねー

と伸ばし伸ばしにしていたら…
まさかの閉店。

 

思い立ったら早めの行動が吉、ですね…。

 

お店の建物や敷地は壊されずにそのままなので、
また歴史に理解のあるオーナーさんが入ってくれたらいいなぁ。

 

 

(元)ラ・フォンテの入り口には
ちゃんと松山御殿跡の案内パネルがありました。

今はこの辺りは住宅地で
広大な農園としての面影はありません。

 

 

松山御殿跡前のバス停には
「松山御殿」と書かれたベンチが(笑)

ピカピカだったので最近置かれたものなのかなー。

 

+ + +

 

松山御殿、それから尚順に関しては
本もいくつか出ているので参考までに。

 

■「松山御殿の日々・尚順の娘・茂子の回想録」
(知名茂子著 尚弘子監修/ボーダーインク)

 

■「松山御殿物語」
松山御殿物語刊行会/ボーダーインク)

 

■「松山王子尚順全文集」
(尚順著 金子豊編/榕樹書林) 


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読谷村史跡MAP

2018年10月26日 | ・琉球歴史/文化風景

 

読谷村は史跡の宝庫!

特に、古琉球好き、現代版組踊好きとしては
ゆかりの偉人、史跡がたくさんあるのがたまりません。

昔、読谷村にまつわる偉人史跡mapを作ったことがあるのですが
情報も記事も増えてきたことですし、
改めてまとめてみようと思い立ちました。

ただ、全て…となると収拾がつかなくなるので
(読谷は戦跡や文化スポットも多い)
今回は以前作ったmapの改良版ということで、
現代版組踊ゆかりの偉人や関連史跡、
そして私のオスススポットを+αしたもの、としています。
(ちょこっとだけ嘉手納町も)

 

明日・明後日は読谷まつりもある事ですし、
読谷にお越しの際は、気になった史跡も
ちょこっと周ってみてはいかがでしょうか?

(史跡名または★をクリックで過去記事にジャンプします)

 

① 泰期像

読谷村が誇る偉人の代表格。
(護佐丸と違って他地域とかぶらないため泰期推し)
察度の弟として明国に行った琉球初の進貢使。
その像。

 

② 宇座グスク

泰期のゆかりのグスクともいわれている。
レベルC↓(藪覆われ系)なので内部散策は厳しい。

 

③ 三重城(復元)

那覇港にあった(ある)三重城を
大河ドラマ『琉球の風』のために復元した者。
晴れたらロケーションは最高。

 

④ 座喜味グスク(→  

言わずと知れた世界遺産。
入場無料。

 

⑤ ユンタンザミュージアム

今年リニューアルした博物館。
見ごたえありますよ。おすすめです。
(まだちゃんと記事にはしてないので写真を少し…)

 

⑥ 喜名番所

宿場エリアだったここを
北山戦に向かう尚巴志たちもここで宿を取ったかもしれない…との事。
(※ただし今の私は、北山遠征は陸路ではなく海路だと思っている)
ここで尚巴志とノロとの間に子が生まれ、読谷地域で繁栄した、とも。
現在は観光情報センターになっている。

 

⑦ 平田之子と屋比久之子の墓

第二尚氏クーデターの際、尚巴志らの遺骨をもって
ここまで逃げてきた忠臣の墓。

 

⑧ 尚巴志の墓(尚忠と尚思達も)

第二尚氏クーデターの際に移された墓。
⑥で描いた喜名の子孫を頼ってここに逃げたきた、との説も。
詳しいアクセスは→

 

⑨ 赤犬子宮

赤犬子が昇天した場所。

 

⑩ 阿麻和利の墓

謎多き、阿麻和利の墓(伝)。
詳しいアクセスは→

 

⑪ 徳武佐

北山騒動の際、逃げてきた丘春(千代松)が一時過ごしたとされる場所

 

⑫ 吉屋チルー歌碑

比謝矼のたもとにある歌碑。
…なぜかまだブログ記事にしていません。
(写真は何度も撮った覚えがありますが見つけきれず…)


⑬ 屋良グスク(→ ) 

阿麻和利のお父ちゃん(伝)とされる屋良按司のグスク。
グスク前に建てられている系図パネルがなかなか興味深い。

 

⑭ 泊グスク

北山騒動の際、逃げてきた丘春(千代松)が一時過ごしたとされる場所


⑮ 丘春の墓

丘春(千代松)は北山騒動後、今帰仁城を奪回するも、
次の代で再び攻められ、
ここに逃げ戻るも、再起叶わず死んだとされる。


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北山の風’18

2018年10月19日 | ・現代版組踊レポ

 

北山の風~今帰仁城風雲録~

2018年10月13日(土)

今帰仁城跡野外特設ステージ

 

去年度の卒業公演(3月)は行けなかったので
ちょうど1年ぶりの北山の風でした。

公演の数日前から沖縄も急に寒くなり
お天気も不安定に…。

寒さと風と雨が心配されましたが
当日は寒さも風も天気も落ち着き
無事にグスク野外公演を楽しむことができました。

 

 

去年度、高校3年生ががっつり抜けて、
人数は減ったかな?

でも攀安知や本部、紀秀先生等
メインキャストは高校生男子。

しかもみんなええ声!

頼もしいですね☆

本部に裏切られた攀安知は、
高笑い、からの、キッとした怒号。

い~ね~
(漫画的なコマカットが浮かびしました)

衣装も前回の卒業公演からリニューアルしてて
ワイルドでグーでした。

 

 

前回お目見えできなかった「ヤギ」を
今回は見ることができました( ˘ω˘ )♪

うしー、うまー、やぎの門番トリオは小学生。

すーで「本部牛」つっこんできましたね(笑)
これからの成長が楽しみです。
がんばれー( ^0^)★

 

 

千代松は今回はお一人。

前みたいに、少年期と元服時の二人キャストで
くるっとチェンジ(詳しくは「琉球戦国キャラクター図鑑の北山の風レポ」に)
なかったです。

2人キャストがいて初めて成り立つから
これはメンバーに余裕がないとできないですね(^^;)ショウガナイ

 

 

再登場を望んでいた千代松の扇子は
卒業公演の時には「活きていた」と聞いていましたが。

なるほど、前に出すぎず、さりげなく、ですね。

そういえば扇子をもらった時に
「宝物にするね!」っていう千代松のセリフもなかったような?

扇子の印象を少し押さえてきたかな?という印象。

扇子がもとで本部が千代松の正体を知る、ということではなくて
本部の死後、謝名と千代松が亡骸に手を合わせた時に
千代松が密かに懐にある扇子を握りしめる…という感じでした。

これはこれで、千代松の語らない静かな決意が読み取れていいですね☆
(本部死後の千代松の語りはなくなってますねー)

 

 

今回の公演はOB・OGもたくさんアンサンブルで助っ人参加してました。

メンバー紹介の時に「体力の限界に挑戦!」って…(笑)

20代始め~半ばならまだまだ若いでしょー!(笑)
このセリフ言っていいのはアラサーからよ。
ふふふ…まだまだイケますよ応援してます。

 

 

今回、照明が印象的でした。
ちょっと機材変わった?
それとも私の観劇位置や気候などで
違って見えただけなのかな?

点滅具合とか逆光とか、ぼわっとしたゆらぎのある感じとか。
野外公演は設備上どうしても制限がでてしまうのですが
ホール公演のような充実した照明演出に感じました。

 

 

 

今回も物販コーナーのお手伝いをさせてもらいました。

北山てぃーだの会のみなさま、大変お世話になりました!
いつもありがとうございます!
(保護者の方々とのゆんたくも楽しい♪)

 

物販コーナーにいて、
様々なお客さんの反応・声を聴く限り…

 

やはり、CD化の要望はあつく。

 

CDはありませんか?っていう声の多かったこと!

だーよーねーーー。

北山の風ONLYが難しければ、
まだCD化していない舞台をまとめて(MOMOTOとか)
現代版組踊オムニバス的なCDにするってゆーのはどう!?

もしくはもう、ダウンロード形式でも!

 

毎度おなじみですが、

 

CD化求む!

 

ということで〆


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乗馬の習作

2018年10月14日 | ・琉球/沖縄、徒然日記

 

以前描いたものですが、
乗馬の習作。

キラキラverの尚巴志で。

馬のたてがみをもふもふする
尚巴志(キラキラver)の図。

 

 

もう一人は、
与那国島の女首長、サンアイイソバさん。

キャラクター図鑑では掲載がないのですが
琉球戦国列伝では描いているので
キラキラにverにしてみた。

おかっぱ頭なのは、
新里堅新先生(BY『首里城ものがたり』)のイソバさんのオマージュです。


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冊封使の棺

2018年10月08日 | ・琉球史散策/第二尚氏

中国皇帝の名代として
琉球に来る冊封使。

大変名誉なことに違いありませんが
その海路は命がけ。

冊封使に任命されたにも関わらず
何かと理由をつけ
なかなか琉球に出発しようとしなかった
冊封使(=呉時来)もいたほど。

(で、結局彼は罷免されるわけですが…。
代わりに冊封使になったのが郭汝

 

 

さて、その冊封使たちが琉球に行く時の船には
なんと、棺が載せてあったのだそう。

 

 

「使職要務」

船の中には船室が数区画あり、
棺を二つ保存してある(正使用と副使用)。

その棺の前には「天朝使臣之柩」と刻んであり
蓋には銀牌若干両が釘付けされている。

それはもし嵐に遭い、どうしようもなくなった時は
冊封使はその棺の中に仰臥して、
鉄の釘で蓋を閉じてもらう。

船が転覆し、棺が漂流してどこかに流れ着いた時、
誰かが棺を見つけ、その棺の中の人の正体を知ることができる。
銀牌は棺を拾った人が棺(遺体)を保管・保護するための必要経費、
また礼として用いてもらう。

そして次の使者が来た時に、
その使者の船で棺(遺体)を持って帰ってもらえるようにするのだ。

 

 

このエピソードは
昔、ネットだったか本だったかで読んで(両方かな?)
びっくりしたことを覚えています。

 

©いらすとや


でもね。


最古の(琉球)冊封使記録である「使琉球録(1500年代)」で
作者の陳侃はこの棺についてこんなことを書いています。

 

 

渡琉に際して参考にした過去の文献、
「使職要務」にはこのような(※上記↑)棺の記述がある。

しかし考察するに、
棺を準備し、銀牌を釘付けにするということは、

もともとそんなためしはない。

あったとしても、何の益もない。

それで、担当の官吏に言って
棺と銀牌は準備させなかった。

(経費削減だー!)

 

陳侃、棺の記述を真っ向否定!

また、
元々ない
なんて書いてる。

これってどういう事!?

 


棺の記述がある「使職要務」という文献には
冒頭に


洪武(1368-1398)、永楽(1403-1423)の時に、

 

とありました。

陳侃の時代よりも100年前です。

その昔はあったけど
陳侃の時代には廃れきってた風習…だったとか?

 

この間に冊封使が来琉してを冊封を受けた琉球王は

武寧(冊封使・時中)

のみ。

 

時中さんが乗ってきた船には棺があったんだろうか…。

 

とにかく三山時代や第一尚氏時代の
冊封使記録がないのが惜しいですね。

(このことに対しては陳侃さんも文句言ってます(笑))

 

 

参/『陳侃 使琉球録』『郭汝霖 重編使琉球録』(原田禹雄訳注)


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喜屋武岬のカタハラグスク

2018年10月07日 | ・琉球歴史/文化風景

 

先日、ウチナー紀聞を見ていて、

糸満市喜屋武岬のところに
カタハラグスクなるものがあることを知りました。

喜屋武岬にある平和の塔になら
昔行ったことがあるぞ?

もしかしてその時に撮った写真に
写ってたりするかも?

 

と調べてみたら……

 

 

ありました。

 

 

今は単なる岩のよう。

昔は違う姿だったんだろうか?

近づくのは難しそうです。

 

 

カタハラグスクを記事にしている
ブログやサイトなどを拝見する限りだと、
航海安全の拝所とか、
具志川グスクの倉庫的役割とか
とありますね。

いわゆる要塞的なグスクとは
違う役割のグスクだったのかもしれません。

 

 

平和の塔モニュメント。


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冊封使たちの台風体験談

2018年10月04日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

台風24号の復旧がまだ完全ではない中、
続けての25号

ただ今その真っ最中です。

何事もなく過ぎ去ってくれますように…。

 

 

さて、今日は台風つながりで

冊封使の台風体験談

をお送ります。

 

 

琉球に来る冊封使は季節風の関係で
4・5月頃に来琉し、9・10月頃に中国に帰ります。

 

その滞在期間中、
彼らはおそらく大陸ではなかったであろう台風を経験し、
めっちゃビビっています。

そりゃ、ビビるよね。

最も古い(琉球)冊封使記録である陳侃の『使琉球録』(16世紀)には
こんな記録があります。

 

 

 


夕刻、台風と大雨が突然やってきて
茅葺の家は全て吹き飛ばされて、
扉も窓も四方とも跡かたもなくなってしまった。

もちろん安心して寝ることもできない。

港に停泊中の封舟が心配になって使いをやったが、
「牛か馬かもわからないほど真っ暗で、道すらわかりません。
今は嵐が過ぎるのを待つしかありません」
とのことで、強行させることもできなかった。

未明になって(嵐のピークが過ぎて)港に行ってみると
すでに王(※尚清)が法司官を使わし
琉球人数百人を指揮して船を守らせていた。

船員に尋ねると
彼らは(嵐の最中の)夜半にはやってきたとのこと。


法司といえば琉球の高官ではないか。

役人らの住む首里と(私たちがいる)那覇は遠いのに
避けようともしないで来てくれたというのか!

中国の人だったら、風雨が激しくて真っ暗な夜は
窓をふさぎ、戸を閉めて、風雨を避け、

雨風にぬれて行く人がいても
それがたとえ肉親であっても
うろたえて家に入れないだろう。

なのに、危険を顧みず
他人のことをまるで自分の事のように行動できるなんて、
そんな人々が中国にいるであろうか。

琉球の君臣のことを、肝に命ずるべきだ。

と感嘆した

 

参/「陳侃 使琉球録」(原田禹雄訳注)※一部意訳

 

 

 

 

台風の中、港に大集合して冊封使の船を守る琉球の人々。

そーがさい。

台風慣れしてたぶん、
まだアクティブに動けたのでしょうか。

 

陳侃の次の冊封使・郭汝霖も
滞在中の台風について記録していて、

 

王(※尚元)は法使官に数百人を指揮させて
封舟を守らせ、少しの間も離れることはなかった。

その後も、暴風のたびに王はただちに官員を使わして巡視させた。
その気配りは(先代の陳侃が述べているように)まことで、
かりそめのものではない


と書いています。 

 

参/「郭汝霖 重編使琉球録」(原田禹雄訳注)※一部意訳

 

 

そういえば、台風(暴風)の時に
危険を顧みずに船を助けにいくという琉球人のエピソードは
尚真の叔父(伝)にもありますね。

尚宣威じゃない金丸の弟

 

 

さて、

陳侃は帰りの海上でも台風に遭ってしまいます。
(実は行きの航海でも風に流され揺られて恐れおののいていますが、この時は「台風」という記述はありません)

その様子については

陳侃 使琉球録と創作琉球短編小説第3弾!?

 

写真は過去記事の使いまわし。


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