うたのすけの日常

日々の単なる日記等

学童疎開 その十六

2015-07-12 03:01:14 | 学童疎開の思い出

うたのすけの日常 学童疎開でのこと 

2007-05-22 06:28:14 | 学童疎開の思い出

        書き残した嬉しく楽しかったこと

 あたしたちのお世話になった旅館は駅前にあり、今風にいえば一等地にあったといえます。別に観光地ではありませんので、俗に言う商人宿といったものです。しかし戦争も末期で時節柄、客の出入りは滅多ありませんでした。あたしたちは19年夏疎開してきて、翌年8月に終戦を迎えるわけです。当初は給食もまあまあといった状態ではあったのですが、徐々に悪くなっていきました。年が代わって冬の寒さが、雪も加わり厳しくなる頃には、空腹に悩む日々となりました。しかし給食事情は、旅館によって微妙に良し悪しの差があったような気がしました。あたしたちの旅館は一番恵まれていたようです。ほかの旅館を覗いたわけではありませんが、皆であれこれ集まっていろいろ話し合ううちに、自然と察するものです。今思うにあたしたちの旅館の主人が、おじさんと呼んでいましたが、そのおじさんが町の有力者であり、農家に親戚知人が数多くおられたせいと思います。今思えば私財をもってあたしたちの空腹を補ってくれたのではないでしょうか。
 疎開地は東北とはいえ、そんなに積雪は見られませんが、風は強く積もった雪が舞い上がり、前方が見えなくなるときが多々ありました。それでもあたしたちは橇に興じていたものです。
 そんな冬の日、五六年生の男子が召集されました。夕食も終わった夜もおそくなってからです。帳場の前の土間に集合しました。あたしたちは最初理由も明かされず、外出姿に身を固めました。外套を着、防空頭巾を被り手袋をはめ、長靴を履きました。長靴の中の指の周りを真綿でくるみ、あるいは唐芥子を指の先につめました。指先の冷えを防ぐためです。そして荒縄でゴム長の地面に当る部分を巻きました。すべり止めです。おじさんも耳がかぶさる黒い帽子を被り万全です。既に前の道路には大きな幅の長いリヤカーがあります。時間をみはらかっていたのでしょう、おじさんの掛け声で、あじさんの引くリヤカーに群がってあたしたちは雪道を行きました。
 総勢七八人ではなかったでしょうか、皆夜の雪道を行くなんて初めてのことです。リヤカーの引き手に揺れる灯りが、真っ暗な道に積もる雪を白く浮き立たせていました。あたしたちは無言であったのか、お喋りしながらの雪中行だったのか、とにかく山間を二つぐらい抜けていったと思いますので、歩くだけで精一杯ではなかったのではないでしょうか。もっとも出掛けに先生からあらかたの目的は聞かされ、注意もされていたはずです。目的は食糧の調達だったのです。それは戦時の統制品であり、早くいえば闇行為であったわけです。雪の降る夜遅くに行われる隠密行動だったわけです。あたしたちめいめいが血湧き肉躍るスリルを感じていたのではないでしょうか。

 到達したのは大きな農家です。門をくぐると広大な庭が広がり、屋敷には煌々と灯りが点っていました。記憶はその程度ですが、その後のご馳走攻めには、みな歓声を上げる間もなく箸をとりました。あんころ餅の記憶が強烈に残っています。のり巻きもあった筈です。熱い汁もあったでしょう。とにかくいっ時の間竜宮城にいるような気持だったのです。
 そして農家のおじさんたちの手によって、リヤカーに山のように食糧が積まれました。おじさんが引きます。リヤカーの周りをあたしたちは引いたり押したりしながらの帰還です。もう深夜です。白い道を黙々と歩きました。あたしは皆もそうだったでしょう、鬼ヶ島から凱旋する桃太郎のような心地でした。いや、おじさんが桃太郎で、あたしたちはお供の犬猿雉といったところでしょうか。



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