ここを死に場所とし草のしげりにしげり<o:p></o:p>
これに類似した句を前に選んでおります。死を真っ向から見詰めているのは同じなのですが、前の句とは違った感想を持ちました。「…草のしげりにしげり」ここに凄味を感じました。山頭火にとって旅路の果てに限らず、日々存在する場所が死に場所と言っているのです。それほど苦行吟行行乞の旅は厳しく辛いものと理解したいです。<o:p></o:p>
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彼岸花さくふるさとはお墓のあるばかり<o:p></o:p>
山頭火は不幸にして幼児のころお母さんに自殺されています。そして長じてから父と弟が自殺しております。このことは不幸というより、奇禍に遭遇したと言った方が適切のような気がします。<o:p></o:p>
旅の途次、故里を遠く眺めます。その思いは常人とは異なったものがある筈です。恋しくそして近寄り難い場所でもあり、そしてそこには肉親は絶え、墓石のみの故里であるわけです。<o:p></o:p>
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秋風の、腹立ててゐるかまきりで<o:p></o:p>
夏も終わり秋風に皆がほっと息を吐きます。かまきりさん草の葉に体を乗せて何の仕草でしょう、さかんに両手をもがくように、上下左右に動かしています。秋が過ぎれば冬ですか、何かこの世にし残したことがあるのです。それは何ですかかまきりさん、人間だって同じこと、そんなに腹を立てなさんな…。<o:p></o:p>
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重荷を負うてめくらである<o:p></o:p>
まさに一刀彫の手並みと感嘆です。眼の不自由な、おそらくお婆さんと思いますが、その苦労、生きてきた年月の厳しさを嘆じて、やさしく見守っています。しかしその眼に憐れみはありません。<o:p></o:p>
私の年齢ではこのような読みはできません。大先輩のうたさんならではの達観ですね。
今日は。
うーんと呻ります。
達観というより諦観ですか。