ヒデ坊!の?つれづれ道草(´ω`;)

memories & ... そこはかとなく書きつくれば

三陸海岸被災地⑦陸前高田市

2011年04月26日 | 東日本大震災


岩手で最悪の被害をこうむった街。
遥か向こうに見える海から、この田んぼまで漁船と海水とともに押し寄せたガレキ。
海のそばに行くと、海岸線が消え、地盤沈下の影響でかなりの部分が海水におおわれています。
名勝「高田松原」の松林(約7万本)もなぎ倒され、それでもたった一本残った松の木を、今からの復興のシンボルとして、大切に保存するそうです。
(それにちなんだ「希望の一本松 クッキー」が発売されました)
三陸海岸はリアス式海岸で高台の平地が少ないので、山を崩して造成しても、海から遠ざかる不便さと、せっかくある平地へのこだわりから、流されたマイホームと同じ場所に建て直したいと思っている人たちが多いらしいです。
ですが次も、自分の孫世代やその次の世代が今回被災した子供達と同じ体験を味わうかも知れず、そんな不安のない街をどう作るのか、難しい課題があります。
現地では今もまだ、自衛隊等が行方不明者の捜索を行っていて、チェック済みの建物には「捜索終了」の張り紙がしてありました。

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三陸海岸被災地⑥大船渡市

2011年04月26日 | 東日本大震災


友人の実家がある街。
その実家の100m手前まで津波が押し寄せたらしい(おかげで家族は全員無事だった)。
それにしても海のそばの低地(今回さらに73cm沈下)が街一番の繁華街になってしまっていた不思議、もしもあの日の地震と津波が日の暮れた夜だったら・・・危険と隣り合わせとは夢にも思っていなかったその地域は見るも無残な状態になっていました。
結局大船渡市街の約半分が被災、あのブランドお菓子「かもめの玉子」の製造会社も被災していました。
国道45号線を境に明暗を分けたその山脇にある神社の鳥居の前を、小学生が元気に集団下校していましたが、その道の脇にはいまだに撤去されていないガレキの山々が残っていました。
子供たちは生まれる場所と親をも選べない訳で、その子が自我を確立する前にこんな大災害を目の当たりにして、トラウマに陥ったケースを聞くと、育てる教育環境、生活環境は、親の利便性よりも、子供の安全性を最優先に構築しなければならないでしょう。

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三陸海岸被災地⑤釜石市

2011年04月26日 | 東日本大震災


ギネスブック認定「世界最深の防波堤」でも防げなかった未曾有と言われる大震災。
観光スポットだった旧橋上市場(8年前に移転)まで迫ったようです。
地盤沈下(66cm)で港の魚市場は海面とほぼ一緒で、打ち上げられた大型船の撤去も進まず。
津波に破壊されて、住宅展示場にあるかもしれないような部屋の間取りと作りを見せてるような一戸建て住宅。
メインストリートはガレキに埋もれて、道行く人(たぶん自宅の片付けへ)もまばらです。
戦災資料館の近くも戦災にあったような景色です。
再復活には、防波堤の再構築、地盤沈下した港の修復、商工住宅地域前に防潮堤とか、いろいろ必要みたい。

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三陸海岸被災地④両石地区

2011年04月26日 | 東日本大震災


三陸海岸では、もれなく総ての浜が津波に襲われています。
名も無いような、この小さな浜にも津波が押し寄せて、高台にある地元の厳島神社の境内真近にまで迫ったようです。
テレビやマスコミに取り上げられず、アクセス道路も寸断されて、やっと仮設道路が通って、地元の人たちが、流された漁業用網やガレキの撤去を、見るところ2台だけのの重機で作業していました。
そしてここにあった葬祭場はかろうじて残ってしまった?ので、近隣から連日悲しい別れを送らざるを得ない方々がひっそり集まっているようです。
山側を通るJR山田線の鉄橋は、かなり高い場所を通っていたので残っていました。

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三陸海岸被災地③大槌町

2011年04月26日 | 東日本大震災


大槌町は、私の父の戦友が復員後亡くなるまで暮らした町です。
小さい頃には、送ってくれる海産物を通じて交流がありました。
国道から入ってすぐの市街地は火災が発生したらしく、燃え尽きていました。
その先はガレキに埋もれ跡形も無く、JR山田線は高架のコンクリート製橋脚が倒れ、線路は無残に湾曲切断されています。
さらにその先には高さ5m位の防潮堤を越えて、鉄骨2階建ての民宿の上に乗っかってしまった大きな観光船が見えます。
釜石湾の観光船「はまゆり」がその時、大槌の港で点検中だったのでここにいて、流された。
(このモニュメント?を、「つらい悲しい思い出は撤去して欲しい」と言う地元民の声と、原爆ドームのように、あの時「つらい悲しい思い出は撤去して欲しい」声はあったけど残した決意、今「残す!残さない!」の議論が対立しているようです。
今は穏やかになった海の向こうには「ひょっこりひょうたん島」(正式名は宝来島ですが、形があの島にそっくりで)が浮かんでいますが、灯台と鳥居は被災していました。

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