いま巷では松岡農水大臣の自殺で騒いでいるが、私は同じ日、大学の恩師の訃報を聞いて松岡大臣どころではなかった。
無くなった先生は大変立派な方だった。
専門は法学。いつもユーモアをまじえた先生の講義が大好きだった。
なにより学生に愛されていた。
私が大学ではじめて福田恆存さんの話をしたのもその方だ。
福田恆存さんをあまり知る人が居なかったので、話が通じた時は嬉しかった。
先生は「コウゾンさんの文章は良いよね」と仰っていた。
その時の笑顔を今も忘れない。
まだ、還暦にも達しておらず若くして逝かれた。
世の中、立派な方から先に亡くなられるように思えてならない。
心から哀悼の意を表すると共に御冥福をお祈り申し上げたい。
さて、世の中には死にたくなくても死んでしまう方もいれば、松岡大臣のように自ら死を選ぶ人もいる。
私は必ずしも自殺を否定しない。
責任をとって自殺するということも、あいるいはあってよいと思う。
しかし、今回の松岡大臣の件はなんとも哀しい思いがする。
自ら命を絶たなくても良かったのに。
余程、悩んでいたのだろうか。
辞めたくても辞められなかったのだろうか。
辞任の道を阻んでいたのが安倍総理だとするならば一層風当たりは強くなるだろう。
参院選の影響がどうのとマスコミと共に国民は騒いでいるが私はあまり興味が無い。
それよりも、国民向けの遺書に
「国民の皆様、後援会の皆様。私自身の不明、不徳の為、お騒がせ致しましたこと、
ご迷惑をおかけ致しましたこと、衷心からお詫び申し上げます。自分の身命を
持って責任とお詫びに代えさせていただきます。なにとぞ、お許し下さいませ。
残された者達には、皆様方のお情けを賜りますようお願い申し上げます。
安倍総理、日本国万歳。平成19年5月28日松岡利勝」
と、したためられていたことの方が興味深い。
日本国万歳といって命を絶つなんて終戦時に自決したあまたの軍人を思い出した。
戦争に負けたわけでもないのにやはり命を絶つべきではなかったように思う。
松岡大臣の遺書にしたためられた「日本国万歳」は終戦時のそれとはまた違った意味で哀しさを漂わせている。
無くなった先生は大変立派な方だった。
専門は法学。いつもユーモアをまじえた先生の講義が大好きだった。
なにより学生に愛されていた。
私が大学ではじめて福田恆存さんの話をしたのもその方だ。
福田恆存さんをあまり知る人が居なかったので、話が通じた時は嬉しかった。
先生は「コウゾンさんの文章は良いよね」と仰っていた。
その時の笑顔を今も忘れない。
まだ、還暦にも達しておらず若くして逝かれた。
世の中、立派な方から先に亡くなられるように思えてならない。
心から哀悼の意を表すると共に御冥福をお祈り申し上げたい。
さて、世の中には死にたくなくても死んでしまう方もいれば、松岡大臣のように自ら死を選ぶ人もいる。
私は必ずしも自殺を否定しない。
責任をとって自殺するということも、あいるいはあってよいと思う。
しかし、今回の松岡大臣の件はなんとも哀しい思いがする。
自ら命を絶たなくても良かったのに。
余程、悩んでいたのだろうか。
辞めたくても辞められなかったのだろうか。
辞任の道を阻んでいたのが安倍総理だとするならば一層風当たりは強くなるだろう。
参院選の影響がどうのとマスコミと共に国民は騒いでいるが私はあまり興味が無い。
それよりも、国民向けの遺書に
「国民の皆様、後援会の皆様。私自身の不明、不徳の為、お騒がせ致しましたこと、
ご迷惑をおかけ致しましたこと、衷心からお詫び申し上げます。自分の身命を
持って責任とお詫びに代えさせていただきます。なにとぞ、お許し下さいませ。
残された者達には、皆様方のお情けを賜りますようお願い申し上げます。
安倍総理、日本国万歳。平成19年5月28日松岡利勝」
と、したためられていたことの方が興味深い。
日本国万歳といって命を絶つなんて終戦時に自決したあまたの軍人を思い出した。
戦争に負けたわけでもないのにやはり命を絶つべきではなかったように思う。
松岡大臣の遺書にしたためられた「日本国万歳」は終戦時のそれとはまた違った意味で哀しさを漂わせている。
前から興味を持っておりましたが、皆いったい恆存をどう発音していたのでしょうか。お亡くなりになった先生は「恆存」を「こうぞん」と読んだのですね。少なくとも私は学生時代がずっと「こうそん」です。「こうぞん」ではありません。
こういうのは記録に残らないので上の世代に聞いてみないとわかりませんね。
の誤りです。すみません。
書き込みありがとうございます。
>前から興味を持っておりましたが、皆いったい恆存をどう発音していたのでしょうか。
>お亡くなりになった先生は「恆存」を「こうぞん」と読んだのですね。少なくとも私は学生時代がずっと「こうそん」です。「こうぞん」ではありません。
>こういうのは記録に残らないので上の世代に聞いてみないとわかりませんね。
なるほど、確かにこの件は興味深いですね。
私は一貫してそのまま「ツネアリ」と読んでいます。
「コウゾン」或いは「コウソン」は有職読みになるのでしょうか。
亡くなった先生は「コウゾン」でしたが、他の人では皆「ツネアリ」と発音していたように思います。
それは菊池寛を「きくち・ひろし」とは誰も読まないのと同じです。この話はたしか高島俊男先生も書いていましたね。
おそらく当時は「こうそん」「こうぞん」両方が共存していたのではないでしょうか。どのくらいの割合なのか、それが知りたいものです。わたしは「こうそん」が多数派だったろう、と想像します。
そういえば、私の高校生時代、「試験に出る英単語」を「シケ単」と呼ぶ人と「でる単」と呼ぶ人がいました。私はシケ単派。今はどうなっているのか知りませんが。
なるほど。
なんだか、少し的外れな返信をしてしまい失礼しました。
現在の私の周りでも福田恆存さんを知っている人自体が殆ど居ないので、読んだとしても「ツネアリ」になるのでしょうね。
確かに、私たちより上の世代の方々は「コウソン」や「コウゾン」と発音する人が多いように思います。
といっても、なにぶんサンプルが少ないのであまり確信は持てませんが。
>おそらく当時は「こうそん」「こうぞん」両方が共存していたのではないでしょうか。どのくらいの割合なのか、それが知りたいものです。わたしは「こうそん」が多数派だったろう、と想像します。
だとすると、「コウゾン」と発音していた先生は少数派だったのかもしれませんね。
御存命だったらこの件、是非とも伺ってみとうございました。
>そういえば、私の高校生時代、「試験に出る英単語」を「シケ単」と呼ぶ人と「でる単」と呼ぶ人がいました。私はシケ単派。今はどうなっているのか知りませんが。
私の周りでは皆(自分も含め)、「でる単」と発音していました。
「シケ単」派は皆無だったように思います。
これは時代だけでなく、地方によっても差があるのかもしれませんね。
あび卯月さんの書かれている文章と直接の関係がなくて申し訳ないのですが、『回想の向坂隆一郎』という著書へのレビューを書きましたので、ご覧いただければ幸いです。おかしな神格化を防ぐためにこそ、こういう本は読まれなくてはいけないように思います。
こんな本があったのですね。
福田先生の負の部分が書かれているとは大変興味深いです。
あまカラさんも書かれているように私も福田先生が偉大な人物だったという評価に変わりはないのですが、同時に妙な神格化は避けるべきだと思います。
向坂さんは「尊敬する人物が矮小に見えるときほど悲しいことはない」と書かれているようですが、私は尊敬する人の負の部分を見るのはも案外嫌いではないです。
勿論、程度にも寄りますが福田先生のそういう部分をみると余計に好きになってしまいそうです。
これはギャップが良いのかも知れません。
例えば、昭和天皇にも云える事で、昭和天皇は大変立派な御人柄でありましたが、時折見せる人間の弱さというものを知ったときに余計に親愛の情が浮かぶのです。
この本、買おうと思ったのですが、古書でしかないのですね。
しかも、結構値がはるので図書館を探してみたいと思います。
御紹介本当にありがとうございました。
また、レビューなどを書かれる事がありましたら、記事の内容に関係なく書き込みしていただけると幸いです。