あび卯月☆ぶろぐ

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愛国心のすゝめ

2013-07-20 02:27:10 | 政治・経済
愛国という言葉を遣うだけでこの国の民は過剰に反応する。
国を愛することがそんなに悪いことだろうか。また、特異なことだろうか。

しかし、愛国という言葉に過剰反応する人の気持ちも実はわからなくもない。
というのも、かつて、このブログでも指摘したが、どの国の愛国心にも根本には同質の要素を持っていて、 それは、多民族に対する嫉妬、憎悪、恨み、不信などで本来、愛国心とは実に排他的なものだということだ。
そして、それはしばしばそれは強力な国家を維持してゆく為の装置として使われる。
しかも、グローバルの視点ではこれを否定的に捉えてはならず、他国への憎悪が国家サバイバルのエネルギー源となりうる以上、この“排他的な愛国心”は持っていた方が良いのである。
私が反グローバリズムを掲げる理由がこのことからもお分かりいただけようか。

しかし、近代以前に日本人がもっていた愛国心はそうではなかった。
いや、近代以前には国家の概念がなかった以上、愛郷心と言った方が適切かもしれないが、ここでは、敢えて愛国心で通したい。

日本人の愛国心は

 
大和には 群山(むらやま)あれど
とりよろふ 天の香具山
登り立ち 国見をすれば
国原は 煙立ちたつ
海原は 鴎立ちたつ
うまし国ぞ あきつしま 大和の国は



と 『萬葉集』で舒明天皇がうたったように、情緒的で他国との比較もなく、排他的でもなく、せいぜい「わたしの国はいい国です」と表明するに過ぎなかった。

ところが、明治以降、日本は近代化の道を歩み、欧米並みの排他的な愛国心が必要となった。
だが、日本人は欧米並みの愛国心を持ちえたのだろうか。
私は今を以ても、日本人は欧米並みの愛国心を持っていないと思う。
大東亜戦中に過剰に愛国心が鼓舞されたが、これは、本来、排他的な愛国心を持ち得なかった日本人が無理やり愛国心を呑みこんで消化不良を起こした結果ではなかったか。
戦後、この消化不良による過剰な胃もたれに懲りて、愛国心自体を否定してしまった。
しかし、もっとよく咀嚼すればよかったのだ。近代化を急ぎ過ぎてあまりにも時間が足りなかったのだろうが。

戦後六十八年がたった。いま一度、愛国心をゆっくり咀嚼する時がきた。
では、いま日本人に必要な愛国心とはなんだろうか。
情緒だけでもなく、排他的でもない。しかし、情緒に根差した我が国の郷土、自然、文化、伝統、それによってはぐくまれた国柄や精神を含めた国を愛する心である。
いうまでもなく、ここでの「国」とは、政府や統治機構、いわんや政権与党のことではない。

悪く言えば、ドメスティックな愛国心であるが、それすらも持ち得ていないことが我が国の不幸であるに違いない。

すでにお気づきのように、このドメスティックな愛国心は右翼の専売特許ではない。
この愛国心は左右の別なく持ち得るもので、誤解を恐れずに書けば、よく反日勢力呼ばわりされる左翼や共産党や反原発派の人にも愛国者は大勢いると思う。(と同時に、これらの党派性をもった人々に反日的な人が多いことも否定しないが)
反対に普段、愛国者を気取っている者が実は一番、我が国の郷土と自然と文化と伝統と国柄と精神とを破壊していることが往々にしてある。
このように愛国者面をして平気で国を売るようなことをする人物もまたこの国は多い。
愛国という言葉が否定的に捉えられる要因の一つだ。

そういう事情もあってか、我が国では愛国心は否定的に捉えられがちだが、ドメスティックな愛国心と民主主義とは矛盾しない。
むしろ、民主主義が健全に運営されるには愛国心が必要であって、我が国の民主主義が健全に機能していないとするならば、国民の愛国心が稀薄であることと無関係でないのではないか。
自分の住んでいる国を愛することができなくて、どうして政治が民主主義がうまくいくだろう。

参議院選挙を明日に控えた。
目下のところ、真に愛国的な政党は皆無と言わざるを得ない。
どうせ、グローバル化と市場主義、新自由主義が善と考えるとりわけ愛国心の無いあの党が圧勝する。
嘆きたくなるが、その後からでも遅くない。まづは国民が愛国者となることだ。
そうすれば、日本の民主主義も少しはマシになる。

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