変わり果てた山は遠きにありて思うもの、
近くで見ると寂しく悲しい。
武甲山の標高は1,304メートル。
秩父市民が、朝な夕な眺め母なる山、信仰の山、登山として二百名山として
親しまれてきた山です。
高校時代は、学舎が市街にあり学窓から大きく全容が見えた。
春先になると新入生を交えて集中登山が恒例行事で、楽しく登った思い出の山です。
昨日、葛飾ハイキングの方達と『秩父ミューズパーク・長尾根の旅』に出た。
やせ細った石灰岩むき出しの無残な武甲山を見た。
昨日より今日、山の姿を刻々と変え、将来的には消えてしまうのでは!?
友が消えていく様で寂しい。
本『奥秩父』清水武甲著から借用、昭和のはじめか?
横瀬から見る
① 昭和14年頃の武甲山と秩父セメント
② 昭和30年代の武甲山、札所23番付近から
学窓から眺めた山の全容の頃・・・・・・、山裾の煙は砕石工場の煙
ダイナマイトの発破の音を聞いた
校 歌
♪ 不断の流れ荒川や
永久に動かぬ武甲山
久遠の理想窓近く
校歌の一節も無残の姿・・・・・・・見るに忍びない武甲山
③ 平成17年当時の武甲山(秩父市寺尾から)
工場は秩父セメント第2工場
④平成27年5月の武甲山 (秩父市ミューズパークから)
④ 平成27年5月の武甲山(秩父市25番 久昌寺から)
⑤削り取られた山容
石灰石砕石会社の資料から借用
この武甲山断面図を見ると坑道が至る所に堀進められて
空洞ということが分かります
写真 ① ② ⑤は、武甲山資料館からお借りしました。
秩父のシンボル、武甲山。山全体が石灰岩で出来ている。
大正の初めごろからその石灰岩の採石が始まり、武甲山は日々
その姿を変えている悲しみの山である。
秩父盆地に足を踏み入れた人々は、降り注ぐ石灰石の粉で白く汚れた町並の背後に、
高々と立ちはだかる全山砕石場と化した山を見、思わず息を飲んだに違いない。
名峰と讚えられ、日本二百名山にも列する武甲山の現在の姿である。
縄文人さんの故郷、秩父のシンボル「武甲山」が昨日は晴天に恵まれて、その姿を見ることができました。
このブログを見て、その変わりようには驚きです。
これも時代の流れなのでしょうか。
複雑な想いで山を見つめる、縄文人さんの心中察するところがありました。
でも、秩父を久しぶりに訪れましたが、本当に良いところですね。
「秩父おなめ」おいしかったですよ。
そんな悲哀を少し味わいました。
ホタルが例年より5日ほど早く飛び始めました。
心配はよそに飛んでくれました。
本当にたまがりました!
人工的にきれいに!?浸食されている姿を
今までどこでも見たことがなかったからです。
縄文人さんの思いは痛いほど良く分かります。
武甲山の昔の姿を懐かしく拝見しました。
小生が初めて武甲山に登ったのは昭和35年の春先のことでした。
山頂部では膝まで没するほどの雪がありました。
山頂から眺めた富士山・両神山の姿は大変印象的でしたね。
下山はいつも橋立鍾乳洞側と決まっていました、
浦山口駅から秩父電鉄に乗って帰ってくるのです。
その頃の武甲山は②の写真のとおりですが、右側がもう少し抉れていたかもしれません。
その山容の武甲山には20回近く通いましたが、社会人となり、三河の人間になったことによって、武甲山とは縁が切れてしまいました。
時を経て、熊谷・深谷辺りからこの山を望見し、なんとも無残な姿に変貌してしまった武甲山に気付いたときに、強い衝撃と憤り・それに虚脱感を禁じえませんでした。
昔の武甲山の姿は雄々しくて、秩父盆地から見上げたときには、それは迫力ある眺めでしたね。
いや、むしろ威圧的でありました。
中京圏でも藤原岳と言う”花の百名山”がありますが、この山が武甲山と全く同じ運命にあるようです。
石灰岩地に特有の素晴らしい植生を持つ山なのですが、哀しいことに、それもセメント会社の鉱業権の前になすすべがないようです。
自嘲的に言うことですが、自分も含めて山を歩く人種は、自然保護のために皆を糾合して盛り上がりを興すということが、どうも苦手で、反省材料です。
古里は変わらぬ姿で待っていて欲しいものでしょうね!
でも厳しい現実がありますから・・・変わらなければ生活できない側面もありましょう!
先祖から受け継いだ田畑を守っていくのは並大抵の事ではなく・・・私たちの世代を育てた親たちは親と同じ苦労をさせたくなくて、都会へ出て行くことを望んだのでしょうからね~
でも、校歌に歌われたシンボルの山が面影を残していないのは寂しい事ですね!
ちょっと意味合いが違う事を書き込んでしまいました。
ご免なさい!
山頂を失くした武甲山。
今より標高が高い山頂がある頃の武甲山に登りたかったー。
今もなお、たくさんの人が登っている、愛され続けている武甲山です。(^^)/
お疲れさんでした、よき思い出の旅となりました。
先ず1発目に、
変わり行く武甲山、変貌する武甲山を取り上げましたら思わぬ反響が有りました。
『ぶちょうほうさん』きっと山にかける思いが人一倍、山を愛している方です。
変わり行く山ひとしおでありましょう。
山男さんもバスの中で、最初の葛ハイの山は、確か武甲山と聴いたような・・・・・・・・・・?。
”オナメ”は秩父のご飯のおかずとして毎日食べて育ちました。、
身体に染み付いている嗜好品です。
清里三社参り、楽しみにしています。
ホタル飛ぶ季節
ねじり鉢巻で忙しさに立ち向かっていることでしょう。
パソコン早く順調にいくとよいですね。
道の駅の『ちちぶの水』飲んで来ました、どんこさんを思い浮かべながら。
変わり果てた武甲山,
どんこさんの鮮明な画像にほれ込んで借用した、桑畑から眺めた武甲山、今もって額に入り
・ 武甲山働く姿桑こぶし
蚕を飼いて母は終わりし
の一句を添えて飾って有ります。
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山を愛する、ぶちょうほうさんたくさんのこみ上げるコメ、何回も読み返しました。
感激するやら、チョイト涙腺が熱くなりました。
・・・・・が、しかし、
秩父という街は、この武甲山という宝の山に支えられ、秩父鉄道も敷き設され発展の礎はこの武甲山であるかもしれません。
この山が有ってからこそという説も、あちこちから
発展したのだという人もかなり、いや大半でしょう。
≫昔の武甲山の姿は雄々しくて、秩父盆地から見上げたときには、それは迫力ある眺めでしたね
まさにその通りです。
学舎の窓から眺めた光景は、勇気と力を与えてもらいました。
その学校も、秩父市発展の為に移動し西武秩父駅が誕生して?十年にも立ちます。
藤原岳のことは良く分かりませんが、やはり人間社会は同じ姿のままでは行き続けていくことが無理なのでありましょう。
八王子の高尾山も、まさにその通りです。
駅には温泉が出来、山頂でも腰を伸ばしてお昼も食べられないという混雑さです(日曜日)。
どちらかと言えば、遊園地化なりつつあります。
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