大秀寺・崇福寺・源照寺
関東大震災の被害で葛飾区に移転
ここ佐倉道の脇に3箇寺も隣り合わせているのは何故であろうか・・・!?
調べてやっと謎を解くことが出来た。
3箇寺とも、関東大震災に遭い、この地の葛飾区・高砂に移転されたものです。
調べた≪寺の縁起≫を参照ください。
大秀寺・崇福寺・源照寺の所在地
*佐倉街道(さくらかいどう)とは、江戸時代の脇街道の一つで、佐倉城を終点とするもの。
大 秀 寺
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浄土宗寺院の大秀寺は、弘誓山威徳院と号します。寛永5年(1628)3月、宝誉林残(1600-63)が本郷湯島に創建、明暦の大火後に浅草山谷へ移転したといいます。関東大震災で罹災、大正15年当地へ移転しました。
崇 福 寺
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崇福寺は、慶長5年(1600)日本橋浜町に建立された崇福庵を創始とし、前橋城主酒井雅楽頭忠世の帰依により堂宇を建立し、名称を崇福寺とした。明暦の大火(1657年)で焼失、忠世の孫忠清の代に浅草松清町に再建、以来酒井家の江戸の菩提寺として栄えた。寺紋も酒井家の家紋である「剣鳩酸草(けんかたばみ)」を使っている。関東大震災で被災、昭和3年ここに移転した。裏手の墓地には伊勢崎藩酒井家の墓所がある。
源 照 寺
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浄土宗寺院の源照寺は、寛永3年(1626)照蓮社寂誉上人薫香宗円和尚が浅草蔵前鳥越付近に創建、明暦の大火に類焼後、山谷新鳥越(台東区山谷2丁目)に移転したといいます。関東大震災に焼失し、昭和3年当地に移転しました。 墓地に山田流琴曲の祖山田検校や義太夫節の竹本綾太郎の墓等があります。
* 葛飾区・高砂は大正12年の関東大震災をさかいとして発展をみた。
その以前に80戸足らずのであったが、震災後一躍400戸の戸数と、1800の人口となった。
従って、檀家の方たちもほとんどがこの地へ移転されたと思われる。
(高砂町発展史より)
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