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日々是好日・スローライフ(寅さんの柴又から発信)

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寺院・3箇寺が軒を連ねて、(佐倉街道・その4)

2020年04月15日 | 紀  葛飾今昔街歩き(葛飾地図)

大秀寺・崇福寺・源照寺

関東大震災の被害で葛飾区に移転

 

 

ここ佐倉道の脇に3箇寺も隣り合わせているのは何故であろうか・・・!?

調べてやっと謎を解くことが出来た。

3箇寺とも、関東大震災に遭い、この地の葛飾区・高砂に移転されたものです。

調べた≪寺の縁起≫を参照ください。


大秀寺・崇福寺・源照寺の所在地

佐倉街道(さくらかいどう)とは、江戸時代の脇街道の一つで、佐倉城を終点とするもの。

 

大 秀 寺


浄土宗寺院の大秀寺は、弘誓山威徳院と号します。寛永5年(1628)3月、宝誉林残(1600-63)が本郷湯島に創建、明暦の大火後に浅草山谷へ移転したといいます。関東大震災で罹災、大正15年当地へ移転しました


崇 福 寺



崇福寺は、慶長5年(1600)日本橋浜町に建立された崇福庵を創始とし、前橋城主酒井雅楽頭忠世の帰依により堂宇を建立し、名称を崇福寺とした。明暦の大火(1657年)で焼失、忠世の孫忠清の代に浅草松清町に再建、以来酒井家の江戸の菩提寺として栄えた。寺紋も酒井家の家紋である「剣鳩酸草(けんかたばみ)」を使っている。関東大震災で被災、昭和3年ここに移転した。裏手の墓地には伊勢崎藩酒井家の墓所がある。

 

源 照 寺


浄土宗寺院の源照寺は、寛永3年(1626)照蓮社寂誉上人薫香宗円和尚が浅草蔵前鳥越付近に創建、明暦の大火に類焼後、山谷新鳥越(台東区山谷2丁目)に移転したといいます。関東大震災に焼失し、昭和3年当地に移転しました。 墓地に山田流琴曲の祖山田検校や義太夫節の竹本綾太郎の墓等があります。

 

 

* 葛飾区・高砂は大正12年の関東大震災をさかいとして発展をみた。
その以前に80戸足らずのであったが、震災後一躍400戸の戸数と、1800の人口となった
 
従って、檀家の方たちもほとんどがこの地へ移転されたと思われる。

(高砂町発展史より)

高砂町の発展の歴史 

 

 

 佐倉道・・・その1  

 佐倉道・・・その2    

佐倉道・・・その3 

 

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葛飾区最古の道標・・・(佐倉道・・その3)

2020年04月14日 | 紀  葛飾今昔街歩き(葛飾地図)

 

角柱三猿浮彫道標・葛飾区指定有形民俗文化財

3月末、佐倉街道の並木を歩いた。
その時チョイト地域を広げ佐倉街道を歩いてみた。

東京都葛飾区高砂6丁目13-21

 

 

亀田橋跡付近の石仏群。北向地蔵や石仏が並ぶ。

左端が角柱三猿浮彫道標と呼ばれるもので、正面上と両側面上に仏形坐像か、三猿と思われる浮彫があるが、

摩耗が著しくはっきりしない。

正面に「これより右ハ 下川原村 さくら海道」、右側面に「これより左 下の割への道」と刻まれる。元禄6年(1693年)建立、

葛飾区内に現存する最古の道標とのことです。

 


上4枚の画像は、角柱三猿浮彫道標で部分的に撮ったものです。
民家の一角に食い込んだように宅地化が進んで、道標と言うより
村はずれのお地蔵さん的雰囲気が濃い。


踏切の近くには、佐倉連隊に向かう軍用車が
小合用水に転落殉職(昭和16年)の兵士碑が建立されている。


 新小岩~金町間の貨物線
区道工事(水戸街道~高砂=細田~江戸川区)の拡張工事

 

 

こぼれ話・旅 装 束

旅はいつも出発から始まる。古来、人々は様々な思いを胸に描いて旅に出た。

江戸時代の旅はどのような装束で旅発ったのだろうか?

昔は全てが歩き、これに呼応した旅装束・持ち道具とて歩きの邪魔にならないように、創意工夫されたことでしょう。

佐倉街道をちょいと行き来しただけでしたが、持ち物がどんなことであったかを知ることも興味津々と思った。

昨今は新ウイルスでマスクの出で発ちですが、当時江戸の昔

マスクなどと言うものはどんな形であったのだろうか?

 江戸時代の感冒予防
                                ↑ クリック拡大

 

佐倉道・・・その1  

佐倉道・・・その2    

 

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帝釈道・国分道(新宿地蔵尊群~柴又帝釈天まで)

2016年07月23日 | 紀  葛飾今昔街歩き(葛飾地図)

国分道の道筋

水戸街道横断~新宿交通公園前(小岩用水跡を渡る)~柴又憩い館~
                            古録天神社~八幡神社~帝釈天

 柴又帝釈天・事前勉強会
この勉強会が、立石道と、国分道の出発点でした。

 


 黄色い○が13体石仏群           の線が国分道です。


帝釈道道標
 

     
          13体石仏群                       記念碑

 

 金町~新小岩貨物線踏切があります




水戸街道を横断します   亀有警察署前交差点


新宿交通公園の前で、小岩用水とドッキングします。


小岩用水と別れて左に曲がります。


柴又用水跡です。

幻の用水路、別名[タモリ道


柴又憩い交流館前



 古録天神社前

 


八幡神社湧き金町線の踏切

 

京成金町線  踏切を渡ります。

むかしは帝釈天の参拝に使った、おっぺし電車です。

 

   
   柴又帝釈天参道入り口です。               参道を柴又用水が横切っていた。

  

 

柴又帝釈天到着

 

 

 

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陸前浜街道(現・水戸街道)の新宿の宿場町(葛飾)

2016年07月22日 | 紀  葛飾今昔街歩き(葛飾地図)

 古地図から見た昔の新宿宿場町と今の街

甲州街道に新宿(しんじゅく)が有りますが、
葛飾・陸前浜街道(水戸街道)の宿は新宿(にいじゅく)と呼ぶ。

かつしか、いろはカルタ

 

    

江戸時代の新宿(にいじく)は宿場で、浜街道と佐倉の両街道の分岐点。
「枡形」の道の両側に中川屋、藤や、亀屋などの旅籠や茶店が立ち並んでいた。
甲州街道の「内藤新宿」より古い宿場町である

 

 
新宿・渡し・追分碑・地蔵尊付近概略図

                 ☆  成田街道(佐倉道)→市川の渡しを通り成田山へ参拝
     ☆  帝釈道(国分道)→柴又帝釈天へ参拝
は此処からが街道の起点

 

古地図から見た新宿の宿場

 

 

明治38年・南葛飾郡と呼ばれた当時絵図(狩野栄一氏から提供され地図) 
撮影技術が悪く地図の価値が、全くありません。申し訳ない。

 
新宿渡し名所絵図


嘘のようなホントの話

明治30年頃、常磐線の金町駅を設置する話が持ち上がった。
すると大反対する住民が沢山居ました。
反対する住民は、新宿渡しの関係者、宿場町の関係者であったと言う。

この町を人が通らなくなって、街がさびれてしまうと言う
ホントの話です。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

    

中川橋付近(新宿の渡しが有った場所)の現在の様子


中川橋東詰の様子(上3枚)

 

現在の新宿2丁目(宿場町)付近

「枡形」の道の両側に旅籠や茶店が立ち並んでいた。
街道の裏手には、宝蓮寺、浄心寺があり、
地図の上から見ると、大きな池が有ったことが伺える。

     
真っ直ぐは日枝神社、角から2軒目がお煎餅や                 保育園入り口

  
日枝神社

 


面影を残す金阿弥橋

 

 陸前浜街道(水戸道)と佐倉道の分岐

 

adumaya

正面に「右 なりたちば寺道」「左 水戸街道」とあり、
右側面に「さくらミち」、左側面に「安永六(1777)丁酉年八月吉日 
石橋供養塔」と刻んであります。

約5年の歳月をかけて、この付近に27箇所の石橋を架けたので、その供養のため不動尊と、供養塔を兼ねた道標を建てたのだと言います。葛飾区の指定文化財となっていました。

この付近には、水元からの用水路が流れており橋が無ければ、
行き来することはできない。
27ヶ所の橋はそんな状況から生まれたのであろう。


この場所が、水戸道と佐倉道の分岐点でした。交通量の激しい水戸街道を横切ると、これがと思うほどの狭い佐倉道が、ほぼ南方向へ続きます。  (旧・成田街道を歩くHPから)


残念なことに、ここのお蕎麦屋さんと、石標が取り払われて
空き地になっています。石標は博物館に保管されています)

 

  

地蔵尊付近・陸前浜街道と帝釈道の分岐

 


沢山の石像が有ります。1つ1つのそれぞれ建立の価値が有るのでしょう。
大きな松が有り日影となって、憩いの場所です。


                             帝釈道(国分道)の起点

 

 帝釈道(国分道)の道標を調べに行きましたら、
やはり
「枡形」の道の宿場を見ない訳にはいかなくなりました。

そんなことから、記事の分量が多くなりました。

 

 

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帝釈天に通ずる道、立石道  高砂・柴又付近   その3

2016年07月07日 | 紀  葛飾今昔街歩き(葛飾地図)

曲り金の渡し(高砂橋)~高砂踏切~
伊勢や前信号右折~京成金町線踏切手前左折~
コインランドリー前の踏切渡る~柴又駅前~帝釈天王の石柱

 

この区間は陸路のため、古地図をたどると分かり易い。

高砂橋に隣接して富士見橋があります。

ここは新金貨物線の陸橋ですが、中川を通して東京スカイツリーの眺望が良い。

葛飾の案内書等を見ると、「富士山の眺めがよい」と記してある。

きっと曲り金の渡しを終え辿り来た道を眺め富士山を見て、江戸川方向を見ると帝釈天の森が見える。

ヤレヤレと、安どの気持ちに浸かった場所であろう。

 


新金貨物線の橋です。
眺望よし、富士山が見えたのであろう。 


富士見橋から東京スカイツリー


高砂橋交差点を直進


高砂駅前の踏切、直進します


伊勢屋さんの信号を右折。佐倉街道を歩く


京成金町線の踏切を渡らないで左折。佐倉街道は直進
この付近には小岩用水がとうとうと流れ小岩方面へ


この踏切を渡ります。


柴又駅前商店街

 


帝釈天参道

 

 

 

帝釈天王安置石柱、参道前です。国分道(帝釈道)と合流します。

 

葛飾区は、荒川、中川、江戸川に囲まれた水路も街です。
江戸から帝釈天詣でに来るには、川を渡らなければならなかった。

我、わずかな距離の帝釈道・立石道を見分しながら歩きましたが、
当時の庚申詣では、大変であった事が伺えた。

現在は交通機関の発達で、京成電車、又は車で帝釈天まで行ける。
そんなことから、昔の帝釈道(知る人もない)を通って

参拝する方は、皆無に等しい。

 

*画像に斑点がありますがカメラの不具合です。

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帝釈天に通ずる道、立石道 (中川の渡し)  その2

2016年07月06日 | 紀  葛飾今昔街歩き(葛飾地図)

中川を渡るに、4つの渡し? があった。
文政の頃=1820年代

 

[葛飾・柴又の文化と歴史を後世に]の講話を聞いた。
興味を抱いて、帝釈天へ通じる大昔の道を調べた。
 

江戸から帝釈天へ向かうルートは主に、2つあったことは既に述べた。

立石帝釈道を調べていると、いくつもの枝道になり、これが中川に突き当たる。

そして途切れる。そこには現在、橋が架かっている。

そこで考えられのが”渡し”である。


かまくら郷土資料館にて、下肥舟
当時の”渡し舟”はこのようなものだったのであろうか?

下流から①奥戸の渡し(本奥戸橋=奥戸街道)、②奥戸の渡し(スポーツセンターの隣の橋)

③諏訪の渡し「青砥側の福森稲荷神社内の道標~高砂1丁目(昔諏訪町と呼んだ)」

④曲金の渡し(高砂橋)であった。


【葛飾今昔街歩き・葛飾観光課発行、  東京府南葛飾郡全図地図、
HP/帝釈道~帝釈天に産湯を浸かりに行こう(2013,10,20)、
葛飾・柴又地域、文化的景観調査報告書を参照した】

  

昔の渡し跡を調べ、現在の佇まいを見る

①奥戸の渡し(本奥戸橋)


本奥戸橋西詰の角に地蔵尊の石像があります。


本奥戸橋東詰めの景観



②奥戸の渡し(スポーツセンターの隣)


現在の奥戸橋、真っ直ぐ行くと葛飾区役所


葛飾区総合スポーツセンター

 

③諏訪の渡し(青砥~高砂1丁目・以前は諏訪町の名前・・・で)



 福森稲荷神社境内の道標

 


高砂1丁目(旧諏訪町)八幡神社

 

④曲金の渡し(高砂橋)


高砂斜張橋
青戸2丁めから望む

 高砂橋から新中川(s38年完成)と旧諏訪町方面を望む
かすかに高砂諏訪橋が見える

 古地図(金町・高砂・鎌倉・柴又・奥戸)
佐倉道、岩槻街道,帝釈道(立石道・国分道)、
水路では、小岩用水、西井堀、東井堀は明確に分かります。

 

渡しのあった場所を訪ねて

現在の旧中川を見ます右岸左岸にコンクリートのカミソリ堤防が

構築されて、堤防下からは流域をも望むことができない。

当時を推察すれば、簡単に川岸まで降りることができ、そこに渡し舟が置いてあったのであろう。

付近を訪ねて、古老に聞いてみますと

「おじいさんが渡しがあったということを聞いたことがあります…と」言うくらいで

確固たる証言は得られませんでした。

無理もない、200年も前のことです。

 

次回は、”曲金の渡し”から高砂町を通り、帝釈天の参道に至ります。

 

 

 

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帝釈天に通ずる道、立石道、帝釈天王石柱    その1

2016年07月04日 | 紀  葛飾今昔街歩き(葛飾地図)

帝釈道は、立石道を通り帝釈天へ参拝する
(1820年代の頃のことです)

 

[葛飾・柴又の文化と歴史を後世に]の講話を聞いた。
興味を抱いて、帝釈天へ通じる大昔の道を調べた。
 

江戸から帝釈天へ向かうルートは,主に2つあったとされる。

一つは、浅草から吾妻橋を渡り、曳舟を抜けて四つ木の渡しを越え、(おそらく立石道を通って)立石、そこからは諏訪野の渡し(調査中)もしくは曲金の渡し(現在の高砂橋)を利用して中川を渡り、
帝釈天へと至るルート帝釈道(立石道)(オレンジのライン)である。

もう一つのルートは、水戸街道を利用して千住→新宿(にいじゅく)、新宿で水戸街道を離れ国分道を利用して帝釈天へ向かう方法の国分道(緑のライン)である。
このラインは後日に調査検証を譲る事とします。


帝釈道(立石道)
[HP/帝釈道~帝釈天に産湯を浸かりに行こう参考]

    
中川の側道に有り、
葛飾税務署近くにある帝釈道石柱(文政の元号あり=1820年代)
場所は上の地図参照


帝釈天王と書かれた石碑の反対側の近くに
折れた石柱があった。
検証する者にとっては気に掛かった。


右の地域は(葛飾税務署)で占められている番地、
石柱があった場所と同番地でした。

↓ 青砥方面へこの道を直進します。進む


帝釈道枝道付近

  立石道
トップの地図にもある帝釈道(立石道)は、古代の官道「古代東海道」です。
その昔、武蔵の国と下総の国を直線的に結んでいた道なのです。

現在の奥戸橋付近に奥戸の渡しがありました。
京成電車の開通で人通りが減りました。途中から帝釈道が分かれます。


江戸市中から宵の"庚申"(注)で柴又帝釈天へ提灯をともしてお参りした道です。 

 

絵図下に【柴又村柴又帝釈天の図】と記してある

帝釈枝道は諏訪野の渡し付近で帝釈道と合流しており、
そこからは帝釈道と共通のルートを辿るようである。


福森稲荷神社内の道標
      (場所は上の地図参照)

この神社は寛政8年(1796年)に創建されたとされているが、
その敷地内に「帝釋天王通」と彫られた道標が置かれている。
この道標自体は安政3年(1856年)に建立されたもので、当時この場所付近にあった
「諏訪野の渡し」を利用する参拝客に向けたものではないかと考えられる。

 

 

境内の石碑
この石碑の詳細を読み解く必要があることがわかったが、これは私にしては至難の業。
おそらく、付近の様子や中川の“渡しの状況”もここから読み解くことが出来るかもしれない。帝釈天王道ははっきり解る。
 

福森稲荷神の道路を隔てて折れた石碑を見た。
通りがかりの人、近くの鈴木煎餅店のおばあさんを訪ねて聞いたが、
帝釈道・立石道について、手がかりは得られませんでした。
 

現在の高砂橋・斜張橋がみえる。
人が散策している付近は《諏訪のの渡し}とも想われる。 
 


オレンジのラインと青のラインの合流した辺りに、福森稲荷神社が鎮座している。
この付近に諏訪の渡しが有ったのか!?
ちなみに福森稲荷神の対岸を諏訪町と呼んでいたが、
今高砂一丁目となっている。

(注)庚申とは
  庚申とは干支(えと) 即ち、庚(かのえ)申(さる)の日を意味し、この夜に人間の体の中にいる
三尸の虫が、寝ている間に体から脱け出して、天帝にその人間の行った悪行を告げ口に行く。
  
天帝は寿命を司る神であるから、悪いことをした人に罰として寿命を縮める。ところが、
三尸の虫は、人間が寝ている間にしか体から脱け出ることができないので、庚申日は、徹夜をする、
   
これを庚申待ちという。


【葛飾今昔街歩き・葛飾観光課発行、 東京府南葛飾郡全図地図、
HP/帝釈道~帝釈天に産湯を浸かりに行こう、
葛飾・柴又地域、文化的景観調査報告書を参照した】 

 

次回は
帝釈道(立石道)は、中川の渡しについて調べます。

 

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東京葛飾・高砂、柴又街歩き,その1

2015年09月20日 | 紀  葛飾今昔街歩き(葛飾地図)

しばらくぶりに街歩きに、参加


あちこちの寺院に、先祖に手向ける線香の香り、

つくづく平和、世の安寧に感謝すると供に、この社会を何時までも・・と思った。

多くの国民が安保関連法を、戦争法(?)と呼んでいますが、

政府は、未然に戦争を防ぐ!と強調している。!?!?

 

高さが駅出発→柴又帝釈天。

            黄色いコースは歩いた順路。
青○はポイント地点

 

特別参加、葛飾FM員のスタッフ取材同行

若き溌溂たるリポーター、皆さん元気を貰う。

放送日は何時かな?、、どんな番組になるだろう?

 



中川を突っ走る水上モウターバイク

 

詳細は、後日たっぷりUPします。

 

 

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店頭さまざま、ウオッチング

2015年09月05日 | 紀  葛飾今昔街歩き(葛飾地図)

 お店にはそれぞれの顔があります


ウオッチングしていたらとても面白い。

店主の気質と言うか、商品の顔と言うのか、見ていて引き込まれます。

 


一目瞭然、ズバリ値段がわかる。
段ボールの箱詰めが、庶民感覚を呼ぶのか、


食べ物は、陳列ケースでないと………。裸電球がうれしいね!     年配の店主


団子の味が、直にズバリ伝わってきます。

しっとりと涼味を誘うお店です。

 

  店頭は、商売の顔(命)です。

 

私のいく  もつ焼き屋さんは、いつも人が一杯。

あまりキレイとは言えなく、何か陰気臭い

だが客がつく

①美味しい、②安い、③早い



この三拍子が、

鬼に金棒のようです。

 

 

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昭和の写真展から その3(完)

2014年09月13日 | 紀  葛飾今昔街歩き(葛飾地図)

平和橋通りに架かる 「平和橋付近」の佇まい

葛飾区は3ッ河川(荒川、中川、江戸川)の流域に発達した低地です。
その河川に架かる橋の昔を3回に分けて振り返ってみました。

当時は木材が主流作られた橋でしたが、
現在は鉄骨やコンクリートが街の景観に彩りを添え
近代的な橋に生まれ変わっています。
 


平和橋の案内、青丸


この写真は、(昭和25年当時)
『葛飾区の昭和史 堀充宏・萩原ちとせ編』からお借りしました

 


今昔を歴然と伝える ↑ の橋と、現代の橋。


高速道路の斜長橋や東京スカイツリーんをバックに・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 



”平和”という2文字が無性に気にかかる。

東京下町は、1945年3月10日未明,300機もの米国の爆撃機B29による無差別爆撃で

東京は「炎の夜となった。
下町地区は全滅に近く,100万人が家を焼け出され,10万人もの生命が絶たれた。

この平和橋を見たり渡ったりすると、
戦争の愚かさ平和の尊さを噛み締めざるを得ません。

戦争」この言葉がある限り人々は、心の中に、争いの欲を持っている。
多くの人を恐怖へ呼び、悲しみを呼ぶ。 

見よ!!
平和橋から眺める『東京スカイツリーの七色の色彩』こそが
戦争で亡くなられた人たちへの鎮魂である。

 

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