お彼岸・墓 参
お彼岸は、ご先祖様や故人を供養し、感謝の気持ちを捧げる
期間 ・お彼岸は春と秋の2回あり、春分の日・秋分の日を中心とする各7日間のことをいう。
22日墓参、多くの参拝客で境内は賑わっていた。
山 門
門前のお言葉
五行歌
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お彼岸・墓 参
お彼岸は、ご先祖様や故人を供養し、感謝の気持ちを捧げる
期間 ・お彼岸は春と秋の2回あり、春分の日・秋分の日を中心とする各7日間のことをいう。
22日墓参、多くの参拝客で境内は賑わっていた。
山 門
門前のお言葉
五行歌
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葛飾奥戸
「八剱神社」境内を歩く
八剱神社を訪問したのは、平日の午後でした。
境内では、近所の高齢者が輪投げで遊んでおりました。
東京の下町地区では、よく見かける光景です。
輪投げに邪魔にならないように、参拝と神社見学をさせて頂きました。
散歩コースなので時たま寄り、神殿の朱塗りの立派なのに感心します。
この場所は、新中川の畔にあり、近隣に古刹・宝蔵院が隣接して在り
緑が多い場所です。
洗心の裏に「招魂石碑」あり
本殿です、朱塗りが輝いています。
朱塗りがお見事~赤。
神社の朱塗りがお見事!!
朱塗りについて調べてみました。
下鴨神社の見事な朱塗り
朱色というのは、古代の言い方で「丹(に)」と言います。これは魔を払う力がある色と
考えられていました。
丹を作るには水銀と硫黄を加工するのですが、この水銀も硫黄も毒性の高い物質です。
その毒をもって魔を除ける、という意味合いがあったようです。
朱色は、丹(に)という色なのです。丹塗りとも言います。
「丹」は鉛に硫黄と硝石を加えて焼いて精製したもの。神社など以外でも橋の
欄干などにも塗られています。
魔よけの意味もありますが、一種の防腐剤という意味もあったわけです。
また、たん 「丹」とも読みます。硫黄と水銀との化合した赤土です。
①、 硫黄と水銀との化合した赤土。また、その色。辰砂(しんしゃ)。
②、 鉛に硫黄と硝石を加えて焼いて作ったもの。鉛の酸化物。
黄色をおびた赤色で絵の具や薬用とする。
③、 薬のこと。特に不老不死の薬。中国の秦の皇帝が求めた。
(リス見集成材から引用)
江戸川・善養寺境内を散策
先日菊花展で、此処善養寺を訪れた。
沢山の見事な菊の花を見ることが出来ました。
折角の機会なので境内をぐるりと一周、目に入った建物を撮りました。
「善養寺案内地図」を付けました、番号・地図を参照しながらご覧ください。
此処には、境内の庭を覆い尽くすような、「影向の松」が見事な枝ぶりで、
菊花展を見つめていました。
善養寺案内配置図
①本堂 ②不動堂 ③天明三年浅間山噴火横死者供養碑 ④新四国八十八カ所霊場
不動門
客 殿
客殿と菊花展の会場、高台からの眺め
① 本堂
②不動堂
⑨影向のマツ
⑧鐘楼堂・梵鐘
④新四国八十八カ所霊場
仁王門
影向松 繁茂面積 日本一
枯れかかりしや 清酒飲み干す (縄)
樹齢600年、繁茂面積日本一といわれる「影向の松」があるお寺として知られています。
松葉が黄色くなり枯れかかりましたが、関係者のご努力により息を吹き返した。
此れには、裏話しあり、たくさんの清酒を地下に注ぎ、養生に努めたそうです。
此処境内を訪れる度に根元に、酒の瓶を見かけました。
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奥戸天祖神社・〆縄神事
10/14(土)15(日)奥戸天祖神社 例祭が開催、
大しめ縄神事が行われた。
体調の関係で、見学するすることができませんでした。
2012年の画像 がりますので見てください。
入口に掲げられた看板
本殿横の大切り株
力 石
裏から見た天祖神社
今日の一言
=〆縄の神事=
しめ縄は、神様が降りた神聖な場所を示すもの。
これが張ってあるところには、不浄のものや悪霊は入れないとされていて、一種の防御壁・魔除けの役割も果たしている。
しめ縄を張る場所は門口や玄関に限らず、竈や水道の蛇口(古くは井戸)などさまざまで、家の周囲をしめ縄で囲う地方もある。
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ベッドで休んでいると、北側の窓から
神輿を担ぐ「ワッショイ」の声、聞こえ来る
・・・・~窓を開けて眺める
北側の窓を秋の風が入るように開けて、ベットで休んでいた。
正午を回った頃、窓辺から何やら「ワッショイ~ワッショイ・・・」の声が入ってきた。
窓を開け眼下を見るとバス通りを、子供神輿・大人神輿が通り過ぎ様・・・としていた。
そう言えば、9/30、10/1は「細田神社大祭」の案内が紙面で舞い込んでいた。
退院後間もないのでベットに横たわってTV見ていたが、
祭りの神輿を見て思わぬ元気を頂いた。
◎ 休みをり 我が家の裏を 神輿かな
秋さやけきし 祭り行列 (縄)
北側の窓を開け、ベランダから見た神輿の様子
賑やかに 祭礼神輿 元気かな (縄)
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細田神社例大祭
令和5年奉納演芸大会(歌・お踊り)開催
9月29日(金)、午後6時あら、細田神社境内において行われる。
役員さんたちが町会の通りに、ご覧のような御祭禮の旗を立て並べて、祭り気分を
盛り上げていた。
今年は、「細田かんらん音頭」発祥の地として、歌手(山口かおりさん)が
お披露目なさるそうです。
例大祭を盛り上げる為の幟旗が各通りに旗めく
ラジオ体操の公園にも
各通りに旗めき、祭りを盛り上げています。
細田のメイン道路バス通りにも…
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梵鐘(松浦「まつら」の鐘「かね」)
水元公園の外周道路の高台に在る
◎ 松浦(まつら)をの鐘は鳴らぬやいにしえの
廃仏毀釈廃寺のもの (縄)
◎ 梵鐘や四本の柱ぶら下り
為さぬ鐘なり歴史の重み (縄)
松浦の鐘のある場所は、水元公園を取り巻く外周道路の高台に在ります。
下図⇩地図を参照ください。
所 在 地 葛飾区東金町5丁目5番地先
指定年月日 昭和52年(1977)3月19日
旧下小合村の領主、長崎奉行や勘定奉行に任ぜられた松浦河内守信正(1693~1769)です。晩年は
下小合村に隠居し、菩提寺である龍蔵寺に葬られました。
この梵鐘は、信正が宝暦7年(1757)に小合村の龍蔵寺に奉納したおのです。作者は下野佐野の鋳
物師利右衛門で、総高121.4㎝・口径68.5㎝、中央部4か所に梵字があります。さらに明和6年
(1769)5月信正の没後に、遠江国宝泉寺住職勝東州撰の銘文が追刻されました。明治期の廃仏毀
釈で、龍蔵寺が廃寺になると、鐘は村有となり水害や非常の際に用いられました。
なお、信正が生前に自ら造立した墓塔は円盤状で、今は青戸の宝持院に移されています。
葛飾区教育委員会
松浦の鐘前案内板より
松浦の鐘
梵 鐘
外周道路には「菖蒲まつり」の提灯です。
水元公園はとにかく広い!!
松浦の鐘の付近から、水元公園・小合溜めの眺め~広い!!
水元公園の面積は、
東京デズニイランドの2倍の面積と広い!!
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怒りは無知!!
なるほど!!
戦いは破滅・・~よく分かります。
(ロシアが2022年2月、ウクライナへの軍事侵攻。
戦禍を見るに忍びない痛々しい破壊である)
悲しみは修行・・悲しみが消え去るであろうか。
(そう思いながら寺の門を潜りました。)
寺の教え
山 門
松の枝ぶり
山門から入ると直に本堂です。
昨年に、この寺に「永遠の住処」を買い求めました。
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法話の言葉
散歩に出掛けました。
宗念寺の門前を通りかかると、ご覧のような言葉が有りました。
念仏とは称えるものではなく、聞くものです。仏の声を聞くのです。
内 容
念仏は称えることが目的ではありません。称えることにより仏さまの声を聞くのです.
「必ず救う、マカセヨ」「決して見捨てない」「そのままでいい」「必ずお浄土へ連れて
帰る」といつもよび続けている仏さまの声を聞くのです。
聞こえない人は自分で称えてください。どんな耳の遠い人でも聞こえます。苦悩の有情を
必ず救うという仏の願いが、み名となり、声となり、私たちの口から出るように仕上げて
くださっているのです。
自分が称えているつもりが、実際は仏さまが私の口から出てくださっているのです。
「み仏のみ名をよぶわが声は、わが声ながら尊とかりけり」です。
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帝釈天境内散策と参拝
門松「松納」の後、散策と参拝をしました。
参拝客でにぎわっていた。
破魔矢、お札売り場
線香のお焚上げ
二天門【1896、明治29年】・帝釈天読経時の格式を示す門
明治29年(1896年)の建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で、屋根には唐破風と
千鳥破風を付す。柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻を施す。
初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来する。
二天像は平安時代の作とされ、門の建立時に同じ日蓮宗の妙国寺(大阪府堺市)から寄贈
されたものである。
本堂前は工事中で、板で仕切られていました。&瑞龍の松
瑞龍の松と帝釈堂 画像ネットより借用
帝釈堂。拝殿と奥の内殿から成る大きなお堂です。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、
これが「柴又帝釈天」として多くの信仰を集めるようになりました。
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