花と朽ちた休憩処
休む人は居ないようです
椅子が朽ちています
お知らせ
いつもお訪ねくださいまして有り難うございます。
しばらくの間、お休みさせていただきます。
またオープンした時はよろしくお付き合いのほど
お願いします。
花と朽ちた休憩処
休む人は居ないようです
椅子が朽ちています
お知らせ
いつもお訪ねくださいまして有り難うございます。
しばらくの間、お休みさせていただきます。
またオープンした時はよろしくお付き合いのほど
お願いします。
電気の積算が怖い
夏が暑い、ではなく、
暑い夏が本格化。・・・残暑
うだるような日差しの中、Y夫が一言。
「きょうも、 猛超日? 」
「猛暑日」は日常茶飯事。
熊谷、館林、佐野、練馬・・・と日本各地を日めくり的に変わる最高気温の場所。
電気代が怖い
アパート共用部分と我が家の積算計
3台がフル回転、このクーラーという奴が
電気代の源起なのであろう
便利なものはお金が掛かる・・・サノヨイヨイ
クーラーに扇風機も併用して
エレベーターも馬鹿にならない
サァ~Y夫がどんな顔をして
8月分の電気代請求書をながめるであろう・・・。
やっぱり暑い顔になるだろう。
☆ 暑いなぁ~ 男は黙って サッポロビール
雨にも負けず疲れにめげず
元気
影信山山頂標識
雨にもメゲズ一休み
ガスの山道に感嘆の声
上り口で滝行も
≪疲れを知らない子供のように・・・≫という文言がある。
先に成ったり後になったり、雨上がりの山路を
一歩一歩下った。
幻想的な杉木立のガスに見とれていた。
小仏峠
昔の面影を残す石垣、甲州道
明治天皇山梨県に行幸された
ときのお休み所の碑
峠にある案内板
江戸時代には旧甲州街道のルートに指定されて交通の要所となり、小仏関が置かれた。しかし勾配が急で車道化が困難であったため、1888年(明治21年)に当時の現在の国道20号線、大垂水峠(オオタルミトウゲ)を経由するルートへ変更された。これによって小仏峠を通る通行者は激減した。一方、地形的にほぼ東西に直線的に貫いていることから、直線的なルートが望まれる中央自動車道とJR中央線は、小仏峠の北側の山をトンネルによって貫いて造られた。
現在は周辺の山々を巡るハイキングコースの要衝となっており、訪れる観光客は多く、通行止区間の近くまでバスも運行されている。峠にはかつて茶店があったが、営業休止中で廃屋と化している。
明治天皇、山梨巡幸の際に作られた、「明治天皇小佛峠御小休所阯及御野立所」の碑などがある。「ウイキペディア・プリ百科辞典≫より
裏高尾を眼下に
180度の展望
中央高速付近裏高尾が眼下に
杉林を切り開く
杉の立木を切り開いて180度の展望
吹き上がる風、下界を見下ろす爽快感、
尾根を元気に歩む親子をフアインダーの中にジーット見つめた。
8月15日・65回終戦記念日。
生きていることのすばらしさ
生かされていることの尊さをかみ締めて
これからの日々を送っていきたい。
え日記の材料
爺・婆、息子、孫3人&友達 の7人
車に7人乗り込んで一路、高尾山山麓までgo
影信山へのハァミリー登山と相成った。
家族の輪&友達の話、山登り開始
高尾山、影信山へ方面に進路を取る
最初は元気良くさっそうと・・・・
中学生2人が話合いながら、幼稚園生と小学生が先頭を行く
疲れを知らない子供たち
ホトバシル岩清水で喉を潤す幼稚園生
小仏峠にて小休止
孫たちに・・・「ここは江戸の昔、江戸(東京)から甲斐(山梨)
に越す峠でした。
多くの人たちがこの峠を行き来した・・・・」とひとクサレ。
中学生友達の輪
影信山山頂で昼食
孫たちのお母さんがたくさん大きなオニギリを作った。
皆さん美味しそうに腹いっぱい食べた。
ぶどうも、カラ揚げもみんな美味しかった。
山でお腹をすかして食べるとgoodとてもとても美味しい。
もりもりと食べました。
平日でベンチはすいていました。
影信山標識
通り雨
食事してサァ・・・~下山しよう~とすると雨。
山小屋の軒下や、休憩所でしばし雨宿り・・・・まもなくやみました。
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今日のメモ
無理しない登山を計画した。
中学生には若干物足りないか?幼稚園生にはややきつキツイか・・・反省した。
・・・・が、こんなもんかしらと、老夫婦でほくそ笑んだ。
また連れてって・・・の言葉に気をよくした
爺・婆は今度はいつになるだろうと顔を見合わせた。
朝の花はシャントしていた
朝の花はことのほかキリリとしている。
太陽が出てくると、どことなく下向き加減となります。
野菜の朝取りはみずみずしいと言われます。
ナスやキュウリ・トマト・・・・・等は艶があり
水分がはち切れんばかりです。
朝の花は綺麗です。
銃後の守り
東京・九段≪昭和館≫に行ってきました
戦後65周年記念特別展
≪銃後の人々と、その戦後≫
東京九段・昭和館
パンフレット
時間をかけて一巡しましたが銃後の守りと言葉では簡単ですが辛酸をなめた
地を這うような様々なお話に接し胸を熱くしました。
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以後は私の従兄弟に当たる物語です。
自費出版された《野のすみれ》
右写真の文言
残された銃後の妻と
なる日近く
征かせともなき
夫に寄り添う
昭和17年11月
《野のすみれ=短歌集》
『あとがき』の中から抜粋しました。
私たちは、・・・・・・・・・・・・・・・恋愛結婚ではありませ。。
ちなみに、結納は百円でした。日雇い賃金が1日50銭の当時、よそのお嫁さんにすれば
大変高い相場であったようです。
世の中すべてが戦争一色、
新婚の甘さもみじんもなく結婚後53日で夫は入営しました。
北風の吹く甲府練兵場における一刻の面会を最後に外地へ出征、
北支派遣○○部隊の軍事郵便が届いたのはずっと後でした。
それから満3ケ年あまり、文字通り銃後の花嫁、
言葉はロマンチックですが、祖父母、父、(弟は翌年入営・・のちに戦士の公報)
大人ばかりの中で働き、時々届く軍事郵便を楽しみに、いつ帰るかもわからなぬ
戦地の夫の武運を祈るのみの毎日でした。
やがて終戦となりましたものの、以前にもまして音信不通と焦燥の連続でした。
その年の12月半ば、幸運にも突然復員してまいりました。
忘れもしない冬の満月煌々と明るい夜でした。
☆3年を相見ず居利手復員の復員の夫に抱かれき初夜の如くに
☆再婚を施与との遺書を身につけて夫は戦闘をかせねしという
等々の歌でごますざい。
戦地で受けた自動車事故の怪我、マラリヤの後遺症、その上ひどい栄養失調、
とてもすぐには仕事が出来る状態ではなかったです。
終わり
復員(20年12月14日)短歌
○大家族の農家にと継ぎて日も浅きわれを残して夫出征す
○戦いも終わりて秋もたけ行くに夫の便りとざえて久し
○師走半ば月照る夜を突然に復員の夫挙手の礼する
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
現在は子供さん3人、多くの孫に恵まれ幸せな生活を送られています。
ご夫婦共々歌を詠み、
町の生涯学習講師として老後を過ごされておられます
紫蘇ジュースを作りました
菜園にブロッコリー苗の植え付けに行った。
赤紫蘇がたくさんあったので切り取ってきました。
blogerのヒキノさんに触発され作りました。
☆生活習慣病、風邪、食中毒予防、アレルギー体質、肥満や老化予防
とのことです。
材料:水 ・・・2リットル
紫蘇・・・350g
砂糖・・・1kg
クエン酸・・・20g
(薬局で購入しました)
畑の赤紫蘇
大きめのなべで紫蘇を煮る
煮出した赤紫蘇
赤紫蘇ジュウスの基(煮出し汁)
砂糖 クエン酸
砂糖とクエン酸を加えた赤紫蘇ジュウス
作り方です
①大きめの鍋に水と紫蘇を入れる。
紫蘇をゆでる。、
②沸騰をしてしばらく煮たら紫蘇を引き上げる。
(もしくは、ざるなどでこす)
③そのまま火にかけ砂糖を入れ、かき混ぜ溶かす。
④クエン酸を入れ、かき混ぜ溶かす。
(クエン酸を入れると色が赤くなります)
⑤とけたら火を止める。
⑥冷やして出来上がり。
⑦お好みに応じて、薄めたり、酸味を加えてどうぞ。
⑧冷蔵庫に入れて保存しています
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なかなかよく出来ました。焼酎で割って呑みます。紫蘇の香りがぷーんとします。 |
日本銀行地下金庫見学
日本のお金は日本経済の信用と信頼によって成り立ち、
日本銀行の使命は、物価の安定・経済の発展・金融システムの安定だそうです。
学んできました。
ちなみに紙幣の原価は、
原紙代+印刷代+人件費ですがそれで計算すると、一万円札で約19円。
千円札で約16円だそうです
日本銀行本店は現在、旧館、新館、分館の3つの建物から構成されています。
この建物は旧館です。
このうち、旧館は現在の日本銀行の建物の中でもっとも古く、
明治29年に完成しました。現在使われていません(見学)。
明治中期の西洋式建築物としては、
東京・赤坂の迎賓館とならぶ傑作といわれており、
国の重要文化財にも指定されています
中庭の様子
明治の有名な建築家、辰野金吾博士の設計です。
博士は、赤レンガ造りの東京駅なども設計しています
中庭の馬寄せ場
むかし日本銀行にくる人は馬車で来た。
その馬をつないで水を飲ませた場所です。
日銀のお土産
古くなって疲れた紙幣を刻んだものです
内部は写真撮影禁止です。
≪日本銀行バーチャル見学ツアー≫でご覧ください。
地下金庫の様子が詳しく載っています。
扉だけで25トンだそうです。
驚き・・・・。