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日々是好日・スローライフ(寅さんの柴又から発信)

・日常・創る・彩る・考え・綴る
・フジノ会・探検団・かめの会(俳句)
・家庭菜園 ・ めばえ・成長・収獲

むかしの遊び歌

2023年04月27日 | 文学  民話&伝説&昔ばなし

小学生当時のわらべ歌
ベンチに懐かしき詩

 

近くの「東用水せせらぎ通り」に設置されている

ベンチに、童謡の詩が書いてある。

↓ に「カゴメ」の詩が有りますが、調べてみたら、

遊女(籠の中の鳥)の悲哀を表した歌と聞いてビックリコンでした。

浅草覚吽院に住した修験僧行智の詠んだ詩という事で

「浅草の吉原・遊郭」と結びつき合点です。

 

一番茶の新茶は4月上旬から5月中旬頃に製造されます。
一番茶が終了すると、刈り取った茶園からまた新たに芽が出てきます。
これが二番茶で、一番茶の刈り取りが始まってから45日後位にに出てきます。
1番茶 ➡ 1芯双葉(1つの芯幼葉2葉)

▲ 指先を茶渋に染めて一番茶 (縄)

   ▲ 朝のまだ残りし里の茶摘み声 (縄)

       ▲ 茶摘み籠きれいに洗い新茶摘む (縄)

       (むかしの田舎時代の茶摘みを回顧し、詠んでみました。
        秩父地方の畑の周りには、茶株が必ず植えてあった。
        畑の肥料が流失し茶株が良く育った)

 

あんたがたどこさの遊び
むかしを思い出しながら、遊びに浸かってください。

遊び方 

 

発 祥 地

歌詞に熊本の地名が出てくることから、
この歌の発祥の地は熊本県であるというのが通説になっています。

しかし、昔からこの説には多くの異論が唱えられてきました。
その中でも「『あんたがたどこさ』発祥の地は埼玉県川越市である」という説は、
最も有力視されています。

 

「あんたがたどこさ」を関東地方の童謡とする資料・研究が多方面からなされている。
実際、唄われている歌詞は熊本弁ではなく完全な関東方言である、と古くから研究者の指摘が多い。

この童歌の発祥地は、武蔵国川越藩(埼玉県川越市)とする説である

太田信一郎『童謡を訪ねて』によると戊辰戦争に出兵した熊本人が、川越市の仙波山に駐屯した際の

現地の子供たちとのやりとりが元になっているという。仙波山とは仙波古墳群のある周辺一帯の
別名である(熊本には船場川はあっても船場山や仙波山という地はない)。
                                (wikipediaから出典)

 

江戸の色町 遊女と吉原の歴史 ―江戸文化から見た吉原と遊女の ...

かごめかごめ
  籠の中の鳥は
  いついつ出やる
  夜明けの晩に
    鶴と亀が滑った
      後ろの正面だあれ

 

一日中(夜明けの晩に)男性の相手をさせられ(鶴と亀が滑った)、
いつここから抜け出せるのだろう(いついつ出やる)と
嘆いているうちにもう次の相手の顔(後ろの正面だあれ)が見え隠れしている、
という自由のない遊女(籠の中の鳥)の悲哀を表した詩である。

 

江戸中期の『かごめかごめ』

『かごめかごめ』の原型・原曲が確認できる最も古い現存の文献は、
1820年頃に編纂された「竹堂随筆(浅草覚吽院に住した修験僧行智の編んだ童謡集である)」
という童謡集とされている。

 

 

げんこつやまのたぬきさん
    おっぱいのんで
ねんねして 
    だっこしておんぶして 
 またあした

『げんこつやまのたぬきさん』は、日本童謡の・わらべ歌。

後にNHK「おかあさんといっしょ」(1970年)で新たに歌詞とメロディーが追加された。

NHK版の作詞者は、『おはなしゆびさん』で知られる

児童文学・絵本作家、詩人の香山 美子/1928-)

                      (カゴメ&げんこつ山の狸さんのは、WEBから出典)

 

                          

 

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2023・兎年

2023年01月06日 | 文学  民話&伝説&昔ばなし

中学時代に習ったイソップ物語(英語版)

 

今年は「兎に角」卯年です。

”フト”思い出したのが、イソップ物語の英語版でした。

中学生になると英語の教科書が加わった。『jack and  betei』でした。

New Jack and Betty English step by step 1st Step(萩原恭平 ...
jack and  betei教科書

英語の英の字を覚え、単語も相当覚え中学3年になり

教科書を半分以上進んだ時、先生が「イソップ物語・英語版」(副読本)

を示して、此れはやさしくて勉強になります、教壇の上から皆に見せた。

それから1ケ月ほどして先生の斡旋で各自が求めた。

求めたのが中学三年生の中頃で、物語2つほ勉強し卒業に相成った。

「イソップ物語・英語版」は、お蔵入りとなった。

 

ウサギとカメ <福娘童話集 きょうのイソップ童話>

 

ウサギとカメ
The Hare and the Tortoise

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(イソップどうわ)
(Aesop’s Fables)

 カメ の あし が おそい のを、ウサギ が バカ に して わらい ました。
 A hare was making fun of the tortoise for being so slow.

「あなた は あし が はやく ても、わたし の ほう が かち ますよ」
“I will win a race even if you can ran faster than me.”

と、カメ が いい ました。
 The tortoise said to the hare.

 すると、ウサギ は、
 Then the hare answered.

「そんな こと を いったって、くちさき だけだ。では、きょうそう しよう? そうすれば、わかる」と、いい、
“I know you are all bark and no bite. Why don’t we have a race? We will find out who is faster soon.”

「だれ が ばしょ を きめて、かった もの に ごほうび を だす の ですか?」
“Who will decide the course and who will reward the winner?”

と、カメ は いい ました。
 The tortoise asked.

「キツネ が こうへい で りこう だから、あれ に たのもう」

と、ウサギ は いい ました。 

 そこで キツネ が、きょうそう を はじめる あいず を しました。

 たちまち、あし の はやい ウサギ が カメ を ひきはなし ました。

 しかし、カメ は あきらめず に、やすまず あるき つづけ ました。 

 ウサギ は あし が はやい と おもって あんしん している ものですから、とちゅう で
おおきな き を みつける と、その こかげ で ひとやすみ しました。

ウサギとカメ イソップ物語 <福娘童話集 世界の有名な話>

 それから しばらくして、ウサギ は おきあがり ました。 

「あれ? すこし ねむって しまったか。・・・まあいい、どうせ カメ は まだ
うしろ に いるはず。あぁーあ」


 ウサギ は おおきく のび を すると、そのまま ゴール に むかい ました。

「よーし、もうすぐ ゴール だ・・・と、・・・あれ?」

 じぶん が かった と おもって いた のに、なんと カメ が さき に ゴール して
いた の です。


 さいのう は あって も、いいかげん に やっていて だめ に なる ひと は
たくさん います。


 また、さいのう は なくても、まじめ で しんぼうづよい ひと は、さいのう が
ある ひと に かつ こと も ある の です。

.

おしまい
The end

 

 

ワンポイント アドバイス

① 能力があっても、油断すると逃がしてしまいます。
nemesis

 油断大敵」(ゆだんたいてき)の意味

       ② 能力が低くても、続けて努力すれば勝利をもたらす 
       effort       
奮闘努力」(ふんとうどりょく)の意味

 

▲ ふり返る「うさぎとかめや」イソップの
              「油断大敵」「努力すること」 (縄)

人間の下り坂を転がる様にしている歳ですが、昔を振り返ると思いで一杯
懐かしいことが走馬灯のごとく蘇る。



 

 

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日経新聞、連載小説「みちくさ先生」

2020年12月25日 | 文学  民話&伝説&昔ばなし

その筋の
図書館から借りてきたり、
         本棚から引っ張り出して

 

 

 

日経新聞朝刊の小説は、伊集院 静「みちくさ先生」です。

夏目漱石・正岡子規は学生時代からの仲の良いポン友で、東大の学生の頃から付き合いから書かれています。

漱石は四国や熊本の先生時代、子規の句会となどが克明に書き記され、そこに時々き寺田虎彦がひょっこり顔を出す。

作家・伊集院氏は体調を崩し連載を一時休止していたが、復調し再度登場です。

新聞小説の影響で、その筋の本を棚から取り出したり、図書館から借りてきました。


文豪夏目漱石は「漱石展」の時買い求めた。
「句あれば楽あり」読者を飽きさせない、小沢昭一的の本でした。


「ここは牛込神楽坂」月刊誌、神楽坂周辺を詳細に記してある。
「ノボさん」は、連載小説「みちくさ先生」の原点であろう・・・。

小沢昭一著「苦あれば楽あり」を面白く読ませてもらいました。

句会の参加の様子を、”小沢昭一的な心”で書き綴り、永六輔、江国滋、柳谷小三治、和田誠、渥美清、富士真奈美等
その筋の蒼々たるメンバーを擁した句会でした。

  「ここは牛込神楽坂」を読み進むと夏目漱石の関係した文学的要素がふんだん取り入れられ、しかも生誕地で
「漱石山房」が有り、是非訪れて感触を確かめたいと思っています。

 

 

 

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お越しくださって有難うございます。

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囲炉裏端のある生活

2019年04月06日 | 文学  民話&伝説&昔ばなし

秩父地方
昭和は遠くなりにけり、夜の一家団らん

民家園&故郷コラボ

 

 

 

 じろばたと木尻のある風景

 世田谷の民家園を訪ね煙を見ていたらふと思い出した。

 

 


 秩父地方の夜の一家団らんの遊び
黄色い〇 子供が曲げた小枝を回す、  おばあちゃんの方を小枝が向いた 

 

           秩父地方の言葉 

             じろばた
          
          
 ♬べろっこ かあらっこ
            誰が屁(へ~)を放った
            ひったほうへつんむけ

 

  農家では夕飯がすむと一家団らん、じろばた『囲炉裏端』で夜の一時を過ごした。木尻のボヤの中から小枝を取り出して、先端を直角に曲げ両手で挟んで歌いながらボヤを回す。唄い終わったときに小枝の先端が、向いた誰か方の誰かさんが、
おなら(屁へ~)を放ったという遊びである。その時唄う歌が先の4行歌です。

        じろばた  ➡囲炉裏端のこと
       木尻   ➡薪を入れて置く箱のこと。
       ボヤ   ➡雑木の枝をそろえて燃料用に束ねたもの。

 

 

 

コメ欄開けています。

 

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ふるさと吉田の民話と伝説

2016年10月29日 | 文学  民話&伝説&昔ばなし

四っ保の大蛇(伝説)

 

 

                             むかし、むかしのこと

                             寄っ保に住む一人の男が、四っ保沢へ草刈りに出かけたんだ

                             この日は、5月5日で端午の節句の日でした

                             男が草を刈っているうちに

                            まちがって大きな木の根っこに

                            草刈鎌をつきさしてしまいました

                           すると、草むらから大きな大きな大きな大蛇がヌッつと頭をもたげて

                            男をにらめつけた

 

                             木の根っこかと思ったのは、大蛇の胴だったんだ

                             さあたいへん、男は逃げるんだが大蛇はどこまでも追いかけてくる

                             ヤットのことで家に逃げ込んだ

                             戸をしめ切って、すきまから覗いてみると

                            大蛇は、庭に立てておいた節句ののぼりに巻き付いて

                            柱を引き倒している

                            一本倒してやまた一本

                           四っ保の里ののぼりをみんな倒してしまい

                           地響きをしながら山へ帰って行ったんだ


坂上から四っ保の里を見る

 

                            あくる年、五月の節句ののぼりを立てると

                            去年の大蛇がやってきて、

                            また柱をみんな倒してしまう

                            それから四っ保の里では

                            節句でも、のぼりを立てなくなったんだと

(おわり)

 
四っ保の耕地

 

 

 

ここ、四っ保は、私が育った隣です。
学校の行きかえり、遊び友達にこの地区の方が居た。

本箱の片隅にあった冊子を、思い出に更けながら読み返している。
そういえば、節句ののぼりを見たことがなかった・・・・・!?

著者の竹内弥太郎氏は、小学校の先生でした。
現在は俳句の選者として活躍されています。 

大変お世話になった恩師です。

(コメ欄は閉めています)

 

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葛飾むかし話,現地を訪ねる、 第6話

2016年09月07日 | 文学  民話&伝説&昔ばなし

柴又参道の「帝釈さまの草だんご」

 

  


皆さんは、柴又のたいしゃく様に行ったことがありますか。

庚申の日には、遠くからお参りに来る人でにぎわいます。帰りには参道で売っている、名物だダンゴを買って帰るのが楽しみで、団子やさんは大繁盛だそうです。

皆さんもヨモギの香りがする、あのおいしい草団子を食べたことがあるでしょう。

どうして草団子が、帝釈さまの参道で、売られるようになったか、むかしむかしのお話です。

帝釈様は、題経寺とも呼ばれ、その昔、この寺の何代目かに、情けの深い住職さんが、
よその寺からやってきました。その時、住職さんに仕えていた老夫婦も、
後を慕って一緒にやってきました。

住職さんは、とりあえず、この老夫婦を引き取ることにしました。

さてこの寺には、昔から、、行事の日やお客様があるときは、草団子を出す習わしがありました。
草だんごはその都度、近所の農家に頼んで作ってもらっていましたが、
それからは、老夫婦に寺で、すべて作ってもらうことにしました。

 

この老夫婦は『仁さん』と「糸さん」と呼ばれていました。

仁さんは、毎日、江戸川にヨモギを取りに行き、糸さんは、手ぎわよく団子の下ごしらえをしました。
お客様があるたびに、二人は力を合わせて、おいしい草団子つくりに励み、
黄な粉をつけてお客さんにふるまいました。


 
           ヨモギ        江戸川土手

こうして二人は、一生懸命に、住職さんに仕えている間に、2~3年の月日が流れました。

二人はお経も覚え、熱心な信者となり、毎日、感謝のお題目を唱えながら、草団子を作りに励みました。

こうして、誰もからも、帝釈さまの草だんごは美味しいと大評判になり、遠くの村や町まで、知れ渡っていきました。

お参りに来た人たちも、寺でごちそうになり、あまりにも美味しさに、お土産として何人分も注文し、持って帰るようになりました。

そうなると二人でいくら頑張っても、間に合わなくなって、住職さんにお願いして、寺のそばに家を建ててもらい、
女の人を雇って3人で作るようになり、ますます繁盛しました。

この老夫婦は、130年ほど前に亡くなりましたが、雇っていた女の人が、
のちに、草団子に、アンを添えて売り出し、今に伝えたということです。

まだ食べたことのない人は、ぜひ一度食べてみてください。
その昔の老夫婦が作った草団子の味が、そのまま伝わってきます。

 

 

柴又草団子の、一巻詠み切り。 

 

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葛飾むかし話,現地を訪ねる、 第5話

2016年08月29日 | 文学  民話&伝説&昔ばなし

しばられ地蔵=物語
東水元の南蔵院

 

 

 

  東水元のお地蔵さんが、荒縄でぐるぐる巻かれしばられているのは、どうしてか知っていますか。

それはまだ、東京が江戸と呼ばれ、南蔵院が、本所の業平橋に有った時です。

  ある夏の昼過ぎ、日本橋の呉服問屋の、手代佐助(テダイサスケ)が、荷車に反物をたくさん積んで、
汗をだらだら流しながら、南蔵院の前を通りかかりました。

               

  大きな銀杏の木があって、その木がとても涼しそうだったので、佐助は荷車を止め、門前のお地蔵様に、
「お地蔵様、少し休ませていただきます」

と言って、となりの石の上に腰をおろしました。
涼しい風が吹いて来て、とてもいい気持になってしまいました。

そのうち、うとうとと眠ってしまいました。
目が覚めると、さぁ…・大変、荷車が有りません。
「お店の大事な反物が、盗まれました」
佐助は、青くなって番署にかけこみました。

  そこで、南町奉行の名奉行大岡越前守忠助が、佐助に尋ねました。
「此れ、佐助、反物を見て盗まれたものと、他のものとの見分けがつくか」
「ハイ、お奉行様、分かります」

「お前が地蔵のとなりで休んでいる間、誰もいなかったか?」
「だれも、おっりませんでした」
「ウム、反物が盗まれるのを、黙って見ているとは、地蔵も同罪じゃ。地蔵をとらえて、逃げっれないように、
縄をっかけて、つれてっ参れ」

と役人に言いつけられた。

  役人たちは、お地蔵さまを縄でぐるぐる巻きにして、荷車に乗せ、ガラガラとひっぱって行きました。

それを見た町の人たたちは、ビックリ。

 「おい、地蔵を縄でふんじばって、いってぇどうしたんだい!?」
 「ああ。なんでも地蔵さんが、盗みをはたらいたんだそうだ」

 「やいやい、ばかなことを言うな」
と、江戸のまちは、大変なさわぎになりました。

やがてお奉行様が、お地蔵さまを取り調べという立て札が、江戸の町のあちこちに、立て札が立てられた。

  さて、その日が、いよいよやって来ました。

町の人達は、いったいどんな取り調べが始まるのだろうと、奉行所の中へ押しかけた。

お白州(シラス)には、お地蔵さまが、ぐるぐる巻きにされ、立たされて、おりました。

 お奉行様は、お出ましになり、門を閉めさせました。

そして、集まった町の人達をぐるりと見回して、

「黙って、さばきの場に入るとは、けしからん罰として反物1反ずつ持って参れ」
と、言いつけた。

その日のうちに、奉行所には、反物が山と積まれました。

あつまった反物を、佐助に調べさせると、その中から盗まれた反物が出てきました。

その反物が、きっかけとなって江戸の町を荒らしまわった、大泥棒一味が見つかり、一人残らず捕えられました。

この裁きによって、名奉行大岡越前守と“しばられ地蔵”の名は、江戸の町にとどろき知れ渡りました。

それからというものは、お地蔵さまを荒縄で縛ると、盗まれたものが出てくるようになり、頭のてっぺんから

つま先まで、荒縄で縛られた気の毒な姿になったということです。

願い事が有ると、町民たちはお地蔵さんを縄でしばったと言うお話です。

 ←クリック拡大

 

しばられ地蔵  2011年10月に訪れたとき

 

物語は、関東大震災にさかのぼり・・・・・・・・
しばられ縁起の大筋が記されています。
 ⇣ ⇣ ⇣
葛飾区・南蔵院縁起 

 

 

 

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葛飾むかし話,現地を訪ねる、 第4話

2016年08月22日 | 文学  民話&伝説&昔ばなし

             矢切りの怪談=物語  

                                  

                

  むかし、ある男が、矢切りの当たりの江戸川で、毎晩投げ網で魚をとっては、街に売りに行き、暮らしていました。

ある晩、いつものように、川に舟を浮かべて、網を投げ続けていましたが、どういうわけか、この日に限って、雑魚一匹も掛りません。

そうこうしっているうちに、日はとっぷりと暮れてしまい、気が付いた時は一寸先も見えないほど暗くなっていました。

              

そのうえなまぐさい風がふきはじめ、きゅうにぞくぞくと寒気がして来て、着物も水に浸かったようにずっしりと重くなりました。何とも言えない不気味な気配に包まれました。

そして人のうめき声に交じって、泣き叫ぶような声が聞こえてきました。

男は恐ろしさに、全身に冷汗が走り、体中の力が奪われて、舟の上にへたり込んでしまいました。

  しばらくして男は気を取り直し、無我夢中で岸にたどり着き、這うようにして我が家にたどり着くなり、そこで気を失ってしまいました

おかみさんは、物音に驚いて、起きだしてみると、真っ青な顔で、目のうつろな顔色で、息のたえだえの夫を見つけました。

慌てて抱き起こし、酒を飲ませて火をたいて身体を温めてやると、夫もやっと気が付きました。

そしてふるえる手で、

「ここ・・・・・・・・、ここ・・・・・・・・・・。」

と胸のあたりを指さしました。

  おかみさんが覗いてみると、大きな蛇が、胸にぐるぐると巻き付いているでは有りませんか。かま首をもたげて、いまにも飛びかかろうとしているのでした。

            

おどろいたおかみさんは、急いで奉書紙に”おはぐろ”をたっぷりしみこませて、蛇の首をしっかりとつかまえて引っ張ると、蛇はばらばらと四方に飛び散ってしまいました。

←江戸川

   戦国時代、矢切りのあたりは、里見氏の家臣でや、お姫様、それにお付きの人達が、敵の目を逃れて、逃げてきた所だったのです。

道に迷い、一夜を泣き明かし、朝になるのを待って、固くに手をつないで、江戸川に次々と飛び込んで死んでいったのです。

この人達の怨念が、蛇となって矢切りの川を荒らすものに取りつき、この場所を守ろうとしたのではないでしょうか・・・・・・・・・・。

 

         ←里見公園の泣き石
 この石には古戦場にまつわる悲しい伝説があります。
 石棺の中の人である里見広次さんは、1564年の合戦で戦死しました。この時、十二、三歳になる広次の娘が亡き父を慕ってこの地にやってきましたが、合戦場の悲惨な有り様にショックを受けて、この石にもたれて泣き続けるうちに死んでしまったというんです

http://blog.goo.ne.jp/tsyouji5243_001/e/88e4b2a3faceb0ef6af0cdc15130c3fd

                                物語  終り

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

注1、”おはぐろ”とは、むかし結婚すると女の人が歯にぬったもの。

注2、地名については、戦国時代に起きた国府台合戦里見方が矢が切れ負けたことから「やきれ」→「やきり」→「やぎり」となった説があるほか、矢の飛び交うことことを嫌い、矢を切る。(矢はもういらない)という説もある。

おことわり
 物語の現場は、よくわかりません。
縄文人は、荒川の源流から都へ、筏で?下った来た者です。
しかし、ここ柴又周辺に住み続けて50年、足を運んで伝説や物語を画像でつなぎ合わせてみました。昔ばなしが、現実の風景とがマッチするように心がけました。

 

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葛飾むかし話,当地を訪ねる、 第3話

2016年08月13日 | 文学  民話&伝説&昔ばなし

      柴又・八幡様の獅子

「葛飾むかし話」が好評につき、第3話をお届けします。


 

八幡様の獅子=物語

     

  むかし柴又の名主、斉藤家には、不思議な頭の宝物がありました。
  ♂じし、♀じし、子じしの三頭の顔は、黒のうるしで塗られ、頭は黒く、つやつやの羽根がたなびいていて、古めかしい中にもそれは勇ましい姿をしたかしらでした。 

斉藤家では、代々伝わるかしらを家の宝として、蔵の中に大事にしまっておきました。

  ところが。
いつのころから蔵のコメが、何者かに食い荒らされるようになりました。戸締りをしっかりしていても食い荒らされるのですから、家の者はほとほと困り果てていました。

  そして、蔵の中に大事にしまって置いたしし頭を、きみわるく思うようになり、とうとうこのかしら(頭)を江戸川に流してしまいました。

  ところが、しし頭は、急な流れをものともせずにのぼって、上手に這い上がってきました。

 

  「おかしな、ししじゃのう。」
と、家のものもふしぎなできごとに、主人も驚いてしまいました。
「このしし頭は、ふしぎな力を持ち、尊いもののようじゃ。」
「そうです。捨ててしまって、はばちが当たります。」
  主人は近所の村人と相談して、真勝院という寺に、子の獅子このしし頭を奉納して、まつることにしました。
    

ところがこの寺が、二回三回と火事になり、みんな焼けてしまいましたが、どういうわけか,このしし頭を持ち出すことができました。
「ふしぎな力を持つししじゃのう」
「これはきっと、神ししじゃあ。」
と、ますますこのしし頭を尊いものと、あがめました。
そして、柴又駅にほど近い八幡神社に、神としてまつることにしました。

 いつのころから、村人は病気もなく、みんなが仲良く暮らせることを祈りながら、このしし頭をつけて、太鼓や笛に合わせ、ししを舞うようになりました。

そして年に一度の秋祭りには、しし頭の先導によって、祭りがはじまり、しし舞を奉納するようになりました。

     

ある時疫病が流行して、村のあちこちに疫病が出始めました。今のように、良い薬もない時代なので、むら人は、この病気の恐ろしさにおびえてしまいました。

「神ししにお願いして、病をむらから追い出していただけないものだろうかのう」
「そうだそうだ、神ししにお願いしよう」
むら人は、八幡様に集まり、一心におがみました。

 

* 以前も、この獅子に関する取材をしました。
昔話と合致しましたので、お届けします。

 http://www.digibook.net/d/0bd48353a0190c796f8bb0f5a955930b/?viewerMode=fullWindow

 

 

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葛飾むかし話,当地を訪ねる、 第2話

2016年08月04日 | 文学  民話&伝説&昔ばなし

小松菜のおはなし
    
お鷹狩りとお昼に出された”おひたし”

 

  前回に、お花ちゃん(お花茶屋)のお話をいたしました。今回も徳川の将軍家がお鷹狩りがに来られた時にまつわるお話です。JR総武線新小岩近くに訪れた。

 

   小松菜のおはなし=物語

 徳川八代将軍吉宗が、今の新小岩方面にお鷹狩りに来られた時のことでした。当時この辺りは家もまばらで、野原でありました。

お鷹狩りで、お疲れになった吉宗公は、お休みになろうとあたりを見回しますと、小さな松があるのに気付きました。そこで吉宗公は、お百姓さんに、

「これこれ、あれは何という松じゃ?」
と、尋ねられました。

お百姓さんは
「ハイハイ。まだあの松には名前がついておりません。」

と、答えましたところ、吉宗公は
「あの松は小さくて形がよいから、小松菜と言う名前にしたらどうじゃ。」

と言われたことから、コマツと言う地名ができたと、伝えられている。

また吉宗公は、狩りがお好きであったことから、たびたび新小岩方面へお出かけになられたようです。

いつものように、お鷹狩りを成されて、お昼近くになり、お休み所として農家に立ち寄られた時のことです。たまたまそこに出された”おひたし”が、大変おいしくお喜びになり、

たくさん召し上がった。
       

「この名は、小松で取れたので
小松菜にしたらどうじゃ。」
と、言われたことから「小松菜」になったと、伝えられています。

 

  *松は原因不明の火事にあい、枯れてしまい今は残っていません。
  *小松菜と名前が付くまでは、新小岩方面では、冬菜なと呼ばれていました。

                    葛飾区児童部児童課発行「葛飾むかし話」から

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  現 地 調 査
 
  そこで、現場に赴き探してみました。
ありました、神社入り口に大きな看板で「小松菜発祥の地」と、境内に入ると記念碑もありました。また、神社裏手に回ると、宮司の家があり玄関入り口に「小松菜屋敷」の看板が掲げられていた。


江戸川区新小岩香取神社、小松菜産土神社の看板です。

   
             小松菜の碑

 


                 新小岩香取神社本殿

 

         香取神社宮司亀井家の玄関口

 

    

香取神社の隣にあります。八代目将川吉宗が鷹狩りに訪れた際、小松菜の入りの澄まし汁を出した香取神社の神主・亀井和泉守の屋敷跡です。現在は子孫である地域歴史研究家の亀井千歩子氏の住居で、日よっては見学が可能です。
先を急いだの外からの見学にしました。(2016,8,5)

                   小松菜まんじゅう

 

 

 

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