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◆事の終わりは、

2014年12月30日 07時06分02秒 | 聖書

その初めにまさり……。(伝道者七・八)

ダビデの主を仰ぎ見よ。その初めがどうであったかを思え。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」あなたはその終わりを見るか。主は父なる神の右に座し、その敵を足台にしようとしておられる。「私たちもこの世にあってキリストと同じような者である」なら、当然十字架を負わなければならない。そうしなければ、決して冠を得ることはできない。あなたが泥の中をはって進むのでなければ、決して黄金の大通りを歩むことはできない。それゆえ、クリスチャンよ。雄々しかれ。「事の終わりは、その初めにまさり……」とある。
うごめく毛虫を見よ。なんと卑しい姿だろう。それが事の初めである。しかし、あの目の覚めるような羽をもち、日光の中にたわむれ、花の杯より蜜を吸い、幸福といのちに満たされている蝶を見るがよい。それが事の終わりである。あなたは死のさなぎになるまでは毛虫なのである。しかし、キリストが現れたなら、キリストのありのままの姿を見るので、キリストに似た者となる。主に似た者となることを覚えて心を安んぜよ。あなたが目を覚ますその時には、主のようになっていることを見いだして満ち足りるであろう。
天然のダイヤモンドは、研磨機にかけられてその全面を削り取られ、一見貴重と思われる部分までも失わなければならない。王の戴冠の際には、喜びのラッパとともに王冠が王の頭上に置かれ、その冠からはまばゆいばかりの光が輝く。しかしその光は、直前まで研磨機によって悩まされ痛めつけられていたあのダイヤモンドから出ている。このダイヤモンドに、あなた自身をなぞらえてみるがよい。あなたは神の民の一人であり、今は玉を磨く時なのである。信仰と忍耐をもって待て。王冠が永遠不朽の王の頭上に置かれるとき、一条の栄光の光があなたからも流れ出るであろう。
「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。」まことに「事の終わりは、その初めにまさる」のである。

 


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