トシコロのありのままの暮らし


  世田谷カフェとの交信の必要性で、登録しました。それ以外の皆さんもよろしくお願いします。

コーラの医学的問題

2017-11-13 11:39:16 | 日記
  コーラは、歯や骨の主要成分であるカルシウムを消す働きがある燐が含まれているから、骨粗鬆症患者と妊婦には非常に悪い影響がある事が誰でも判ると思う。骨粗鬆症患者はその症状が重くなる事が推察されるし、妊婦の場合、その胎児の骨が溶けたら、死産や重い身障児に生まれる事も十分考えられる。


  日本の水は軟水で、カルシウム分が非常に少ないから、日本では非常に影響が強くなるだろう。

  1990年代に日本では、以上の問題が医者たちから提起され、話題になったが、今では忘れられたようである。しかし、日本では、骨粗鬆症患者がその後も増え続けている。高齢者の増加が一番の原因だが、果たしてそれだけだろうか。コーラを多飲する人たちにもそうなる例がかなりあるのではないか。

  身体障碍者の場合、骨粗鬆症にかかれば、二重障碍になるわけだから、特に大変である。

  コーラが好きな人はチーズなど、カルシウム分の多いものを捕食するとか、しなければならないのではないか。

  それから、どうもコーラは依存症になりやすいようである。僕は50年くらい前からそのような話を見聞きしてきたから、疑問に感じ続けた。「私はコーラ中毒だ」と自分で言っていた人もいたし。何がそうさせるのか。まさか、コカインみたいな麻薬成分ではないだろう。そのようなものがあれば、世界的に販売禁止になるし。でも、例えば、現在の科学では検出されない依存症物質がないとは誰にも言えないし。それとも、燐+炭酸+砂糖の重複効果が依存症の原因なのか。現代科学も発展途上だが、とにかく、依存症になる事は何かの原因があるはずだから、その面を医者の皆さまたちは考慮して欲しいし、それ以外の皆様もおかしさだけは感じてほしいわけである。

世田谷の児童間の新しい付き合い

2017-11-07 12:42:38 | 日記
  昨日書いたものとも関係しますが、今の日本ではほとんどが一人っ子であるため、家で遊んでもつまらないと子供たちは感じるのか、学年を越えて子供たちが遊ぶ光景が世田谷区の多くで見られると、親戚の方から聞いた事があります。何分、その家の子供も小学生の時は学年の非常に離れた子供たちとよく遊びながら、社会性を身に付けたそうです。また、公立学校でも、学年を越えた交流を指導しているとか。無論、例えば、40年前は世田谷区でもそのような光景はなかったです。子供たちの遊び仲間は同学年か、兄弟姉妹に限られていました。


   いつからそのようになったのかは僕は知りません。しかし、一人っ子化が進み、自然にそうなっていったわけですね。親や先生が指導したわけでもないのに。

  世田谷に限らず、そのような環境の中で育った子供たちは命の事を先生に聞いても「みんなの命だ。自分の他、他人の体も大切にしなければならないんだ」と思い、思いやりや連帯意識も育ってくるわけですね。その延長で福祉の心も。ヘルパー育成に限らず、福祉社会の根も生まれると。

  そう言えば、僕が育った光明養護学校でも、生徒数が少ない関係で、小中高と学年を越えた付き合い・遊びが盛んでした。教室間の距離の関係から、3学年以内に限られていましたが、それでも楽しかったし、高等部の時は学年を越えて、社会や漢詩の話をした思い出もあります。余り参考にはならないかもしれませんが、僕の大事な思い出なので、述べたわけです。

  (追記すると、世田谷では、長年住んでいる住民も増えているから、子供たちの間にも以上の現象が起きている面がある。新興住宅地の場合は、恐らくは以上の現象も起きず、子供間も難しい状況ではないのか)


日本の大量殺人事件と、命の教育の欠陥

2017-11-06 13:19:11 | 日記
  昨年の相模原障碍者施設に引き続き、今年も大量殺人事件が起きました。殺された人たちは最初は自殺志願者と容疑者は語りましたが、それはウソである事が判りつつあります。事件の詳細については、警察の今後の発表を待ちたい所ですね。又、一昨年も複数の中学生が殺害された事件も思い出されます。殺害された生徒たちの親御さんの悲嘆は今も軽くなっていません。忘れてはならない事件です。




  今回の容疑者は1990年生まれでした。他の二人の犯人もその世代です。1990年代後半に日本では、小学校の中で児童による殺人事件が起き、それ以降は日本中の学校が「命を尊重する教育」を強力に行なうようになりました。以上の犯人・容疑者もその教育をしっかり受けたはずですが、どうして他人の命を粗末にする事をしたのでしょうか。考えこんでいる人も多いでしょう。ひょっとして、先生から「命」の大切さを聞いても、多くの子供たちは単に「自分の命」の事しかイメージできなかった。他人の命の事には想いが寄らなかったのではないでしょうか。日本もまだ昔ながらの近所付き合いが残り、大人の延長で子供同士も学校で友達になる所もあるようですが、近所付き合いがなく、公立学校でも父母同士も付き合わないため、子供同士も全く友人にならない所も今は非常に増えていると聞いています。そのような学校で先生がいくら「命の大切さ」を教えても、生徒たちは「自分の体を大事にしなさい」としか理解できない事が容易に想像できます。しかも、親の多くも子供たちには友人付き合いの事は教えず、自分の進学や職業の事ばかりを教える例が多くなっています。ならば、尚更、他人や社会の事は思えない子供に育ってしまうわけです。




  ならば、命の教育よりも、「人々の連帯の教育」の方が大事になってきます。日本人だけでなく、外国人とも連帯する事が。そうしていけば、殺人事件だけでなく、世界平和にも積極的に貢献できる人物を日本は輩出できます。(19世紀から1945年に掛けて、かなりの国では国民連帯を国家指導者が説いた。国民間は連帯できたが、外国人への敵対心が強まり、果ては大きな戦争にもなった。連帯を説くのならば、全人類としないといけないと僕は考えています。戦争はあってはなりません)




  この問題は非常に難しいものを含んでいるので、今後も書いていきます。