トシコロのありのままの暮らし


  世田谷カフェとの交信の必要性で、登録しました。それ以外の皆さんもよろしくお願いします。

伊藤まつさんとの初外出・その2

2015-05-19 13:17:28 | 日記



  その計画は冬の内に決まっていた。まつさんも大変楽しみにしていたが、予定の一ヶ月前に、伊藤まつさんは「私は(ハンセン氏病後遺症で)顔が醜い。世間の人たちがジロジロ見るから、行きたくない」と弱気な事を言い出し、H会の一人で、後にナースになったM子が「何を言っているの。そんな弱気ではダメ。それに、(脳性まひを持つ)荒井氏も一緒に行く訳だし。みんなで楽しく食べよう」と言い、まつさんは少し考えて、「荒井氏と一緒ならば、ぜひ行きたい。楽しみだわ」と気を取り直し、行く事に決めたわけである。

   ハンセン氏病差別のとらえ方は元患者によって一人一人違うわけである。伊藤まつさんみたいな例もあれば、「世間に感染を恐れられた」事ばかりを訴えている例、「遺伝性だと誤解され、一族が差別された」事を話している例、「戦前の政治権力が隔離した。政府が憎い」と言っている例とか。ムリもないと思う。脳性まひ問題でも、脳性まひ者間のとらえ方は一人一人違うから。昔、脳性まひ者の会を作ってみたが、脳性まひのとらえ方が各自違い、結局はすぐ潰れた例もあった。そのような団体も多かったはずだ。元患者にしろ、脳性まひ者にしろ、人生経験も、性格や物の見方も本当に一人一人違うから、障碍ごとにくくる事はできないし、障碍から人をつなぎ、コミニティはできないと思う。

  今日はここまで。「初外出」は非常に大きな体験で、説明も必要なので、分けないと書けない経験である。

伊藤まつさんとの初外出・その1・前説明

2015-05-18 16:55:21 | 日記



  1981年5月のある日曜日。東京都・東村山の国立ハンセン氏病療養所・多磨全生園の個人部屋に住んでいた伊藤まつさんというおばあさん元患者。そこに僕と、全生園サポート会のH会の人たちが集まり、タクシーに乗り、少し北の清瀬という町の中華料理屋に行った。五体満足の人にとっては、中華料理店に行くことは何でもない事だろう。でも、まず、障碍を持つ者にとっては介護者が必要だから、難しい。その他にも、元患者には難しいものがあるらしい。前説明からすると、伊藤まつさんは元々療養所の外の世界に関心が強く、77年に福祉団体の合宿で来た僕にも積極的に声を掛け、付き合いを求めてきて、あと、僕の多くの友人たちのことをしきりに聞いてきて、僕も手紙でよく話したものである。サポーター的な人たちも自然についてきて、ニュースを聞いては政治のことや、学校問題などの話も若者たちにしてくれた。

  また、絵をいろいろ描く傍ら、食べ物にも関心が強く、早い時期から「フランス料理でも、ロシア料理でも、何でもいいから、食べてみたい」と言っていた。一職員も「多くの人が訪れて下さるから、気候の良い時は外出してはどうか」とアドバイスもして、話し合った末、まつさんは油ものも食べられるし、柔らかい物が多いから、中華料理にしようという事に決まり、伊藤まつさんにとって一番体に合う季節である5月に行くことにしました。

  今日のお話はここまでです。本当は一気に書き上げる予定でしたが、長くなりそうなので、分けて書く事にします。

  基本的には、ハンセン氏病問題も、脳性まひ問題も文章化や言葉化はできないと僕は思っています。実際、脳性まひ者の書いた脳性まひ問題の本にしても、元患者の書いたハンセン氏病問題にしても、著者は一生懸命書いてはいますが、肝心なことが伝わっていないようで、それを読んだ人たちはそれらの問題を誤解する例がかなりあるわけです。僕も両問題は基本的には書けません。とは言え、かなり過去とは言え、事実を書くのなら良いだろうと思い、書くことに決めたわけです。それも今回は行った5月を選んで。毎日続けて書きますので、どうぞお読み下さい。

伊藤まつさんとの初外出・その1・前説明

2015-05-18 16:54:30 | 日記



  1981年5月のある日曜日。東京都・東村山の国立ハンセン氏病療養所・多磨全生園の個人部屋に住んでいた伊藤まつさんというおばあさん元患者。そこに僕と、全生園サポート会のH会の人たちが集まり、タクシーに乗り、少し北の清瀬という町の中華料理屋に行った。五体満足の人にとっては、中華料理店に行くことは何でもない事だろう。でも、まず、障碍を持つ者にとっては介護者が必要だから、難しい。その他にも、元患者には難しいものがあるらしい。前説明からすると、伊藤まつさんは元々療養所の外の世界に関心が強く、77年に福祉団体の合宿で来た僕にも積極的に声を掛け、付き合いを求めてきて、あと、僕の多くの友人たちのことをしきりに聞いてきて、僕も手紙でよく話したものである。サポーター的な人たちも自然についてきて、ニュースを聞いては政治のことや、学校問題などの話も若者たちにしてくれた。

  また、絵をいろいろ描く傍ら、食べ物にも関心が強く、早い時期から「フランス料理でも、ロシア料理でも、何でもいいから、食べてみたい」と言っていた。一職員も「多くの人が訪れて下さるから、気候の良い時は外出してはどうか」とアドバイスもして、話し合った末、まつさんは油ものも食べられるし、柔らかい物が多いから、中華料理にしようという事に決まり、伊藤まつさんにとって一番体に合う季節である5月に行くことにしました。

  今日のお話はここまでです。本当は一気に書き上げる予定でしたが、長くなりそうなので、分けて書く事にします。

  基本的には、ハンセン氏病問題も、脳性まひ問題も文章化や言葉化はできないと僕は思っています。実際、脳性まひ者の書いた脳性まひ問題の本にしても、元患者の書いたハンセン氏病問題にしても、著者は一生懸命書いてはいますが、肝心なことが伝わっていないようで、それを読んだ人たちはそれらの問題を誤解する例がかなりあるわけです。僕も両問題は基本的には書けません。とは言え、かなり過去とは言え、事実を書くのなら良いだろうと思い、書くことに決めたわけです。それも今回は行った5月を選んで。毎日続けて書きますので、どうぞお読み下さい。

伊藤まつさんとの初外出・その1・前説明

2015-05-18 16:54:30 | 日記



  1981年5月のある日曜日。東京都・東村山の国立ハンセン氏病療養所・多磨全生園の個人部屋に住んでいた伊藤まつさんというおばあさん元患者。そこに僕と、全生園サポート会のH会の人たちが集まり、タクシーに乗り、少し北の清瀬という町の中華料理屋に行った。五体満足の人にとっては、中華料理店に行くことは何でもない事だろう。でも、まず、障碍を持つ者にとっては介護者が必要だから、難しい。その他にも、元患者には難しいものがあるらしい。前説明からすると、伊藤まつさんは元々療養所の外の世界に関心が強く、77年に福祉団体の合宿で来た僕にも積極的に声を掛け、付き合いを求めてきて、あと、僕の多くの友人たちのことをしきりに聞いてきて、僕も手紙でよく話したものである。サポーター的な人たちも自然についてきて、ニュースを聞いては政治のことや、学校問題などの話も若者たちにしてくれた。

  また、絵をいろいろ描く傍ら、食べ物にも関心が強く、早い時期から「フランス料理でも、ロシア料理でも、何でもいいから、食べてみたい」と言っていた。一職員も「多くの人が訪れて下さるから、気候の良い時は外出してはどうか」とアドバイスもして、話し合った末、まつさんは油ものも食べられるし、柔らかい物が多いから、中華料理にしようという事に決まり、伊藤まつさんにとって一番体に合う季節である5月に行くことにしました。

  今日のお話はここまでです。本当は一気に書き上げる予定でしたが、長くなりそうなので、分けて書く事にします。

  基本的には、ハンセン氏病問題も、脳性まひ問題も文章化や言葉化はできないと僕は思っています。実際、脳性まひ者の書いた脳性まひ問題の本にしても、元患者の書いたハンセン氏病問題にしても、著者は一生懸命書いてはいますが、肝心なことが伝わっていないようで、それを読んだ人たちはそれらの問題を誤解する例がかなりあるわけです。僕も両問題は基本的には書けません。とは言え、かなり過去とは言え、事実を書くのなら良いだろうと思い、書くことに決めたわけです。それも今回は行った5月を選んで。毎日続けて書きますので、どうぞお読み下さい。

一昨日のフェイスブック投稿の補足

2015-05-18 15:46:36 | 日記
  土曜日の投稿の補足ですが、「ものは考えよう」という日本のことわざ通りかもしれません。というのも、僕の場合は外出介護を簡単に頼めない状況があるから、2月に書いた「バリアフリー床屋」のように、ヘルパーさんではない人が外出介護をしてくれて、「ボランティアとは何か」という長年の問いの答えも見つかったわけだから。これも素晴らしい事でした。もし、僕が常時介護体制ならば、それはあり得ず、長年の課題も見出せなかったわけだから。物事はうまくできていると思いましょう。