高校時代、日本の映画監督の羽仁進著『放任教育』の中で「友情ほど、当てにならないものはない」という言葉に出会い、考えさせられたものだった。ある意味ではそうかもしれない。「友愛政治」の件でも判るように、友情の根は理性なので、そればかり追求しても、価値観が違う人を次々と切り捨てていき、しまいには自分が狭くなってしまうと思われるからだ。僕もそのような人たちも複数見てきたし。羽仁進氏は1928年生まれなので、ソ連のスターリンの事もよく知っている世代だから、あるいは、その事も頭にあるのかもしれない。
とは言え、友人関係もある意味では良いものだと思う。フェイスブックに登録している諸々の「友人」を見てみると、僕とは必ず共通目的、何かの接点や、通じる価値観のいずれかがある場合に限られている。その内のどれかがあれば、国籍を越えて友人になれる。でも、日本人同士でも、その3つ共、当てはまらない人たちとは友人にはなれない。徹底した法則である。
良いものには違いないが、友情からの幸福感は僕も得られていないし、得られるはずもない。理性からは幸福感は得られないからである。これに対して、まともな恋愛からは幸福感が得られるが、それは「命」に根ざしたものだからだと思う。幸福感は命が作り出すものである。(日本では、結婚後、不幸になり、離婚する例が非常に多い。愛と甘えを混同する例が多いからだと思われる。甘えとは、相手に優しさを期待して求める行為であり、自己中心的なものであり、相手を生かす=愛とは大違いなのだが。この問題は非常に深いものがあるので、日を改めて書くかもしれない)