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その手話会の行方と、僕との絡み

2016-09-26 13:22:08 | 日記
  大村益次郎関係のブログの最後に書いた、ある大学の手話会。僕は1977年12月で止めましたが、その後は学生の会員が増えたそうです。但し、学生たちは遊び感覚で手話をやり、ふざけ始めた。一方、耳の聞えないKは、当時の日本の聾唖(ろうあ)者たちの置かれた悲惨な状況を話した。当然、ギャップが出ますね。又、耳や言語が不自由な人たちにとっては手話は非常に大切なものです。それをふざけた感覚でやる事は気持ちとして許せないものがあったでしょう。それ故、両者は次第に大ゲンカになったと聞きました。僕も所属していた福祉会の人たちも板ばさみみたいになり、困ったと聞いた事があります。半年くらい続いたかな。夏休みになり、自動的に休戦になり、そのまま手話会は潰れ、語り継がれる事もなかったわけです。残念だと思います。


  今思うに、構成員全員の意思疎通が欠落していました。まじめに取り組んでいた人たちも手話を「覚える」感覚でしていた。Kに対し手に限らず、メンバー全員が自分の事を余り話さなかった。それならば、Kの事も誰も判らず、ふざける人も出てきますよ。

  更に、最近気が付きましたが、Kは僕にも話し掛けなかった。僕は落ち着いた79年には彼に時々手紙は書いたのに。Kはもっと僕に近付かないといけなかったと思います。何故なら、僕も重い言語障碍は持っていますが、同時に手も不自由で手話は不可能だから。手話は肩と腕を本当に酷使します。手話通訳に肩を壊す人が多いと聞いた事もあります。実際、体の関係で手話ができない聴覚障碍者や言語障碍者もかなりいるでしょう。また、手話を覚える事が苦手な聴覚・言語障碍者も。Kが僕に非常に関わり、知った場合、そのような多くの人たちの事を考える基礎にもなったのに。彼の為にもなったのに。残念ですね。肩や腕の問題がある以上は手話にこだわらなくても良いと今の僕は思いますが。早い話、筆談の方が判りやすいはずなのに。

  また、言葉が通じない事は非常に辛く、悲しく、寂しいものです。Kは「ろうあ者の気持ちはろうあ者にしか判らない」とどこかの場で言ったとも伝えられましたが、それならば、電話も使えないだけ、言語難が重い僕は最初からかなり彼の気持ちは判っていたわけです。彼は「聞こえない」、僕は「話せない」の違いだけで。僕がKの件にこだわるのも、自分の事が深く絡んでいるからです。そんなものでしょうね。

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