トシコロのありのままの暮らし


  世田谷カフェとの交信の必要性で、登録しました。それ以外の皆さんもよろしくお願いします。

ボランティア続き

2021-09-04 19:26:15 | 日記
 「ボランティアは自己・自発意志に基ずく、他者の為の行為」とも昔の僕は何度も聞いています。現に、それに基づいて活動されていた方たちともたくさん僕は交流した。でも、二つの問題があった。「意志とは何だ」という抽象的で難しい問題。誰も判らなかった。
 もう一つは「人間の意思はしょせん、うまいものを食べ、酒を飲み、楽しくやる事さ」という見方。または、お見合い的な行動とか。それで福祉会がいつの間にか、飲み会やグルメ会、お見合い会みたいになり、潰れていったわけです。「人はパンのみに生きる者にあらず」とはあっても、以上の声には反論は難しいですね。人の意志の弱さを僕もたくさん見たし、自らの意志も当てにならない事も悟っています。僕などに「ボランティアは関わり」と教えて下さった職員は、人の意志の弱さをもっと知り尽くしているわけですね。
  強いて言えば、関わりと自発意志は関係あるのかもしれない。関わり合わなければ、自発意志も出てこないでしょうから。「人は社会的動物」、単独では何も出てこないかもしれません。関わり合っても「グルメや酒」しか頭に浮かばないような人たちの問題は僕には判りません。述べられないわけです。
  ボランティアの問題は継続的に議論した方が良いかもしれませんね。

 ボランティアとは何か

2021-09-04 11:35:33 | 日記
  「しっかり関わる事」。その言葉しか、良い日本語訳はないだろう。現に、1977年、島田療育園のプロテスタント信徒の職員からそのように教えられた。僕にも以下の事を話された。まとめると

 「ボランティア・愛・関わりの3つは同じ言葉なの。仲良くする事が愛ではないわ。あなたは身体介護はできないけれど、園生たちの話し相手と、島田の事を世間に伝える事はできる。その2つでしっかり関わってちょうだい」。

  その通りである。古くから訳語にされている「奉仕・尽くす」は、相手にして上げる感覚が強く、関わりという意味は出ないから、違うと見ている。

  後年の僕は、全ての人間関係が以上だと見ている。確かに、親子、兄弟姉妹、夫婦、恋人、友人間、先生と生徒、ヘルパーさんと要介護者、...。みなそうである。マルクスの述べた資本家と労働者の関係もそうだし、政治家と国民の間もそうである。本当は特別な事ではないのだが、その言葉が広まった昭和戦後の時代は何故か児童や障碍者への関わりだけをボランティアと呼んだから、狭くなり、広まっていない面はある。また、「して上げる」事だとばかり思い、「関わり」に気が付かず、中途半端な関わりになり、相手に怒られるとか。更に言うと、以上は全て「相互に関わり合う」、一方的にはあり得ない。例えば、介護ボランティアも、要介護の相手も自分の意思をしっかり伝える関わりをするわけだし。先生と生徒も、先生の教える事を生徒は「しっかり聞く」。しっかり生徒たちも関わっているわけである。僕も一時そうだったし、島田職員の話を反発し、「しっかりした関わりは偽善・ムリ。反ボランティア」と言った人もいるが、関わる事は何も偽善でもないわけだ。人間として当たり前の事だが。

  島田で介護活動ができない僕。「世間に伝える事」は昔はITがなかったし、僕の文筆力も未発達だから、かつてはできなかった。できない時は仕方ない。でも、いつの間にか、ITが発達し、また、夏目漱石の小説を手本にして、小説を書き、果たしているわけである。昔はボランティアと呼ばれる事に抵抗があったが、今は構わないと思うように。強いて言えば、「身障運動兼ボランティア」だと思っている。

   しっかりした関わり合いは太古から人類はしてきた。日本でも、ヨーロッパでも身障者が大切にされてきた物証が発見されているわけだし。全宗教や孔子、孟子も説いている。何もキリスト教にも限らないわけである。江戸時代の日本は盲人が大切にされたが、しっかりした関わり合いがなければ盲人も生きられないわけで、江戸時代も関わり合いは強くあったようだ。でも、金欲か性欲が絡むと関わり合いが崩れて大きなトラブルにもなるようだ。物質主義的な発想も。僕の行った教会関係でも牧師たちは「しっかりした関わり」を説いたが、戦後は日本の資本主義を礼讃し、物質主義的になり、少女たちを性欲の対象とする牧師も現れ、レイプを繰り返し、しかも、教会組織への関わりを優先し、牧師会が隠ぺい。関わり合うのは人であり、組織ではないのに。おかしいわけである。また、レイプ牧師が現れた根の一つも、人を物としか見ない物質主義だろうし。口先だけで、その牧師たちは信徒たちに関わってはいなかったのである。

   因みに、島田療育園も最初はしっかり関わり合っていたが、次第に崩れ、人体実験もするようになった訳である。その様子も描くわけである。手記を書いたM氏との関わり合いはまだ続いている。M氏も僕に色々教えてくれた。それも関わりであり、「ボランティア」。身障園生たちや職員たちもボランティアしていた。「ボランティア」は良い響きである。