トシコロのありのままの暮らし


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1977年9月

2021-09-01 10:25:36 | 日記
  1977年9月の僕の外出状況を述べますと、島田療育園には月2回、多磨全生園の伊藤まつさん部屋には月1回。他、毎水曜夜は福祉団体VYS、毎土曜午後は世田谷の身障会の会合。当時はヘルパーもなく、ほとんどは学生ボランティアの介護で外出していました。世田谷のボランティアには、若い社会人もいましたが。その事を今のヘルパーさんたちに話すと「信じられない」と驚くわけです。今の介護制度では、不可能な外出ですからね。
  その僕が島田やまつさんの所に行ったのは、彼らの個性が魅力的で楽しかったから。それに尽きます。また、当時の若者ボランティアたちは実に多くの身障者に関わりました。当時の僕にもたくさん来ましたが、もっとついてきて、障害が重いのに、ボランティアの介護だけで自立生活を営めた例や、その異性ボランティアと恋に落ち、結婚した例もあります。何故、ボランティアたちは身障者の所に来たのか。僕の島田行きと同じだった事に今の僕は気が付いています。変な同情の例もありましたが、それは少なかった。やはり、身障者一人一人の個性に魅力を、だったと思います。楽しかったわけですね。でも、小学時代から学校で叩き込まれていた「仲よくしなければならない」に対身障者や島田にもこだわり、早くにそれらを止めたボランティアの例もあった。個性尊重ならば、学校で教えられたその事は必要なかったと思いますが。
  どうしてもテレビだと個性は伝わりません。今のパラリンピック選手たちもじかに会えば個性が見えて魅力的だと思いますが、僕の場合、パラリンピックの各感動は島田や伊藤まつさんに比べて、はるかに弱いわけです。
   77年9月に戻しますと、その第2土曜日の会合が夜までずれ込み、王選手のホームラン世界記録の瞬間をテレビで見られなかったのを覚えています。それで良かった。僕にとっては、王選手のホームランよりも、身障会の会合が大事でしたから。今も以上の外出は宝です。因みに、僕は電話が使えないだけの言語障碍がありますが、それが軽ければボランティアの力を借りての自立生活したわけです。その生活も脳裏に想像もして楽しんでいます。