トシコロのありのままの暮らし


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「愛」の意味は「意思疎通」に極めて近いのではないか

2019-12-28 11:14:31 | 日記
まず、漢字(中国文字)の「愛」をじっくり見て下さい。「心を受ける」と書きますね。相手の心を受けるという意味です。でも、黙っていてはそのような事はできません。一緒に何をしてもできない。相手との意思疎通が先にあって、愛の状態が生まれるわけです。また、意思疎通する以上は、相手も同じ状況になるわけです。意思疎通なしには、愛は生じないし、意思疎通している時点ですでに「愛」とも言えましょう。


  漢字は東アジアだけのものですが、例えば、それを知らなかったイエス・キリストも、身障者・盲人・取税人・娼婦などの社会から取り残された人たちに、まず、「何をしてほしいか」と聞いてから、一人一人に合わせた事をしました。インドで生まれたお釈迦様も同じですね。日本の親鸞上人も。彼らは「意思疎通」から始めたわけです。やはり、意思疎通した時点で心は通い、それ自体で社会から取り残された人たちの心はかなり満たされたようです。それ自体が「奇跡」だったかもしれません。

  僕の文もそのような面があるかもしれません。例えば、昔、島田療育園で3人の身障園生と非常に意思疎通できたことが、今書いている小説につながっていますし、全生園の元患者おばあさんの伊藤まつさんと意思疎通重ねた事が、今になり、文にも書けているわけです。逆に、意思疎通できなかった所の人達の事は全然書けませんし、忘れてもいるわけです。

  その島田療育園の園生M氏から「愛」について話を聞きました。ただし、氏も具体的な説明はできなかった。「セックスが愛である」と言っていた人もいました。感情に愛の根拠を置く人とか。更には、日本には、愛は「して上げる」事だと思いこむ人たちも多く、対身障者に限らず、意思疎通を欠いて、相手の望まない事をして、ケンカになる例も多いです。それゆえに、「愛は否定されるものである」と言う人たちも非常に多いわけです。確かに、意思疎通を欠いた愛はおかしいし、それで他人に関わると、互いに状況が悪くなるだけです。それは止めるべきだと。

  意思疎通の究極の姿は色々あると思います。聖母マリアとの意思疎通の究極の姿の生活の人達が、カトリックの修道士ですね。でも、そのような人は少ない。究極の姿の一つが、本当は結婚生活でしょう。常に意思疎通する。だから、教会での神父などの結婚質問のように「悲しむ時も、病める時も、貧しき時も」共に暮らせるわけです。でも、感情=愛だと思えば、そのような事は不可能であり、離婚するわけですね。

  とにかく、今の日本には意思疎通が欠けている。世界もそうかもしれない。だから、戦争も絶えないのかもしれません。

  以上、問題意識を書いてみました。