『春寒し引き戸重たき母の家』 小川濤美子
で半世紀以上も昔のことが思い出されて胸が熱くなった。まだ学齢前のことだ。
母の実家はバスの終点から砂利道を一時間も歩いた山間にあった。
バスから降りて真っ暗な道を眠気を我慢して歩いたことを思い出した。
実家の玄関は黒く重い板戸で、入ると広い板の間があった。囲炉裏に大鍋がかかっていて食器を煮ていたのが不思議だった。
サイダーを初めて飲んだのは母の実家に違いない。泡の出るなんとおいしい水だったか。
台所の洗い物は板の間に引き入れた沢の水で済ましていた。きっと飲料水もそれだったろう。
夜は沢の水音がうるさかった。何よりも馬小屋の一角にあるむき出しの便所が怖かった。
馬は繋がれていたとはいえ、用足しに入ると顔を近づけてくるのだから。
「かいぼり」で捕まえた岩魚は大きかった。夕食の焼き岩魚を手付かずに残したら、朝食にまたでてきて閉口した。やっとの思いで食べた記憶がある。
帰路、駅の待合室でベンチに横になって睡魔と闘っていたとき、天井扇がゆっくり回っていたのが印象的だった。季節は夏だったのだろうが、妹や弟が一緒だった記憶はない。
母がなくなった後、「戸川の水が飲みたい」といっていたことを思い出して、水汲みに立ち寄ったことがあった。
既に昔の家は無く、石垣と屋敷前の祠だけが微かな記憶と合わさった。
遠い昔のことだ。
『竹倒る沢から香るヤブニッケイ妖しき気分にしばし手を止む』
『動力で払いし草は微塵なり山椒香り株は消え失せ』
『栗の穂は淡き色つけ膨らみぬされど敵わず香り焼き栗』
竹が倒れるたびに香気が漂ってくる。竹の倒れたあたりを探したらヤブニッケイだった。
触れただけ香ってくるのはそんなに多くないが、妖しい気分になるのはもっと少ない。
もともとニッキの香りは好みだから、冬のおやつはニッキ飴となっている。
ちなみに夏は「塩飴」春秋は濃厚な「ミルク飴」というパターンだ。
ニッキ飴も以前は購入できた肉桂の細片の入ったものが店頭に並ばなくなった。
ネットで購入先はチェックしてあるが「大げさな」と思いそのままだ。
しかしヤブニッケイの香りは妖しい気分にさせられる。
『障子戸を開ければ射しぬ満月の脇に寄り添う金星の美よ』
『ジュピターに女神二星が寄り添うを次はあるかと残りを思う』
『見上げれば七星高く傾きぬ手水のごとき満天の星』
『オリオンに挑みし雄牛我が星座ひづめでつかめ三ツ星ベルト』
午前は雲行きが不安だった。昼前頃より晴れ渡ってきたが、下り坂の予報はどうなったのだろうか。
それはともかく、作業には気持ちの良い一日で、侵入竹の除伐もはかどって気分がいい。
地元のニュースには度々登場してきた「フキノトウ」にやっと出会えた。
小ぶりで摘むには惜しい。近くにタマゴ大の物がいくつか見つかった。
週末にはこれをゴマ味噌和えで食べれると思っているが、はたして皮算用は?
『見上げれば梢の中の寒空はジグソーピースの落ちたるがごと』
『手袋の皮の冷たき指の先白き軍手に替えて温とし』
『ヒサカキに光奪われ土流る林床既に萌える床なし』
立春ともなれば光の暖かさを感じる それでも朝は冷たいし日陰の部分は指先が痛くなる
朝のかかりは皮手袋が冷たく感じられて軍手に交換することが多かったが今日は大丈夫だった
尾根の大楠が昼ごろから吹いてきた風に揺られはじめた
ゆったりとした動きは見ていて満ち足りたものを感じる
「おいでおいで」のようでもあり「ヨォ!」といっているようでもある
遠くからでも近くからでも巨樹から受ける感覚は特別なものがあるのだ