男児 少壮にして樹立せずんば
此れを挟んで窮老して将た安くにか帰せん 宋・王安石「憶昨の詩 諸外弟に示す」
「一体、どういう事になってしまうのだろうか」などと思わんでも宜しい。姥捨て山の 孤老のようになるだけなのである。しかし少壮にして樹立してしまうと人民民草を泣かし殺すが仕事になる輩が多数出現する今日、地球まで真っ青になってしまった。「君子は政に携わらず」とは子の言葉ではあるがそれは今もって変わらず、だからこその現代「君子に政に携わってもらいたい」のである。政を志すに資格不要だとか言われるものの政こそ智としての資格ならず人心品格志をも併せ持つ人物が必須なのである。首都圏の御屋形様候補掲示板を見れば判る。まあ、当たるも八卦当たらずも八卦、ハッケヨーイ、ハイ、これは姥捨て山の孤老かつ認知症の戯言でもあります。
千村万落 寒食の如く
人煙を見ずして空しく花を見る 唐・韓握「尤渓の道中」
真っ青になった地球の各地、人煙ではなく砲煙と爆炎に明け暮れて寒食すらも得られない場所と人々が満ちている場所がある。花も咲くほどの地上部ではなくなり手向けた花畑が増えるだけなのである。衆愚政治と言う言葉もあるが対極にあるのは愚頭政府であって、鶏頭が牛体を動かす事にそもそもの無理がある。どうしてここまで劣化し尽くしてきたのかは認知症耄碌の道程を歩む姥捨て山の孤老には理解しかねる現象である。首都の御屋形様に手を上げたのが50を超えるとは難多溜痴唖・惨多溜血阿であるとしか胃炎。ホント胃炎に異常接近中と言いたい現象。姥捨て山もそれなりに荒れてはいるけれどそれは孤爺の不徳の致すところ、ブログのいい加減さは「良い加減」であるからよろしいのだ、見るのは勝手だし…。で、いわしの頭も藁人形も木偶の棒も崇めれば神である。ましてや信義則や道理の無い世界で暴れれば国連でも為す術がないのは道理で、この国の石屋の道理の無さもそれらに匹敵「みんなでやれば怖くない」の末法ぶり、「どーりで…」と納得した。
祟り神に除草剤を見舞われている民草には同情する程度の事しか出きんけれど有雑無雑の穀潰し集団を信奉し吸汁を許している民草も哀れである。まあ、みんなで吸われれば痛くも痒くもないのだ。みんな一緒でそれがいい、民草だもの・・・。