病気の子どもに薬を飲ませたところ、腹痛がひどくなる。心配した父親が薬をくれた医者にかけ合うと、医者は「心配いらない。私の薬が病気と闘っているだけだ」▼ところが子どもは死んでしまう。医者に文句を言うと「言った通りだろう。私の薬と闘った結果、病気の方が負けたのだ」。中国の笑い話だが、笑えぬどころか、この医者に腹が立ってくる。病気を打ち負かしても命まで奪う薬では役に立たぬ▼その薬をいやでも思い出させる中国政府のゼロコロナ政策である。新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐ目的で、極めて厳格な都市封鎖や外出規制を続けている▼流行初期に徹底的な人流抑制によって感染拡大を封じ込めた成果を踏まえ、同じ手を使っているが、感染力の強いオミクロン株には効果がそれほど上がっていない▼問題は経済の方で、厳しいゼロコロナ政策が生産、物流の足を引っ張り、景気に深刻な打撃を与えている。それでは、あの強すぎる薬と同じ結果にならないか▼影響は中国にとどまらぬ。「世界の工場」である中国のゼロコロナ政策の副作用は世界的なサプライチェーン(供給網)を混乱させ、物不足を引き起こす危険もある▼中国政府はゼロコロナ政策を見直せば沽券(こけん)にかかわると意地を張っているようだ。誤った薬を投与し続ける方がよほど政権の評判を落としかねないことには気がつかない。
雨が降った次の日、ムーミン谷全体がどす黒くなっているのをムーミンが発見する。空も川も地面も全部、黒い▼「すべてのものが、どす黒いのです。この世のものと思えないほど、気味悪いようすをしていました」。異変の原因は彗星(すいせい)の接近。フィンランドの作家、トーベ・ヤンソンの『ムーミン谷の彗星』である▼スナフキンが教えてくれる。「彗星はひとりぼっちの星で、頭がへんになっているのさ。それで宇宙をころげまわっているんだ」「たいへんさ。地球が、こなごなになっちゃうよ」▼作品が発表されたのは第二次世界大戦が終わった翌年の一九四六年。ヤンソンがおそろしい彗星に重ねていたのはフィンランドと戦ったナチス・ドイツだったかもしれない▼ムーミンたちは「洞窟」に隠れ、彗星接近の難を逃れたが、ロシアという新たな彗星の接近にフィンランドが北大西洋条約機構(NATO)という「洞窟」に逃げ込もうとするのは自然だろう。米ソ対立の時代にも軍事的中立を保った同国が方針を転換し、NATOに加盟申請すると表明した▼ロシアのウクライナ侵攻にはウクライナのNATO入りを阻む側面があったが、その暴挙がフィンランドを警戒させ、NATOへとかじを切らせた。同じく、中立だったスウェーデンもNATO加盟に動く。「彗星はひとりぼっち」−。スナフキンの言葉がよみがえる。
フィリピンで独裁体制を築いたマルコス政権が倒れた一九八六年の革命。八三年にマニラ空港で起きた民主派指導者アキノ氏暗殺への人々の怒りが下地となった▼亡命先の米国から戻り、航空機を降りた直後に凶弾に倒れたが、日本などの同行記者が機内にいた。タラップに向かうアキノ氏の姿や機外に出た後の銃声をとらえた映像を分析し、事件の謎に迫ったTBSの番組『報道特集』のコピーのテープがフィリピンに出回った。英語の吹き替え版も登場し、秘密上映会も開かれたという▼八六年の革命では、政権に反旗を翻した軍の部隊がテレビ局を占拠し、独自の放送が始まった。街頭で政権打倒を叫んだ人々の姿は各国に中継された▼テレビ時代の革命から三十六年。先の大統領選でマルコス氏の長男が勝った。交流サイト(SNS)を武器に戦ったという▼父の治世の経済成長や治安を美化するメッセージを発信。人権弾圧は「反対派の捏造(ねつぞう)」といった情報も飛び交い、当時を知らない若い世代に支持が広がった。不利な質問から逃れるためか、テレビのインタビューや候補者討論会は避けた▼マルコス氏の長男は現職ドゥテルテ氏の路線を継ぐという。司法手続きを経ない殺害もいとわぬ強権的麻薬犯罪対策は庶民に支持されたが、批判した放送局の電波は止められた。自由を求めた革命の記憶は風化してゆくのだろうか。
ロシアの文豪ドストエフスキーには人生がかかった「締め切り日」があった▼約束の日までに長編小説一本を書かなければ契約によって以降九年間、ドストエフスキーが書いた作品はいっさいの印税なしで、出版社が出版権を持つことになっていた。ロシア文学者、原卓也さんが書いた『賭博者』(新潮文庫)の解説に教わった▼当時は雑誌に『罪と罰』を連載中で別の長編を書く余力がない。友人の知恵を借り、速記者による口述筆記で書くことにした。わずか二十七日間で完成させ、締め切りを守ることができたそうだ。その作品が『賭博者』である▼同じロシアの「締め切り」でもこちらの方は守られなかった。守られなかったのが幸いである。九日の対独戦勝記念日。プーチン大統領はこの日までにウクライナ侵攻で大きな成果を上げ、国威発揚につなげたかったが、ウクライナの抵抗によって曲がったたくらみはついえたといえる▼人道を無視した残虐な攻撃も九日までの成果を狙ってのことか。特段の成果を残せなかったことで、むしろ、士気を高めているのはウクライナの方である▼「正義のために戦っている」。プーチン大統領のこの日の演説もむなしく、大統領を支持するロシア国民にもこの戦争への疑問が広がる可能性もある。ドストエフスキーの友ではないが、撤収を促す知恵ある友は大統領にはいないものか。
アジア系初の米政府閣僚として足跡を残したノーマン・ミネタ氏は、静岡県出身の両親に育てられた日系二世▼日米開戦時は十歳で出生地カリフォルニアの学校で何人かの子にこう怒鳴られたという。「おまえが真珠湾を攻撃したんだ」▼当時の困惑をこう語る。「自分はアメリカの敵じゃない、でも、敵とそっくりの顔をしているからには、きっと敵ということになるんだろう。だって、その子たちはそう思っているのだから」。彼の生涯を描いた米在住作家の著書『十歳、ぼくは突然(とつぜん)「敵(てき)」とよばれた』(もりうちすみこ訳)にあった▼ミネタ氏の訃報が届いた。戦時中、両親らと日系人強制収容所で過ごした体験が下院議員などとしての活動の原点だったようだ。米中枢同時テロでイスラム教徒への偏見が広まったが、ブッシュ(子)政権の運輸長官として容貌や信仰を理由とする搭乗拒否に反対した▼民主党系ながら、共和党政権でも閣僚をした人らしく、トランプ政権以降の両党の対立激化を嘆いていた。かつてレーガン大統領が署名し米政府が強制収容を過ちと認めた「市民の自由法」成立はミネタ氏の功績だが、レーガン氏と同じ共和党の上院議員アラン・シンプソン氏も尽力した。ボーイスカウトの一員として強制収容所を慰問し、ミネタ氏と出会った旧友である▼党派や人種の分断を超える努力を継がねばなるまい。