<こみ合へる電車の隅にちぢこまるゆふべゆふべの我のいとしさ>。石川啄木がこれを詠んだのは二十代半ばか。創作の一方で新聞社で校正係として勤務していた。暮らしのためには働かねばならない。通勤電車の中で「ちぢこまる」自分がいとおしく、褒めてやりたかった▼大人なら啄木に「当然のことだろ」というか。けれど、若い人には大人や社会の当然が重荷でもある。大人になるとは重荷を背負い、あの通勤電車の仏頂面の一員になることかもしれぬ▼成人の日である。重荷? じゃあ良いことないじゃないか。そうでもない。重荷にちぢこまった分、苦労した分、自分や自分の生活が「いとおしく」なる。このいとおしさを手に入れれば、生きることは、ぐっと楽にもなる▼同じちぢこまった人を見て、その人の悲しみや喜びまでも、ぼんやりと感じるということもある。世界全体がいとおしく、生きることはまんざら悪くないと心から思える日も来る▼啄木といい、東北の方は電車でちぢこまる傾向があるのか。井上ひさしさん。娘さんが聞いた。「どうしてパパはそんなに小さくなって電車に乗るの?」。人の迷惑にならぬよう。それが社会性だと教えたそうだ(『夜中の電話』井上麻矢さん)。これも大人への切符の一枚▼大変か。心配無用。大半の大人は小欄も含め大人になる訓練を続けている。たぶん一生。