散歩のついでに・・・

犬も歩けば棒にあたる。デジカメを常に持ち歩き、気ままに撮った写真を中心に思い思いに綴っています。

鶴見の古道(鶴見神社-寺尾道-獅子ヶ谷市民の森)

2008-07-21 21:39:58 | 古道
ちょっと鶴見に用事があり、行ったついでに散策。
鶴見の古道と呼ばれている小杉道か寺尾道かどちらかを歩いてみようと旧東海道から少し入った鶴見神社からスタート
鶴見神社は往古は杉山大明神と称し、境内地約五千坪を有する社であったそうです。その創建は推古天皇の御代(約1400年前)と伝えられて横浜・川崎間最古の神社だそうです。
主祭神
杉山大明神と天王宮の二社相殿で杉山大明神 - 五十猛命を祀っていて、天王宮 - 素盞鳴尊を祀っています。
横浜市地域有形民俗文化財
平成18年11月1日登録
寺尾稲荷道道標は、旧東海道の鶴見橋付近から寺尾・小杉方面への分岐点にあった三家稲荷に建てられていたもので、一村一社の神社合祀令によって、大正年間に三家稲荷が鶴見神社境内に移された時に、移されたものと思われるそうで、昭和30年代前半頃に、鶴見神社境内に移されていた三家稲荷の鳥居前の土留め作業を行なった際、道標が埋没しているのが発見され現在の場所に設置されています。
神社を抜けて隣の公園を更に抜けてJRの高架をくぐり、三角交差点へ進み、レアールつくの商店街のアーケードを歩いて行きます。
アーケードの途中の左路地横に地蔵堂があったので撮影。
ぼてふり地蔵といい、堂横の『ぼてふり地蔵尊縁起』によると江戸時代ハマグリやアサリをてんびん棒で担ぎ売り歩く行商人をぼてふりさんと呼んでおり、生麦村や潮田村から寺尾や末吉のお屋敷町に向うぼてふりさんは三角のお地蔵様の前で一休みし、出立の時にお地蔵様を倒して行き『早く荷が売れたら帰りに起してあげるから』と願を掛けた帰りに再び起して願解きをし、手を合わす事から地蔵様は『ぼてふり地蔵』と呼ばれるようになったそうです。
この地蔵堂には近隣から集めた地蔵様も祀られています。
商店街のアーケードを抜けると道は4方向に別れます。文政年間に編集された『新編武蔵風土記稿』に記された追分がこの地点と思われます。
右が古道の小杉道、左の小机に抜ける寺尾道になるそうで、昔はここに地蔵堂があり、地蔵塔の側面に道標が刻まれていたそうですが、現在はなくなってありません。
現在の諏訪坂と右の末吉道との間に細い坂道があり、間の細い坂が旧諏訪坂です。
諏訪坂の町名の由来となっているこの坂の途中に『諏訪馬之助館跡』があります。古くは諏訪山と称して、永享年間(1429-1440)に小田原北条氏の家人であった諏訪三河守が、殿山(現馬場町)に城を構えたとき、そこから東北に延びる丘陵の突端にこの館を築いたそうです。
『武蔵風土記稿』に諏訪家屋敷として『海道より右方へ5・6丁ゆきて丘上にあり一株の大松あり是諏訪午之丞(馬之助)居住ありし所にて其頃前の松なり、故二土人今も諏訪の松といえり』とあります。
文久元年(1861)4月、老松のあった根元の塚を掘ったところ、古い石棺が出て、中から数々の遺物が発見され、後にこの塚は諏訪山古墳として奈良時代のものと指定されました。
諏訪馬之助館跡の解説の板の前に路駐をしている車があり、解説板全体をきれいに撮影できず、こんなレイアウトになりました。
坂を上り切ると住宅街でどの道が古道なのか判らなくなりました。
どちらに進めば良いか判らずウロウロと歩き回っていた所、細い階段状の坂の下に神社らしきものを見つけたので、取りあえず階段を下りて神社横へ。
小さい社で名前は確認できませんでしたが、隣の諏訪坂公園に目を向けると何やら石仏や石碑を発見。
公園の入口にあったのは、『諏訪坂古墳石棺蓋石と道標』で先程の追分に以前、置かれていたお地蔵様がこちらに移転させられていたようです。
側面には『是より末吉道』としっかり刻まれています。
道路整備(拡張)などで古碑を撤去してしまうのは問題だと思いますが、移動したならば移動したで、移動先をちゃんと記しておいて欲しいものです。
多分、道に迷わなければこの公園には来なかったでしょうし・・・。
公園前の道を迷ってウロウロとしている時に見つけたアパート前のお地蔵様。
由来は判りませんが、アパート入口付近に祠に鎮座しています。
風雨により削られており良く判りませんが、ひょっとして馬頭観音かもしれません。建立年も読み取る事はできませんでした。
このまま迷子になってしまってはどうしようもないので携帯のGPS機能を使って寺尾道と判っている響橋を目的地に設定してナビで歩いて行く事にしました。
途中、目的地が響橋の下、第二京浜になっていることに気付いて目的地を修正。
おかげで山から一旦下の第二京浜に降りてしまい、昭和坂を上る事になり無駄な時間と体力を使ってしまいました。響橋を渡ったところに享保元年(1716)建立の庚申塔がありました。
橋の左側を渡ってすぐ後ろを振り向いた所にあり、何気なく歩いていると見過ごしてしまいそうです。
また、このように古道などを歩いていると残念に思う事として、このような庚申塔や石仏の近くはゴミの集積場として利用されている事が多く、もう少しちゃんとした扱いをしても良いのではないかと非常に残念です。
橋を渡ると道は二叉に別れていて左の道に進むとすぐの左手に祠がありお地蔵様が納められています。
二体安置されており、小さい方のお地蔵様は天明年間(1781~1788)に建立されたようです。
しばらくそのまま道を歩いて行くと鶴見排水池信号があり、右後方から合流する道の角にこの馬頭観音があります。
文化二年(1805)建立。
古道を歩いていると辻ごとに周りを見回し、石仏や石塔がないか確認をしなければなりません。
昔の人は目印として、安全祈願として辻に石仏や石塔を建立していたようですので旧道(古道)を探して歩く目安になります。
ただ、近年は道路拡張や宅地開発が進んで道が変更されたりして、昔(明治期)の地図が頼りといった事も多いようです。
ここまで歩いて来てこの後も歩いて行くかバスに乗って最寄り駅から帰るか、ちょっと悩みました。
携帯のGPS機能を使って地図を表示させると獅子ヶ谷市民の森がここから1.7キロ。
ナビ機能に任せて寄ってみる事にしました。
住宅街の細い路地を抜け、坂を下り上りしてやっと到着!
森の中の小道を下って広場で休憩。
水道があったので顔と手を洗い、ついでにシャツを着替えて一服!
デイバックも汗で濡れています。肩ベルトからは塩が吹いていました。
広場を抜け降りて行くと再び、住宅街。
住宅街の裏山が市民の森となっているようなので右手に森を見ながら、再び森に入って行ける道を探しながら歩いて行きました。
画像左手奥の地蔵は、享保3年(1718)に建立されたもので『子授け地蔵』とか『車地蔵』と呼ばれているそうです。
お堂の左側の柱には、小さな木の車が取り付けられています。
この車は『地蔵車』または、『後生車』とも呼ばれ、これを回す事によって六道の苦難から救われると信じられ、後生安楽に成仏すると言われてきたそうです。
この車地蔵が建っている峠道は、江戸時代、鶴見から師岡・綱島方面に至る唯一の街道だったらしいです。
残念ながら、今回は歩き疲れてしまったので、この峠道を歩くのは断念しました。
森を右手に見ながら歩いて行くと西谷戸池というのがあり、池の水は地下水をポンプで汲み上げているそうで、この地下水は綱島温泉で有名なように茶褐色をしています。この色は地下に堆積している落ち葉などの植物の腐食等による有機物が溶け込んでいると考えられているそうです。水質は飲む事はできないそうですが、生物や植物に有害なものでないそうです。(鯉が泳いでいました
携帯のナビ機能を使って二つ池を見て帰ろうと思ったんですが、朝充電したにも関わらず電池切れ寸前。
こんな所で迷子になるのはかなり恥ずかしく、ちょっと焦りましたが周りを見回すと何やら茶色い大きなショッピングセンターのような建物の一部が見えます。取りあえずその建物を目指して歩きます。
トレッサ横浜。(トヨタテクノクラフトの工場とトヨタグループの物流拠点の跡地に出来た首都圏初のオートモール複合施設)
雑誌か何かで見た事がありいつか行こうかと思っていましたが、寄ってみる元気もなく、頭の中は早くバスに乗って近くの駅まで行く事のみでバス停を探し帰路へ。
バス停に着くとすぐに新横浜駅のバスが来たので乗り210円払って新横浜駅へ。
久しぶりに新横浜駅に来ましたが、駅ビルを作っているのは知っていましたが、完成した駅ビルを見るのは今日が初めてです。立派なビルです。
店舗もいくつか入っているようですがこのビル全部がテナントなんでしょうか?
大型商業施設?
残念ながら今回はここもパス!
頭の中は帰る事しか思いつきません。次回ゆっくりと見に来たいと思います。


本日のルート

クリックするとALPSLABのルートマップが表示されるので『▶』ボタンでクリックしてルートを確認して頂けます。
コメント (2)
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