AKB48 チームBのファンより

鈴木紫帆里さんを中心にAKB48 チームB について語るサイトです。

山口百恵

2013-03-30 07:06:58 | 注目の記事
昨日アクセスが2000台から4000台に増えましたが、アクセスが多かった記事を再録します。


山口百恵時代のアイドルは、処女と思われていたのか疑問です(ナッキー) Michael(ゆうじ48)さん投稿その2

Michael(ゆうじ48)さん投稿の中に、山口百恵という固有名詞が、昔の時代のアイドル像として、次のように語られています。

しかし、多くのAKBのメンバーが、古くからのメンバーも、山口百恵の時代に生きていないのに、山口百恵のようなアイドルのイメージに頑張ってる。そしてぐぐたすとかで活躍したりして、ソーシャルメディアを利用してファンへ強めの「全身がアイドル」ということを無理にも受け取らせる。
昔のアイドルのイメージを捨てなきゃならない。多元の社会では純粋なアイドルが存在しません!とファンの人も覚悟して欲しいです。

感想:
脱線しますが、モバメ、Google+を読むと、現代のアイドルは、「全身がアイドル」というより、「24時間アイドル」という仕事で、休まる間もない。

本論に戻って、Michael(ゆうじ48)さんの意図を理解している自信はないのですが、
山口百恵と昔のアイドルは、処女のイメージで、恋愛禁止は当然だったけど、AKB48は、昔のアイドルのイメージを踏襲しなくてもよい。多元的な価値観が多様化した時代のAKB48は、処女のイメージが故に好かれているわけではあるまいという意味でしょうか。

そうだとすると、山口百恵の時代をリアルタイムで体験している私は、逆だと思います。
山口百恵の時代のアイドルは、アイドルというジャンルが確立していない時代で、芸能人はみんな汚れているという通念がありましたから。

一例として、アイドルではありませんが、1970年に15才でデビューした女優の自伝を引用します。歌手をやっていない女優ですから、現代に置き換えると、宮崎あおいか、堀北真希的なポジションでしょうか。
彼女の自伝の中には、マスコミとのインタビューで、「初体験はしたんですか?」という質問には「小学6年生のときに終えました」。と答えたと書いてあります。

島崎遥香が、「小学6年生の時に初体験」と答えても、ジョークにしか思われないでしょうが、
1973年デビューの山口百恵が、「小学6年生の時に初体験」と答えていたら、それはありえる話だなあ、と当時は思っただろうと思います。

当時のアイドルは、芸能界という汚れた世界に飛び込むだけタフな(処女ではないと言われても納得してしまう)雰囲気を持っていました。

山口百恵の時代は、女性歌手=セックス経験者という前提がありましたし、アイドルのスキャンダルが多発した時代です。

宇多田ヒカルの母、1969年デビューの藤圭子。70年のレコード大賞曲では、「昨日マー坊、今日トミー、明日はジョージかケン坊か」と歌う、不特定多数の男性とのセックスをしているイメージ。アイドルとは言われていなかった藤圭子ですが、19才の若い女性。

天地真理、歌手デビュー前にトルコ風呂で働いていたという週刊誌報道の後、トップアイドルの人気急落。ありえる話だという納得感がありました。

南沙織、デビュー2年目くらいに、「付き合っている男性がいます」とテレビ番組で告白。周りに説得されて、歌手はつづける。

山口百恵、桜田淳子他多数のアイドル・芸能人が、報道されたスキャンダルは嘘偽りと裁判に訴えた。

この裁判の記者会見で、桜田淳子に対して、「桜田淳子さん、あなたは本当に処女なのですか」という質問が飛んで、「処女です。」と答えた時の桜田淳子の顔の迫力を私は忘れない。
「非処女と疑われていますけど、処女なのですか」という文脈だったので、芸能界ではそれが常識なのだろうと、当時は思いました。

以下、ある女優の自伝の引用です。途中で当時の芸名が出てきます。ナッキー


 あれは中学2年生のときのことでした。私たち家族の写真は府中市の行きつけの写真館に現像を頼んでいたのです。デジタルカメラが普及した今では想像できないかもしれないけれど、記念写真やスケッチ写真を撮影したら、写真館に行って現像してもらわなくてはなりません。その日も私は母と2人で、写真館に撮影したフィルムの現像を依頼しに行ったのです。すると…。現像を頼んでいる中学2年生の私のことを、じっと見つめている大人の男性がいるじゃありませんか。

 その男性は私の隣にいる母に近づき、「娘さんを女優にしてみるつもりはありませんか?」と声をかけてきたのです。えっ!? 一体、何なの? 私は戸惑うしかありませんでしたが、とりあえず母と一緒に詳しい話を聞いてみました。その男性、実は映画会社「大映」のスチールカメラマンで、「将来性がありそうな人材をスカウトしている」と説明してくれたのです。

 結論が出るとすぐにカメラマンの方に連絡を取り、中学卒業後の大映入社を前提にいろいろなアドバイスを受けました。そのなかのひとつに、「ミスコンで箔をつけろ!」というものがありました。「ミス○○」という肩書があれば、女優デビューに際して「ミス○○が映画デビュー」というキャッチコピーができる。出演作品によりインパクトが与えられるというわけです。

 さらに、この当時芸能関係者には2年後の昭和45(70)年に10代の少女を対象にした新しいミスコン「ミスセブンティーン」を開催することが通知されていて、カメラマンの方は「第1回ミスセブンティーンコンテストに出場してみてはどうか」と勧めてくれました。問題はその新しいミスコンの審査対象に歌が含まれていることでした

 当然のことですが、演技にしても歌にしても、私は本格的なレッスンを受けたことなんてありません。演技については大映入社後にもじっくり勉強することができるでしょうが、歌はそういうわけにはいきません。「ミスセブンティーン」の予選大会はすぐに始まるからです。

 私はそれから間もなく歌のレッスンに通いだしました。歌うことは幼いころから好きですし、本格的なレッスンを受ければ、もっとうまくなれる手応えもありました。ですが、私の通っていた相模原市の歌の教室には想像を絶する天才少女がいて――石川さゆりとしてのちに歌手デビュー。

 私はといえば「ミスセブンティーン」コンテストの予選を通過し決勝大会の最後の3人には残ったものの、優勝はできませんでした(グランプリは宮野凉子)。歌のレッスンのかいなく?グランプリを逃したのはちょっとだけ残念ではありましたが、歌手やタレントを目指していたわけではありません。中学卒業後に大映に入社し、専属女優になることは内定していましたから、あとは予定通り行動すればいいだけのことです。

 ただ、両親にとって、ここから先の私の行動は予想外のようでした。物心がついたときから中途半端なことは大嫌いな性格の私は、中学卒業後は高校に進学せずに、女優に専念することを決めたのです。

 昭和45(1970)年4月、私は専属女優として大映に入社しました。高校には進学せずに、中学卒業直後の入社でしたから、まだ15歳です。当時はすでに「高校に進学するのは当たり前」。当然のことながら両親には反対されました。

 その上、映画業界全体が斜陽化していて、正式入社前には私をスカウトしてくれた大映のスチールカメラマンの方が「これからはテレビの時代だから」と、同じ大映でもテレビ部を紹介してくれたほどです。私自身は女優になれるのならどんな場所でもよかったし、テレビ部に入社してもいいと考えていました。映画へのこだわりは特にはなかったのです。

 ところが、テレビ部の方との面接では「君はテレビ向きじゃないな」とひと言いわれて終了…。具体的な理由は一切言われなかったので、自分なりに考えてみたのですが「15歳にしては大人びているから」くらいしか思いつきません。こうして「結果的に」映画でデビューすることになるのですが、このことが後に運命を変えることになるなんて想像できませんでした。

 演技については全くの素人ですから、入社後に一から勉強でした。私は大映最後のニューフェース(将来の主演女優候補)でしたので、それなりに期待されていたらしく、4月からの3か月間、スタッフが総力を挙げて手取り足取り演技レッスンをしてくれました。そのとき教えていただいたことは、今でも私の体に染み付いています。

 レッスンに励んでから2か月目のことでした。撮影所の所長室に呼び出されました。そこでデビュー作が当時の流行作家・富島健夫さん原作の「おさな妻」と決まったと通告されました。富島さんの原作は「青春小説でも性の問題は避けられない」とのポリシーから、過激な性描写が盛り込まれていることで物議を醸しました。

 むろん、私も原作は読んでいましたし、リアルな性描写があることも知っています。原作に忠実な映画化だとしたら、ヌードシーンもあることでしょう。いくら大人びて見えるとはいえ、このときの私はまだ15歳の少女です。恥ずかしくないわけがありません。避けられるものなら、ぜひ避けたい――。これが本音でした

 ですが、一方でプロ意識もありました。所長命令とはいえ、言い渡された時点で「はい、やります」と答えてしまったのは私自身です。他の誰でもありません。「やります」と答えたからには、出演しなければならない責任があります。目の前の責任から逃げるわけにはいかないのです。

 もしもテレビ部に入社し、テレビドラマでのデビューだったら、こんな悩みなどなかったでしょう。斜陽化している映画でのデビューだからこそインパクトの強い仕掛けが必要だったのです。私は覚悟を決めました。そして、「おさな妻」撮影に備えているときに…。 中略

 こうして、私のデビュー作は代役での主演と決まりました。それがこの年の8月に公開された「高校生ブルース」です。ヌードシーンの撮影での恥ずかしさは何とか乗り切りましたが、公開前の宣伝活動で私は驚くことになります。「高校生ブルース」が10代の少女たちのリアルな性の実態を描く“大映レモンセックス路線”の第1弾に位置づけられていたからです。

 もちろん、私には何も知らされておらず、そんな路線の映画ができるなんて寝耳に水。しかも、この路線の第2弾は本来ならデビュー作だった「おさな妻」だというではありませんか…。2作続けて10代の性を描く映画に主演しなければならない。想定を超える事態の連続に、私はどうしていいのか分かりませんでした。

 当然、取材陣の関心は15歳の少女の私がヌードを披露し、リアルな性描写に挑戦したことにありました。今振り返ってみると、質問が10代の性、特に私自身の性体験に集中するのも仕方がなかったと思います。なにしろ会社側がレモンセックス路線を大々的にあおっていたのですから。

 ですが、私にとってはすべてが初体験。単純に「質問が性の問題ばかりなのは、なぜだろう?」と感じてはいましたが、質問には「本当のことを答えなさい」と命じられていたので、本心のまま答えていました

 興味本位としか思えない質問をする人もいましたが、素直だった私は努めて丁寧に答えるようにしていました。例えば「初体験はしたんですか?」という質問には「小学6年生のときに終えました」。ところが…。百戦錬磨の取材陣にとって、ほとんどの質問に本音で答える私は絶好の“獲物”だったようです。

「新人女優・関根恵子は本当に不良だった!」。こんな見出しでオーバーに書かれた記事は、それでもまだマシでした。あたかも私が「高校生ブルース」の主人公以上の、数多くの性体験をしているといった内容の記事も多く、「なんでこうなるの?」と驚いたことを覚えています。

「高校生ブルース」の実際の内容はともかく、公開前に書かれた記事だけを読むと「ものすごい映画」とカン違いした映画ファンの方も多かったのではないでしょうか。

 ですが、会社側は大量の記事が掲載されただけで大満足の様子でした。今の私なら宣伝効果の何たるかは分かっていますが、この時は会社が大喜びしている理由をよく理解できずに、不思議に感じていたものです。

「高校生ブルース」だけでも、マスコミによって「本物の不良少女・関根恵子」のイメージが作られてしまいました。本来ならデビュー作のはずの「おさな妻」が11月に公開されると、そのイメージは確立されてしまいます。

「本当の私は映画のような少女じゃない」。そう主張するつもりならできたかもしれませんが、それも今思えば…ということ。あのころは作られたイメージを否定するなんて、思いもよりません。それに加えて、私には未熟ながらも女優としてのサービス精神のようなものが芽生えていました。

 周囲が期待する通りに、イメージ通りに、積極的に振る舞っていたのです。「奔放な不良少女・関根恵子」を期待されるなら、その期待に応えないと――。この結果、私の実像とイメージはさらにかけ離れていくことになります。

引用終わり
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