しっとりとしたバラードで、久しぶりにおばあちゃんの田舎に遊びに行こうという歌。
アンコール前の最後の曲にふさわしい、爽やかな曲だと思っていた。
CDでじっくり歌詞を聴くまでは。
おばあちゃんは既に亡くなっている。
海の見える丘の墓地で眠っている。
現実的な想像をすると、おばあちゃんの家には現在、伯父さんの家族が住んでいるのだろう。曲の前半でスイカの種を飛ばす従兄を登場させているのは、そういう意図だろう。
人によってまちまちだが、身近な人の死をはじめて経験するのは、祖父か祖母という人は多いだろう。
私も、高校生の時、父方の祖母が亡くなった。祖母には可愛がってもらっていたし、悲しかったが、同居していた訳ではなかったので、それで自分の生活が大きく変わることはなかった。そのことが何か釈然とせず、祖母の死を題材にした小説を書いたりもした。
今思うと、はじめて直面した身近な人の死を、うまく受け止められなかったのだと思う。
『潮風の招待状』の中の少女も、祖母の死を消化するのに、少し時間を要したのだろう。
しかし今は、「大人になった私のこと 見守っていてね ずっと」とおばあちゃんに呼びかけることができるようになった。
『潮風の招待状』は、爽やかなだけではなく悲しい歌だ。悲しいだけではなく凛とした曲だ。
自殺した友人のことを歌った『否定のレクイエム』(K5th)と対比するなら、天寿を全うした(と思われる)祖母のことを歌ったこの曲は『肯定のレクイエム』とも言えるだろう。
AKBメンバー達と同世代の、私の二人の娘も、小中学生の時に祖父と祖母(つまり私の父母)の死を経験した。高校生の私がそうだったように、はじめて直面した身近な人の死を、うまく受け止められたかどうかわからない。
それでいいのだと思う。
会社の同期入社や、少し年上の芸能人などの訃報には、否が応でも死を身近なものに感じさせられる。
それ以上に、自分に子ができて、子の成長を見るにつれ、死を特別なものではなく自然の流れであることを、理屈ではなく実感できるようになってきた。少しだけだけど。
ところで、私の母方の祖母は100歳を過ぎて健在だ。
ひ孫達の(つまり私の娘達の)写真を焼き増しして、久しぶりに送ろうと思い立ったのは、明日が「敬老の日」だからではなく、『潮風の招待状』がきっかけだったことは、説明が難しいので言わないでおこう。
アンコール前の最後の曲にふさわしい、爽やかな曲だと思っていた。
CDでじっくり歌詞を聴くまでは。
おばあちゃんは既に亡くなっている。
海の見える丘の墓地で眠っている。
現実的な想像をすると、おばあちゃんの家には現在、伯父さんの家族が住んでいるのだろう。曲の前半でスイカの種を飛ばす従兄を登場させているのは、そういう意図だろう。
人によってまちまちだが、身近な人の死をはじめて経験するのは、祖父か祖母という人は多いだろう。
私も、高校生の時、父方の祖母が亡くなった。祖母には可愛がってもらっていたし、悲しかったが、同居していた訳ではなかったので、それで自分の生活が大きく変わることはなかった。そのことが何か釈然とせず、祖母の死を題材にした小説を書いたりもした。
今思うと、はじめて直面した身近な人の死を、うまく受け止められなかったのだと思う。
『潮風の招待状』の中の少女も、祖母の死を消化するのに、少し時間を要したのだろう。
しかし今は、「大人になった私のこと 見守っていてね ずっと」とおばあちゃんに呼びかけることができるようになった。
『潮風の招待状』は、爽やかなだけではなく悲しい歌だ。悲しいだけではなく凛とした曲だ。
自殺した友人のことを歌った『否定のレクイエム』(K5th)と対比するなら、天寿を全うした(と思われる)祖母のことを歌ったこの曲は『肯定のレクイエム』とも言えるだろう。
AKBメンバー達と同世代の、私の二人の娘も、小中学生の時に祖父と祖母(つまり私の父母)の死を経験した。高校生の私がそうだったように、はじめて直面した身近な人の死を、うまく受け止められたかどうかわからない。
それでいいのだと思う。
会社の同期入社や、少し年上の芸能人などの訃報には、否が応でも死を身近なものに感じさせられる。
それ以上に、自分に子ができて、子の成長を見るにつれ、死を特別なものではなく自然の流れであることを、理屈ではなく実感できるようになってきた。少しだけだけど。
ところで、私の母方の祖母は100歳を過ぎて健在だ。
ひ孫達の(つまり私の娘達の)写真を焼き増しして、久しぶりに送ろうと思い立ったのは、明日が「敬老の日」だからではなく、『潮風の招待状』がきっかけだったことは、説明が難しいので言わないでおこう。