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海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

第4代アンクス王・第5代タルクィヌス王

2020-04-30 19:37:32 | 世界史

初代国王 ロムルス 在位:紀元前753ー717
② ヌマ(Numa Pompilius)  
     在位:紀元前715-673
③ トゥルス・ホスティリウス(Tullus Hostilius)
    在位:紀元前673-642
④ アンクス・マルティウス(Ancus Martius)
    在位:紀元前642ー617
⑤ ルキウス・タルクイヌス・プリスクス(Lucius Tarquinius Priscus )
    在位:紀元前616-579

==《リヴィウスのローマ史 第1巻32ー38章》=
   Titus Livius   History of Rome
              translated by Canon Roberts
国王トゥルスが死んだので、慣例に従い、統治権は元老院に移った。元老院は臨時国王代理を指名し、国王の選挙にあたらせた。人々はアンクス・マルティウス(Ancus Martius)を国王に選んだ。元老院は選挙結果を承認した。新国王の母は第2代国王ヌマの娘だった。
王となったアンクスは自分の祖父の治が偉大であった理由を思い起こした。また前王トゥルスについて次のように評価した。トゥルスの治世がほとんどすべての点でか輝かしかったが、ただ一点だけ誤りがあったために、ローマに不幸をもたらした。トゥルスの誤りは宗教を無視したことであり、神々への正式な儀式を怠ったことである。そこで新王アンクスはヌマの時代の宗教の儀式に戻ることにした。それで大神官に命じて、ヌマの説明書に従い、公共の場所で儀式を再現させた。ローマの人々だけでなく近隣の国家の人々も平和を望んでいたので、新王が祖父の性格を受け継ぎ、祖父の時代を再現することを期待した。
しかしトゥルスによってみじめな経験をさせられたアルバ人と彼らの同族であるラテン人はローマの新しい国王が平和的な傾向を見せると、ローマに対する復讐の好機ととらえ、ローマに侵入した。ローマが撤退を求めると、彼らは傲慢な態度で拒否した。ローマの新国王が礼拝所と祭壇で時間を過ごすことを知っていたので、ラテン人はローマを侮っていた。新国王アンクスはヌマの性格を受け継いでいたが、ロムルス的な一面もあった。ローマは若い国家であり、人民は攻撃的だったので、新王アンクスはヌマの時代の平和が必要だと考えていたが、平和政策によって受け継いだ国家を破壊するかもしれないことに気づいた。彼の忍耐が試されただけでなく、彼は侮辱された。こうした場合、求められる国王はヌマではなくトゥルスであった。アンクスはまず外交的な礼儀を守りながら、戦争の危機に対処しようとした。いきなり戦争を仕掛ける簿は野蛮であり、手順を踏んで戦争を開始するのが文明国のやり方だった。そこで彼はローマ北東のアエクイ人の法律を参考に、外国との紛争に関する新しいを制定した。

外国の敵対行為を停止するよう求める際、現在ででもユピテルの神官団(Fetials)はアンクスの法律に従っている。手順は以下の通り。
大使は羊毛の鉢巻きをして、紛争相手国の国境まで行き,次のように宣言する。
「ユピテル神よ! 正義よ! 私はローマの国民によって正式に権限を与えられた使者である。私の言葉を信じて欲しい」。
6それから彼は要求を読み上げ、証人としてユピテル神に呼び掛ける。「私が正義に反して人々または品物を要求するなら、私は2度と祖国の血を踏むことがなくなっても構わない」。
彼は国境を越えてから再び同じ言葉を繰り返し、通りで出会った最初の人に、同じことを言う。それから門に入る時、広場に入る時、少し言葉を変えながら繰り返す。もし33日以内にローマの要求が実現しない場合、ローマは戦争に訴えることになるが、その際全権を与えられたローマの大使が再びラテン人のところに行き次のように宣言する。
「ユピテル、ヤヌス、そして地上と地下のすべての神々を証人として、我々はラテン人に宣告する。諸君は不誠実であり、神聖な義務を怠った。重大な結果を招くことになるが、その前に私はこの件につき我々の元老たちに相談しなければならない。その決定に従い我々は正当な権利を行使するだろう」。
大使たちはローマに帰り、国王アンクスは元老院に次のように述べた。
「今度の紛争と結果について、ローマはラテン人に警告し、ローマの要求を伝えたが、ラテン人は我々の要求を無視した。これについて諸君の考えを聞きたい」。最初に指名された元老は答えた。
「ローマが受けた損害は正当な戦争によって賠償されるべきです。私は戦争を支持します」。
続いて残りの元老が順番に意見を言った。多数の元老が戦争に賛成した。
ローマの習慣に従い、ユピテルに仕える神官が、先端に血が付いた槍または先端が焼けた槍を掲げて、ラテン人の国境に行った。それから彼は最低3人の成人に向かって言った。
「ラテン人がローマに重大な損失を与えたので、ローマの元老院と人民は戦争を決定した。それに従い、私はローマを代表して貴国に戦争を宣言する」。
言い終わるとピテルの神官は持っていた槍をラテン人の領土に投げた。以上がローマがラテン人に賠償を求め、拒否されたのち、戦争を宣言した経緯である。以後ローマはこの形式を踏襲した。
外交と戦争を専門とする上記の神官(Fetial)の役目が終わると、別の神官たち(Flamen)がいくつかのいけにえの儀式をして、勝利を祈願した。国王アンクスは新しく兵士を招集し、ラテン人の町ポリトリウム(Politorium) に向かった。(ポリトリウムはローマの近くにあったらしいが、正確な位置はわかっていない)。
ローマ軍はポリトリウムとの戦争に勝利した。国王アンクスはロムルスやトゥルスの例に従い、ポリトリウムの全住民をローマに移し、彼らをローマ市民とした。ローマ人が最初に住んだのはパラティーノの丘であり、次にサビーネ人がカピトリーヌの丘に住み、砦を築いた・その語アルバ人にはアヴェンティーノの丘が割り当てられた。ポリトリウムの人々はアヴェンティーノの丘に住むことになった。


ポリトリウムとの戦争に続き、ローマはテレナエ(Tellenae)とフィカナ(Ficana)との戦争に勝利し、2つの町の住民をローマに移した。
訳注)テレナエはローマのすぐ南に位置し、テベレ川の沿岸にある。フィカナはテレナエの南にあり、テベレ川の沿岸にある(ローマから18km)。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(訳注終了)

国王アンクスが最初に滅ぼしたポリトリウムには、すぐに周辺ののラテン人が住み着いて,再建が始まった。そこでローマはすべての住居を破壊し、人が住めなくした。
ラテン人の3つの町との戦いは容易だったが、4つ目の町メドゥリア(Medullia)との戦いは長引き、疑わしい結果で終わった。(メドゥリアはアニオ川の北、クルストゥメリウムの南東。


メドゥリアは要塞化されていて大勢の守備隊がいた。守備隊は野営していて、ローマ軍を迎え撃ち、ローマ軍は数回撃退された。最後にローマ王アンクスは全軍を投入し、激戦の末やっと勝利することができた。ローマ軍は莫大な戦利品を持ち帰った。メドゥリアの数千人の住民がローマ市民となった。パラティヌスの丘とアヴェンティーノの間を新しい居住地とするため、ウェヌス女神の祭壇の周囲がメドゥリアの住民に与えられた。さらにテベレ川の対岸のヤニクルムの丘も市内とされた。(ヤニクルムの丘の位置は7つの丘の地図参照)国王はこの丘に市民を住まわせる考えはなく、敵にとって有利な場所となるのを防ぐためだった。ヤニクルムの丘の周囲に城壁を築いてから、テベレ川に橋をかけてローマとの往来を容易にした。これはテベレ川にかけられた最初の橋であり、スブリクスの橋’(Pons Subulicus)と呼ばれた。ローマの南部は敵が侵入しやすかったので、アンクス王は濠(ほり)を掘らせた。
ローマの人口がとても増えたので、それに合わせて元老院の人数が増やされた。また人口増加のために、正義と不正の基準があいまいになり、隠れた犯罪がおこなわれるようになった。無法状態を取りしまるために、町の中心部に牢獄が建てられた。牢獄は町の中央広場を見張るようにすように立っていた。
アンクス王は領土を拡大した。ローマとティレ二ア海の間の地域は森林となっていたが、ここはウェイイの領土だった(ウェイイはテベレ川西岸の都市)。アンクス王はこの地域(テベレ川沿岸部)をウェイイから奪い、ローマは海に接するようになった。テヴェレ川の河口に港町オスティアが建設された。またテベレ川の河口の両岸に塩を取るための穴が造られた。
アンクス王の戦勝の結果、勝利をもたらす神ユピテルの神殿が拡張された。
アンクス王の時代に、ルクモという名前の、金持ちで野心的な男がローマにやって来た。彼は名声を得たいと願っていたが、故郷のタルクイニア(エトルリア人の都市)では見込みがなかった。彼はエトルリア人ではなく、彼の父はギリシャ人であり、コリントの出身だった。従ってタルクイニアで彼はよそ者だった。彼の父デマラトゥスは革命によってコリントを追われ、タルクイニアにたどり着いた。

タルクイニアでデマラトゥスは結婚し、2人の息子をもうけた。ルクモとアルルスという名前だった。アルルスは妻と子を残し父より先に死んだ。その後まもなく父が死に、ルクモが全財産を受け継いだ。デマラトゥスの遺書には、彼 より先に死んだ息子アルルスの遺児について何も書かれていなかった。デマラトゥスの孫である男の子は貧しかったので、エゲレイス(捨て子という意味)と呼ばれた。一方ルクモは全財産を受け継ぎ、金持ちになったので傲慢になり、タナクイルとの結婚により野心的になった。タナクイルはタルクイニア(エトルリア人の都市)でで最も有力な家族の娘であり、結婚によって自分の地位が下がるのを嫌った。ルクモは外国から避難してきた人間の息子だったので、エトルリア人から軽蔑されていた。彼の妻はこの不名誉を我慢できなかった。彼女は祖国と縁者への愛着を忘れて、夫が名誉ある地位に着くことを望み、タルクイニアを去ることにした。ローマが彼女の目的を実現するのに適した場所だった。ローマは新しい国家であり、そこの貴族はすべて貴族になったばかりで、先祖の功績によっでなく自力で地位を得たのだった。したがって勇気と活力のある人物が活躍するチャンスがあった。サビーニ人であるタティウスがローマの国王(ロムルスと共同の王)になったことを、彼女は知っていた。また第2代国王のヌマはサビーネの町クレスの住民だった。現在の王アンクスの母はサビーネ人だった。アンクスは第2代国王ヌマの孫であるが、ヌマはローマ貴族の生まれではなかった。
ルクモの母はエトルリア人だが、父はギリシャ人だったので、ルクモはタルクイニアに未練はなく、何より野心に駆られて、妻の提案を受け入れた。夫妻は財産をまとめてローマに移った。
ルクモ夫妻がヤニクルムの丘に至った時、馬車に乗っていた夫妻のところに鷲がゆっくりと舞い降りてきて、夫の帽子を奪い取り、馬車の周りを飛んだ。それから鷲は天の使いであるかのように馬車のまわりを飛びながら大きい声で何度か鳴き、帽子をルクモの頭にそっと戻すと、飛び去った。
ルクモの妻タナクイルはエトルリア人であったので、天の啓示を読み取るのが得意だった。彼女は天意を知り、大喜びで、夫に言った。
「あなたを導く偉大な運命を信じなさい。鷲が伝えたのだから」。
鷲が最初に姿を現した場所は鷲が神の使いであることを示していた。また人間の手で被った帽子を、鷲が取り上げ、天の使いである鷲がそれを再びかぶせたことは、ルクモが将来王冠をかぶることを意味していた。
ルクモ夫妻は幸運を期待し、希望に胸を膨らませローマに入った。市内に住居を得ると、ルクモはルキウス・タルクイヌス・プリスクスと名乗った。彼は裕福な外国人だったので、すぐに有名になった。ルキウス・タルクイヌスと名前を変えたルクモは礼儀正しく振る舞い、客人を豪勢にもてなし、そして親切な行為によって、多くの人の信頼を勝ち取った。彼の評判は宮廷に伝わった。
ルキウス・タルクイヌス(旧名ルクモ)は宮廷に招待されると、巧みな応対によって国王に気に入られ、国王は戦争と平和のどちらにすべきか、など国家の問題について彼に相談するようになった。ルキウス・タルクイヌスは性格と能力を審査され、国王の決定により、王の子どもたちの保護者になった。
第4代国王アンクス・マルティウスは24年統治した。国内統治と対外戦争において、彼の能力と評判を超える後継者は出現しなかった。彼の息子たちはもうすぐ成人に達しようとしていた。ルキウス・タルクイヌスはますます次の国王の選挙が待ち遠しかった。彼はたくらみを抱き、少年たちを森に借りに行かせた。
ーーーーーーーーーー(訳注)ーーーーーーーー
少年たちがどうなったかについて、リヴィウスは何も書いていない。またこの時点でアンクス王の統治が終わったようであるが、リヴィウスは王の最後について一切書いていない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー(訳注終了)
伝説によれば、ルキウス・タルクイヌスは国王に立候補した最初の人物である。彼は平民の指示を得るために演説をした。
「私は前例のない要求をしているのではない。以前にも、外国人でありながら国王になろうとした、人物がいる。もし私が最初の外国人であるなら、驚いたり、憤慨したりする人がいるかもしれない。しかし私は3人目だ。
ティトゥス・タティウスはサビーニ人であり、ローマの敵だったのに、ロムルスと共同の国王になった。第2代国王のヌマもサビーネ人であり、ローマに住んでいなかったのに、ローマに呼ばれて国王になった。私についていえば、父の死後財産を処分し、妻と一緒にローマに来た。私がエトルリアの町に住んでいたのは幼少時代だけであり、成人になってからはローマで暮らしている。最高の教師であるアンクス王から私はローマの法律を学び、市民生活と軍隊の儀式を学んだ。私は誰にも負けないほどアンクス王に忠実に仕えた。他人を気前良くもてなす点で、私はアンクス王に劣らない」。
ルキウス・タルクイヌスが述べたことは事実だったので、ローマの人々は全会一致で彼を王に選んだ。タルクイヌスは多くの点で素晴らしい人間だったが、彼はこれまでの王のように人々に望まれて王になったのではなく、自らの野心によって王位を獲得したのだった。そして王になってからも彼の野心はなくならなかった。国家を強大にするス努力と同じくらい、タルクイヌスは自己の権力を強化することに努めた。例えば、彼は元老院の人数を100人追加した100名の追加元老はタルクイヌスのおかげで元老になったのでかれの忠実な支持者となり、元老院で派閥を形成した。
王となったタルクイヌスの最初の戦争は、ラテン人に対するものだった。彼はアピオラエの町を急襲し、多くの戦利品を持ち帰った。(アピオラエの位置は分からないが、ローマの周辺)。アピオラエは小さな町だったのに、ローマ軍は大量に掠奪した。タルクイヌスは勝利の祝祭をこれまでより華々しく盛大に催した。競技がおこなわれた場所はシルクス・マクシミウスと呼ばれた。(シルクス・マクシミウスはパラティーノの丘の南側のふもと)。競技の種目が平民と競技騎士のそれぞれに割り当てられた。また出場者を応援する観客席応援する観客席が設けられた。観客席は木で支えられ、座席の高さは4メートルだった。
競技は競馬とボクシングだった。馬とボクサーはエトルリアから連れてこられた。競技は特に厳粛な祝祭として開催されたが、非常に人気があったので毎年決められた日に行われるようになり、「ローマの競技」とか「大競技」とか呼ばれたった。
タルクィヌス王はフォルム(中央広場)の周囲を商業地としたので、アーケードや店が立ち並んだ。次に彼はローマの周囲に石の城壁を造る準備を始めたが、サビーネ人との戦争が始まり、計画は中断された。


コラチアのサビーネ人が突然アニオ川を渡り、ローマに向かって進軍してきた。あまりに予想外だったので、ローマ軍は彼らに立ち向かう準備ができていなかった。ローマ市民は恐慌に陥った。
最初の戦闘は双方に多くの死者を出し、決着がつかなかった。サビーネ軍が野営地ビ引き返したので、ローマ軍は戦闘の再開に備えて準備する時間ができた。タルクィヌスはローマ騎兵の弱さに気づき、騎兵の百人隊を2倍にした。騎兵はロムルスが創設して以来変わっておらず、3個の百人隊であり、それぞれ名前がついていた(ラムネス、ティティエセス、ルチェレス)。タルクィヌスの新しい3個の百人隊にも名前が付けられた。
ロムルスが予言を重んじたように、タルクィヌスも当時有名だった占い師アトゥス・ナヴィウスに占ってもらった。占い師は次のように言った。
「鳥が良い兆しを与えるるまで、何も変えてはいけない、何かを新設してはいけない」。
これを聞いたタルクィヌスは怒りのあまり、占い師の能力を見下し、あざけりながら言った。
「占い師なら、私が計画ていることが実現できるか、わかるだろう!」
占い師アトゥスは鳥の兆候を読んでから、「実現できます」と答えた。
すると王は言った。「よろしい。私の計画とは、お前がカミソリで砥石(といし)を切ることだ。ここにカミソリとと砥石がある。鳥たちが『できる』と告げたのだから、お前はやれるだろう」。
占い師はたじろぐことなく、砥石を真二つに切った。
昔、元老院の左側の階段のところに、黒い布をかぶったアトゥスの彫像が立っていた。そこで事件が起きたのだ。彫像のそばに砥石が置いてあった。この像と砥石は奇跡を後代に伝える記念碑だった。
王が統治した時代、占いと占い師たちは畏敬されており、平和の事業であれ、戦争であれ、占いの結果に従って、おこなわれた。もし鳥たちの示す兆候が悪ければ、地区( Curia)集会や百人隊集会などの最高に重要な行事が中断または中止された。従ってタルクィヌスは新しい騎士百人隊を6個にする計画を中止せざるを得なくなリ、現在の3個隊のままにし、各隊の人数を2倍に増やした。それまで騎士百人隊は150人で構成されていたが、300人になり、もはや100人隊とは言えず、300人隊と呼ばれるようにった。3隊からなる騎士の総数は1800人になった。新しいメンバーは新騎士と呼ばれた。
こうして騎士隊が増強されてから、再びサビーネ軍との戦闘が始まった。ローマ軍は騎兵の増強だけで満足せず、巧妙な戦術を用いた。アニオ川の上流に行き、いかだに乗せた大量のまきに火をつけた。燃えるまきを乗せたいくつものいかだが、流れていった。風によってまきは燃え上がるまきを乗せたいかだが橋脚にぶつかり止まり、橋に火が移った。戦闘中のサビーニ人は、退却用の橋が失われ、退路が断たれたことを知った。サビーニ軍は動揺し、あわてて逃亡した。彼らの多くがアニオ川でおぼれ死んだ。サビーニ兵の盾が川を下ってローマに流れ着いた。これを見てローマの市民は勝利の報告が来る前に、ローマ軍の勝利を知った。
この時の戦闘で、サビーニ軍が優勢だったなら、退路を失ってもそれほど動揺しなかったかもしれない。ローマ軍は手ごわかったのである。特に騎兵は実力を発揮した。歩兵を中心に、騎兵は左端と右端に配置された。歩兵が劣勢になった時、両翼のの騎兵が猛烈勢いな勢いで敵に襲い掛かった。それまで優勢だったサビーニ兵は驚いて逃げ出した。サビーニ軍は混乱し、一部は丘に逃れたが。大部分はローマ騎兵に押されてアニオ川に向かった。タルクィヌスはサビーニ軍に立ち直る時間を与えないよう、追い詰めていった。この時サビーニ兵は退却路である橋の焼失を知り、パニックに陥った。
タルクィヌスは捕虜と戦利品をローマへ送った。山のように積み上げられた戦利品はヴルカン神に奉納された後焼かれた。それから彼は軍隊を率いてサビーニの領土に向かった。サビーネ人は戦闘に負けたばかりであり、再戦する準備もできていなかったのに、新しく民兵を集めてローマ軍に立ち向かった。サビーネ軍は再び負け、破滅を避けるために、ローマに講和を求めた。
ローマはコラチアとその領土を手に入れた。タルクィヌス王の甥エゲリウス

コラチアの降伏は以下のようなものだったらしい。
タルクィヌス王はコラチアの使者に質問した。
「諸君はコラチアの使節か?諸君は国民から委任され,降伏を伝えに来たのかた?」
「そうです」。
「コラチアは独立した国民か?」
「そうです」。
「諸君はコラチアの町、土地、水、寺院、神器、国民、これらすべてをローマに引き渡すか?」
「我々はそれらすべてをローマに引き渡します」。
「わかった。私はそれらを受け取ろう」。
サビーネ人との戦争が終結し、タルクィヌスはローマに帰った。その後彼はラテン人と戦争をした。ラテン人が戦争の準備を始める前に、ローマ軍はラテン人の町々を攻略し、ローマ周辺のラテン人を征服した。
ーーーーーーー(訳注)---ーーーーーーーーー
原文ではローマが征服した町の名が並べられている。これらの町について、を地図に示した(①から⑤の町)。
①メドゥリア(第5代ローマ王アンクスのに一度敗れている)。
②コルニクルム(メドゥリアの少し南)
③クルストゥメリウム(サビーニ人の町でロムルスの時代にローマに敗れている。)
④カメリア(クルストゥメリウムの東)⑤Nomentum(クルストゥメリウムの少し南)

⑥Old Ficulea(ローマの北東13km。アニオ川の北にあり、フィデナエの東)
⑦Ameriola(位置は不明)

これらの町はアニオ川の北にあり、サビーニ人の地域に接している。これらの町の征服はサビーニ人を刺激する危険があるが、タルクィヌス王はラテン人の北限地域の支配を固めようとしたようである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー(訳注終了)

戦争が終わると、タルクィヌス王は平時の仕事に熱心に取り組んだ。サビーネ人との戦争により中断された仕事を再開した。ローマの城壁は不完全であり、石垣がない箇所があった。タルクィヌス王はそこに石垣を建設した。この仕事にローマ市民が駆り出されたが、彼らは城壁の重要性を理解していたので、熱心に働いた。城壁が完成すると、タルクィヌスは市内の湿地を改良した。丘のふもとや2つの丘の谷間などの低地は雨が降ると水の逃げ場がなく、水がどんどんたまった。市民生活の中心となっている中央広場の周囲にも水があがった。 タルクィヌスは水路を掘らせ、雨水がテベレ川に流れるようにした。急務であった2つの仕事が終わると、タルクィヌスはユピテルの神殿を新しく建てた。彼の祈願に応えて戦勝をもたらしたユピテル神に感謝するためだった。石工たちに命じて、カピトルの丘の一画を平らにしてから、壮大な神殿を建てた。この丘に建てられた神殿が将来重要な意味を持つようになることを、タルクィヌスは予言していた。

がその地の支配者となった。

 

 

 

 

 

 

 


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